第三十七話 正しいこと
焼け落ちた街に漂う灰の匂いは、まだ生き物のように鼻腔へ貼りつき、喉の奥をざらつかせる。踏みしめる土は黒く脆く、灰は靴底にこびりつき、振り払っても離れない。すべてを焼き尽くしたはずの大火の跡に、ただひとつ、監査局の塔だけが影を残していた。
その塔は、不気味なほど無傷だった。石と鉄で築かれた黒壁は炎を拒絶し、焼け爛れた街並みに孤島のようにそびえる。もともとシェルターとしての機能を備えていた建築――それは知識として知っていたが、こうして現実に、塔だけが焼け残る様を目の当たりにすると、まるでこの惨禍を見届けるために造られていたようにすら思えた。
私は居住区から遺体を運んでいた。焼け焦げ、誰か判別もつかない。それでも共に剣を振るった仲間だとわかる。黒布に包みながら、胸の奥がひりつくように痛む。――その時、広場の方でざわめきが起きた。
「……ノエラ?」
目に入った彼女は、煤だらけの顔を紅潮させ、駆け寄ってくる。
「クレナ! 塔の中に……生き残りがいたの! 剣士たち、それに監査局の人間も!」
息を切らせながら告げる声に、私は思わず立ち上がった。その場に現れた影の中に、私は見覚えのある姿を見つける。ヴェルダ。灰を被ってなお背筋を伸ばした剣士の巨躯。メルヴェ。レースの裾は焼け焦げているのに、その微笑みは奇妙に健やかさを帯びていた。そして――ミレイユ・オルタス。
黒の剣士が十数名、監査局の局員も数名。合わせてせいぜい二十足ほど。
「千足いたはずが、残ったのは四十か……」
士官が低く呟いた。その声音は、いつも通り冷静で無表情だった。だがその無機質さの奥に、疲弊がかすかに滲んでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
「子供たちが生き残ったのは救いだ。我々は二つに分かれる。遺体を収容する係と、住居を再建する係。しばらくは監査局を宿舎とする。寝具や水をまとめろ」
指示は簡潔だったが、その一言ごとに重さがあった。士官の声には、いつもの冷たさよりも疲れが滲んでいた。ふと、士官がミレイユに視線を送った。
「話がある。来い」
短く、それだけを告げて。ミレイユは一度だけこちらを見た。感情を映さぬ眼差し。そのまま士官と共に、監査局の奥へと消えていった。
私は立ち尽くした。胸に重く響く言葉――「君は今、何を選んだ?」
かつてミレイユが投げかけた問いが、いま再び突きつけられたようで足がすくむ。もし、あの時、私はすべてを手放せばよかったのか。そうすれば、この結末を避けられたのか。いや、そんなはずはない。誰も望んでいなかった。けれど――なぜ、こうなった?
総帥ラグラン・ゼフィール――本来は死を免れたはずの人。ミレイユは誰に報告していた? 上司はすでにいない。ならば彼女は、何を見つめ、何を選んで黙していたのか。答えを聞かねばならない。聞かねば、この灰の重さを背負い切れない。思索の渦に囚われていたとき、不意に大きな手が私の頭をくしゃりと掻き乱した。
「……!」
振り返ると、ヴェルダがいた。言葉はなく、ただ不器用に髪をぐしゃぐしゃにする。そのまま力強く肩を抱く。次の瞬間、メルヴェが反対側から抱きしめてきた。灰に塗れた胸の奥に顔が沈む。鼻をかすめるのは、焦げた布の匂いに混じるかすかな香水の甘さ。そのわずかな香りが崩れた心に沁み、安らぎと涙を同時に呼んだ。
「……私の選択が、間違いだったのか。すべてを失ったのか」
声は震え、かすれ、もはや言葉の形を保てていなかった。涙は止まらず、頬を焼け跡の灰と同じ色に濡らしていく。ヴェルダは答えない。ただ肩を抱き、私の震えを受け止めていた。そして低く、しかしはっきりと口を開いた。
「生きて帰ることだけが正しさだ。それ以外は、美徳でも、罰でもない」
それは――エダンの言葉だった。
私ははっと顔を上げる。灰の向こうに見えた師の背中。「生きて帰れ」と繰り返した声。それが今、ヴェルダの口を借りて蘇る。生き残ること。それが唯一の正しさ。惨めでも、無様でも。私は嗚咽を噛み殺し、両腕で二人の体を強く抱き返した。胸の奥で、ようやく小さな灯火がともるのを感じた。
――私たちはまだ、生きている。




