第三十八話 黒烏
私は、かつて幾度も足を運んだミレイユの執務室に立っていた。そこだけは時が止まったように、炎も瓦礫も触れていない。整然と並ぶ書類、磨かれた机、壁際の書棚。街が灰に沈んでも、この一室は変わらない。
――ミレイユ。あなたは、あの時もここにいたのか。窓からすべてを見下ろし、炎をただ眺めていただけなのか。
胸の奥で拳に力が集まる。だが、見抜かれてはならないと、私は指先を開いた。対峙は静かだった。机に紙を広げ、淡々とペンを走らせるミレイユ。
「来たか」
わずかに視線をよこし、すぐ紙へ戻す。
「……報告に」
私も直立し、そう答える。だが違う。今日、私は報告のために来たのではない。聞きたい。確かめたい。
――どこまで知っていた?
――なぜ白が知り得た?
――総帥はなぜ知らなかった?
――この結末を、お前は望んでいたのか?
幾つもの問いが同時に胸を突き上げ、私は目を閉じる。沈黙。耳の奥で血の音が響く。その沈黙を破ったのは、思わず漏れた問いだった。
「報告書は、誰に届くのですか」
ペンが止まる。細い指先は微動だにせず、インクの先だけが紙に触れたまま、まるで時間ごと凍りついたかのようだった。答えはなかった。けれど、答えが存在することだけは伝わってきた。
――やはり。
私は確信する。報告は総帥には届いていなかった。では、誰に。監査局――それは塔の名ではなく、影の名かもしれない。誰が背後で糸を引いている?
闇の深さに、背筋が冷たくなる。触れてはならない領域に、片足を踏み入れてしまった。エンフィリアは死んだ。それは偶然か。それとも必然か。これもまた、監査局が仕組んだ結末だったのか。
ミレイユは答えない。答えないのではない――答えてしまえば、私の世界が壊れることを、彼女も知っているのだろう。私の中で「聞きたい」という声と「聞いてはいけない」という声がせめぎ合う。沈黙のまま、ミレイユは再びペンを走らせた。
私は視線を落とす。紙に刻まれた文字――そこにあったのは、ただ二文字。
『黒烏』。
帝国のものではない。エンフィリアのものでもない。では誰だ? 誰がこの都市を潰した?
私は静かに一礼し、執務室を後にした。エンフィリアを壊したい者がいる。いや、壊したいのではない。力をつけすぎた均衡を、押し戻そうとする者。世界は常に釣り合いを欲している。どちらかが強くなりすぎてはならない。
私は、そのために使われた。黒烏に。そして、生かされた。
階段を下り、塔を出る。夜風が灰を運び、頬にかすかに触れる。ふと、背中に視線を感じた。振り返ると、北。森が広がっている。ざわめく梢。揺れる影。その奥から、誰かがこちらを見ている気がした。
私は立ち止まり、長く北の森を見つめていた。
— 第四章終 —




