第三十九話 硝煙と香水
夜の倉庫街。空は曇り、月は隠されていた。頼りになるのは街灯のオレンジ色の光だけ。湿った石畳を斑に照らし、その隅で男たちの笑い声が漏れていた。あの扉の向こうに、遺物がある。息を殺し、壁に身を寄せる。錆びた鉄扉の隙間から洩れる声と酒の匂い。聞き慣れた響きだ――油断した声。私は指先に力を込め、鼓動を抑える。
中の様子は、もう目に浮かんでいた。裸電球が三つ、黄色い光を下に落とし、机の上を照らしている。無造作に置かれた遺物。赤錆色の柄を持つ短剣、歯車を模した腕輪、用途の分からない金属片。どれも古代の残滓。金貨の山と交換されるだろうに、彼らはただ酒で湿った手で弄んでいる。
八人。全員が筋骨隆々で、スキンヘッドに革のジャケット。机の中央に座るのがボス。金の鎖、龍の刺青。横には「ジャロ」と「ミゲル」といっていたか、蛇の背中と銀の耳飾りが特徴だ。壁際では三人が木箱を漁っている。残り二人は外で見張り。――配置はもう身体に刻まれている。最初に沈めるのは外。そう決めた瞬間、心臓の音が静まった。夜風が吹き抜け、犬の鳴き声が遠くで一度響く。見張りの注意が逸れた。
――今だ。
影の中から踏み出す。呼吸を止める。背後に回り、剣の柄で後頭部を叩く。鈍い衝撃。もう一人の首に肘をかけ、壁に押しつける。短い呻き。抵抗が途切れる。二人の体が膝から崩れ落ちる音を、私は靴裏で吸い込むように消す。タバコの火が床でじゅっと音を立て、消えた。
中へ。足音を一つも立てず、扉を押し開ける。裸電球の光が目に飛び込む。酒の匂い、油の匂い。机を叩く笑い声。私はすでに動いていた。ジャロは振り返る気配。その顎を蹴り上げる。骨の感触が足裏を跳ね返り、酒瓶が砕ける音が混ざる。ミゲルは短剣を抜く前に、鳩尾を柄で突き抜く。空気が吐き出され、巨体が机に叩きつけられる。
「な、なんだッ――!」
声が上がる。だが遅い。木箱を漁っていた一人の膝を後ろから蹴り折る。軋む音。もう一人の拳をかわし、刃を首筋に触れさせる。凍りついた目。三人目の腕を捻り、関節を逆に折る。呻きが喉に詰まって、崩れ落ちる。一呼吸。部屋には呻き声と酒の匂いだけ。八人の巨体が倒れ伏す。私は剣を収め、残るひとりへと向き直る。
ボス。背丈も横幅も常人の二倍。金の鎖、油と香水の混じった匂い。汗が額から流れている。彼の目が私を捕らえた。恐怖と怒りが入り混じった視線。
「お、お前……何者だ!」
私は答えない。剣を振るう必要もない。刃を彼の首筋に添える。汗が刃に落ち、冷たい光を返す。
「ま、待て……! 金か? 金ならいくらでも――」
私は目を細め、低く言葉を落とす。
「命が惜しければ、情報を差し出せ。……遺物の出どころを」
男の呼吸が詰まる。次の瞬間、首を縦に振る震えだけが返ってきた――。
血と煙の倉庫を抜けたはずなのに、胸の奥のざわめきは消えなかった。そして今、私は別の舞台に立つ。鏡の中の女は、誰だろう――。金糸を織り込んだ照明が髪を照らし、塗り重ねた紅は、もはや見慣れぬ仮面のように微笑みを形づくる。ドレスの裾を滑らかに撫で、吐息で笑みを整える。外の廃墟とは隔絶した、酒と香と欲望が満ちる異界。
「今宵も、あなたが一番よ――」
背後で響くマダムの低い声。銀の鈴を転がすような響き。振り返れば、月光を閉じ込めたような金糸のドレス。指先で開いた扇子は、空気を従わせるための印章だった。その微笑みだけで、ホールの空気が従順になる。私は軽く会釈する。ここでは、微笑みと仕草そのものが武器になる。触れた指先が空気を支配し、息づかいひとつで場を傾けられる。気づけば、ホールの空気そのものが私に従っていた。
ホールの空気は、香水と古酒の甘い香りに満ちていた。低く流れる楽の音。そこに紛れ込むノエラの拙い声が、かえって鮮烈に耳を打った。慣れない手つきでグラスを配り、口角だけを引きつらせた笑顔。客は苦笑し、ノエラの頬は瞬く間に朱に染まる。
「えっと……ご、ごゆっくり……」
「ははっ、緊張してんのかい嬢ちゃん!」
ノエラの背筋はこわばっていた。私は横目で彼女を見て、自然に身を寄せ、客の手に軽く触れる。
「ごめんなさいね、まだ新人で。代わりに、私が楽しませますわ」
作り笑いは仮面。けれど、視線は一瞬でこちらに集まる。空気をつかむ感覚が、手のひらに伝わる。ホールの隅。以前、倉庫で叩きのめしたマッチョ軍団が、真っ白な制服を着せられ、今はボーイやバーテンダーに化けていた。片目に青痣を残した男が、真剣な顔でシェーカーを振る。もう一人は盆を抱え、必死にグラスを落とさないよう立ち回る。
ふいに、隣席の酔った客が、私の膝に手を置いた。私は笑みを崩さず、視線ひとつも動かさない。ただ、口元の弧をわずかに深める。
――その瞬間、カウンターの奥からジャロの小声が飛んできた。
「やべぇ……クレナさんのあの笑顔が出た……」
「バカだな、あの客。次の朝、無事に目ぇ覚ませるといいけどよ……」
隣で盆を抱えたミゲルが、慌ててグラスを支えながら顔をしかめる。
「姐さんに手を出すと死ぬって、もう俺ら身に染みてるからな……」
客は気づかず、私の笑みだけを見て酔いに浸っていた。彼らの小声が耳に届き、私は唇の端をほんの少しだけ上げる。灰と血にまみれた日々から、一転して。この舞台では、私は別の顔を演じている。けれど鏡の奥に映る瞳だけは、灰の夜から動いていなかった。




