第三十三話 黒の士官
混乱の広場から少し離れた路地。血の匂いと粉塵が渦を巻き、瓦礫に遮られた空気は薄い。そこに、冷たい靴音が割り込んだ。黒の士官だった。深緑の肩章をまとい、刃に血の一滴すら付けていない。彼女は視線だけで場を制し、混乱していた若い剣士たちを一瞬で整列させた。
「負傷者は後列へ。手当を優先しろ。子供たちは外に出す」
短い指示。それだけで剣士たちは秩序を取り戻し、手際よく負傷者を運び出す。幼い剣士たちは私とノエラの背から引き取られ、護衛の兵が連れ出していった。わずか数刻で、ここは戦場の片隅から臨時の野営地のように変わる。
――冷静すぎる。
私は士官の横顔を盗み見た。落ち着き払った口元、抑揚のない声。動きに無駄がなく、まるで戦場そのものを手中に収めているかのようだ。だが、肩の端ににじむ疲労の影が一瞬見えた。人であるはずなのに、冷たすぎる。
「……この進軍、本当に意味があるんですか」
気づけば声になっていた。問いの形のはずなのに、耳には震えが混じって聞こえる。士官がこちらへ視線をよこす。
「意味?」
「この進軍の目的です。黒も白も共倒れするだけ。私たちが積み上げた文化が消える。剣術の型も、塔に刻まれた術式も、師弟の誓いも、すべてが灰になる。学園はただの石に戻ってしまう」
言葉が震えていたのは、恐怖か怒りか。士官は首を小さく横に振った。
「総帥は殺された。白は遺物を隠し持ち、それを我らに接続しようとした。奴らを討たねば未来はない」
言葉は冷酷で、未来という単語は刃のように鋭かった。私は息を詰める。
「君たちも行け。ここに留まれば呑まれる」
そう言い残し、士官は背を向けようとした。私は咄嗟に声を絞り出す。
「……エダン教官をご存じですか」
一瞬だけ、士官の足が止まる。振り返ったその瞳に感情はなかった。
「死んだ。森で見つかった。我々は嵌められた」
全身から力が抜けた。耳の奥で、血が逆流するような轟きが響いた。エダン教官の声が蘇る。「生きて帰ることだけが正しさだ。それ以外は、美徳でも、罰でもない」と。あの手の温度が消えていく映像が、視界の輪郭をぼやかす。士官の声は遠のき、現実から切り離されていく。
――エダン教官が、死んだ?
嘘だ。信じたくない。けれど、心の奥では知っていた。すべては仕組まれていた。私が走った道も、運んだ遺物も、ここへ導かれることさえも。
「大丈夫か?」
士官の声が聞こえた。だが遠すぎる。冷気が背骨を這い、視界の隅に、ある顔が浮かんだ。
――ミレイユ・オルタス。
糸を引いているのは、あの人か。私は士官の肩を強く掴んだ。爪が革を食い込む。
「ミレイユ・オルタス監査員を見たか。あの人なら…」
士官の眉がわずかに動いた。
「知らん。だが少なくとも、まだ死んでいない。安心しろ」
声に安堵の響きはなく、ただ乾いていた。
「お前も死んだら拾ってやる。それでいいだろう」
その言葉は慰めではなく、屍を積むことを前提にした冷酷な約束だった。戦場の倫理は、命を数に変えるだけなのか――胸の内で疑問が膨らむ。
「クレナ……行こう。私たちも」
その声だけが現実に繋ぎ止める鎖だった。私は頷きかけた――が、そのとき、空気が変わった。視線を上げる。上空に、白い影が舞っていた。
――シェルツ・エリファス。
羽ばたくように外套が翻り、陽光を裂く刃が閃いた。彼女の動きは鳥よりも速く、影よりも鋭かった。名前が心の奥で反響する。昨夜、机の中に押し込めたはずの思いが逆流してくる。「終わったら話そう」とロゼルに告げた声が、同じ心臓の奥でかき消される。倫理も約束も、この瞬間には意味を失っていた。
――血を流せ。
――純白を裂け。
私は、ずっと彼女を追ってきた。追い越したい。認められたい。殺したい。肉体は彼女を欲している。その欲望は師を敬う倫理を裏切り、友を守る約束を踏みにじる。けれど、心臓の律動は止まらず、血液が叫ぶように「彼女へ」と命じていた。指先が熱を帯び、喉の奥が渇いた。足は意志より先に動いていた。シェルツへ――ただ、それだけを目的に。
「クレナ!」
ノエラの声。焦りと恐怖が混じっている。彼女は気づいたのだ。私の動きが変わったことに。だが止まれない。心も肉体も、すべてが一点に収束していた。空を裂く刃の煌めきに、私は引き寄せられていた。




