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星の織りなす物語 COCYTUS  作者: 白絹 羨
第四章

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第三十五話 礫と蝶

 音が消えた。火のはぜる音も、喉の裂ける音も、遠い崩落も、膜の向こうへ退く。残るのは、私の(はく)と刃の重さだけ。――蝶がいる。白い軌跡。煙の層を縫い、重力を笑う角度で折れ、空気の綻びへ指先を差し入れるように、ふっと泳ぐ。

 百回でも、千回でも、百万回でも――(いし)は当たらない。軌道は乱数、反射は即興。触れた空気ごと身を反らす。直線は、必ず遅れる――そう見える。私は礫になる。振らない。重さを一点に集め、線を一本だけ引く。読まない。動かす。


「半拍、遅らせて」


 ノエラの囁きが、私の耳殻の内側で冷たく転がる。彼女の指が空に短い線を置き、その線が私の次の足場になる。私は頷かない。呼吸で答える。一、二、――半。懐の包みが拍を合わせようとし、私はその鼓動を指で潰す。黒のざわめきは旗になる。いまは要らない。


 ――シェルツ。


 美しい。名を胸腔の奥で呼ぶだけで、肺が甘くなる。私はあなたを見て生まれた――そう錯覚するほど、視界の中心をあなたが奪う。瞳の黒は小さな重力だ。見返された瞬間、落ちる。掌の温度、刃を持たぬ指の癖、抱く力加減、息の近さで舌が置かれる位置――全部、私は知ってしまった。


 ――だから、追える。だから、動かせる。


 私はあなたの視界へ入る。正面ではない。斜め、やや下――外套の裾が視野の端に触れる位置。そこは、あなたが「気に留めない」角。けれど、その瞬間に次の導線は決まる。手首の返し、足の内旋、肩甲骨の微かな波――呼吸より先に起きる一手。


「いま」


 ノエラの声が刺さる。私は屋根の(ふち)を踏み、小指の付け根で欠け目を噛む。軸は起こさない。倒したまま、前へ。――直線。刃を前へ。突きの形で固定。振らない。加速しない。線を一本、置く。蝶が翻る。空気の水面を蹴り、線を外す――はずだった。

 違う。あなたは私の(はい)り方を覚えている。訓練場の片隅、湯気の向こう、廊の曲がり角――何度も私を避けた角度で。だから私は、避けられるはずの場所へ、最短の直線を先に置く。


 ――触れあう前に、もう触れている。


 距離がゼロへ落ちる感覚はない。ただ、視界の解像が変わる。まつ毛の一本が光を掬う瞬間、刃先に柔らかな抵抗。布――外套の(ふち)。裂ける。次に皮膚。沈む。熱い。止めない。質量を押し込む。私の肩から肘へ、肘から手首へ、手首から刃へ。一本の直線が胸骨をなぞり、鎖骨と肋の間に浅く、しかし決定的に、座る。

 時間が伸びる。あなたの眼が、私を見る。驚きでも肯定でもない――測る目。そこに私の顔が映る。私の頬の小さな血の点が、あなたの黒に沈む。


 ――美しい。


 そう思ってしまう自分に、胸の奥で怯える。シェルツの体がふわりと泳ぐ。空の取っ手をつかむように体幹だけで向きを変える。仕組みは要らない。直線は理屈の外側で強い。泳いだ角度に、すでに線が待っている。動くほど、刃が深くなる。


「クレナ、吐いて」


 ノエラに従い、息を吐く。押し込みすぎない。貫かない。致命ではなく、堕落――飛翔だけを殺す角度。刃を半分だけ引く。血が一筋、音もなく伸びる。白の内側に赤い花。翼から風が抜ける。落ちる。空気がわずかに遅れて追い縋り、外套の裾が一度だけ大きく揺れる。片腕が反射で振り上がり、刃が空を切る。触れない。私の頬の前で、風だけが通る。蝶は、欠けた輪郭のまま、舞い――そして、地へ。

 音が戻る。火の唸り、瓦の破砕、叫ぶ喉の低さ、黒の足音。洪水のように押し寄せる。私は柄を離さず、膝を緩める。二本の足が震える。勝利ではない。回帰の震え。直線で切り取った何かがまだ戻らない。シェルツは石段の途中に片膝をつき、肩で呼吸を刻む。胸の白が赤に濡れ、呼吸に合わせて広がる。眼はまだ濁らない。私を見ている。感情は乏しい。測る目のまま。


 ――あなたは、まだ美しい。


 その思考が、遅れて私の腹を殴る。吐き気が上がり、私は奥歯でそれを砕く。


()がって。……来る」


 ノエラが肩を引く。次の白が、空の隙間を滑ってくる。私は半身を切り、刃先で牽制の線を描く。脅しではなく案内だ――こちらへ来い。こちらで決着をつけよう。だが彼らの目は私ではない。膝をつく蝶へ。守る角度、殺す角度。私の中で、何かが割れる音がした。殺したい。救いたい。認められたい。壊したい。抱きしめたい。矛盾が一斉に声を上げ、言語が崩れる。


 ――選べ。


 礫は直線でしか語れない。


「ノエラ、半円、低く」


 私は言う。ノエラが頷き、足元の目盛りをゆっくりずらす。敵の踏み込みが半拍滑る。その半拍に、もう一本の線を置く。白の一人が足を取られ膝を落とす。刃が遅れる。そこへ刃の背で顎を叩き、視界を止める。止まった視界に、ノエラの輪が落ちる。――蝶の脇に、余白。白の二人目が割り込む。手首を払って柄を落とさせ、脇へ半歩。第三が盾になる前に、ノエラの短い雷が踝を裂く。体勢が沈む。できた回廊を直線で抜ける。礫の通り道が、蝶へつながる。


「愛してる」


 一度だけ、口にした。刃が重さを取り戻す。心拍が線の太さを決める。私はその太さを、過不足なく一本にする。蝶はまだ落ちきっていない。片膝のまま呼吸を刻み、視線で刃の角度を計る。美しい。――それでも私は礫だ。直線は、もう一本、要る。致命ではなく、終局へ向けた制度。


「クレナ、手が冷たい」


 ノエラが囁く。私は短く笑う。


「熱い。だからちょうどいい」


 踏む。線を置く。蝶の視線が、わずかに揺れる。そこへ、石が飛ぶ――振らずに、押さずに、ただ通す。

 刃先が、白と赤の境に静かに触れた。決着ではない。けれど空は、もうあなたの味方をしない。白い蝶は羽音も立てず、階段の下へ――落ちた。それでも瞳は、最後まで私を見ていた。叱るでもなく、赦すでもなく、ただ測るように。両足はまだ震えている。勝利の震えではない。あなたに触れてしまった指先の熱が、刃よりも深く私を裂いている。恋だったのか、錯覚だったのか。答えは落ちた蝶だけが知っている。

 ただ一つ確かなのは――私はまだ、あなたを愛しているという事実だけだった。

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