第二十七話 亀裂の中庭
中庭は、いつになく広く見えた。昼下がりの光は、石畳の上に均等に降り注いでいる。その光の中に生徒の姿はなかった。噴水の縁も、ベンチの陰も、いつもなら、術式が鳴る音や、小声の議論が響くはずの場所も、すべてが空虚に沈んでいる。
遠くに、一つ影が横切った。反射的に振り向くと、影は走り去り、石造りの回廊の奥へ消えた。足音さえ、石に吸い込まれたかのように消えている。別の角度からも、白い袖の切れ端が覗いた。その次には黒いリボンが走り、両者は互いを見ようともせずに影へ消えた。
静けさの下で水面は裂けている。計画の囁き。誰かと誰かを引き込む視線。目に映らないだけで、中庭は血の前段階で満ちていた。
――緩衝材が、いない。
ノエラの皮肉。ロゼルの冷笑。互いを釘刺すようなやり取りで、かろうじて場が崩れずにいた日々。いま、その緩衝がない。均衡を保つ板は外され、崖はいつ落ちてもおかしくない。私はただ、それを横目に通り過ぎた。剣を抜かずとも、亀裂は音を立てて広がり続けていた。
私の足が向かったのは、学園の資料館。重厚な扉を押すと、ひんやりとした空気が肺に落ちてきた。棚が無数に並び、羊皮紙や革表紙の古書が天井まで積まれている。窓辺には生体標本が瓶に沈められ、光を受けて鈍く揺らめいている。魔導の理論模型が並ぶ展示台には、金属の歯車や水晶片が絡み合い、歪んだ影を床に投げかけていた。
研究科の学生らはちらほらと机に張りつき、羽根ペンを走らせている。研究者たちは黒衣の背を丸め、声ひとつ立てず資料に没頭している。まるで外の騒擾とは別の国のようだ。
私は館長を探し、書庫の奥にいる小柄な老人を見つけた。灰色の外套を羽織り、髭を撫でながら古文書を開いている。視線をあげると、鋭さと柔らかさを併せ持つ目がこちらを射抜いた。
「教授。少しよろしいですか」
「ほう、珍しい客だな。君は……剣士科かね?」
「はい。古い記録を探しています」
「記録か、物語か。どちらを求めに?」
問いに、胸がわずかに跳ねた。私は言葉を選びながら、視線を棚の奥へ泳がせた。
「物語を。笑われるかもしれませんが、古代の……その、デーモンについて。館長はご存じですか」
老人は目を細め、ゆっくりと書を閉じた。
「デーモン。忌むべき名だ。だが忘れてはならぬ名でもある。彼らは帝国よりも古く、我らの歴史の地層に潜んでいる」
「帝国を憎む理由も、そこにあるのですか」
「そうだ。帝国の皇族は、かつてデーモンと交わした。力を吸い上げ、人を鎖につないだ。だから我らは皇帝を憎む」
老人はそこで言葉を切った。声の端に、言い淀みがあった。
「……では、その力は。帝国が誇る強さの源は、何なのですか」
口にしたとき、胸の奥がひやりと凍った。耳に自分の声が他人のもののように響く。老人は眉をひそめ、書を撫でた。答えは返らない。だが沈黙は重い肯定だった。私は無意識に爪が掌に食い込むのを感じ、慌てて手を開いた。動揺を悟られてはならない。監査局で叩き込まれた呼吸法を思い出し、声を整える。
「……答えられないのですか」
わずかに間を置き、感情を削いだ声色を作る。
「――それとも、我々自身の力もまた、同じものから来ているのでは?」
老人の目が、一瞬だけ標本瓶に滑った。黒い臓器に沈む影。私はその視線を釘のように胸に打ち込む。言葉ではなく、その一瞬が全てを語っていた。
「……監査局の娘らしい」
老人の声は低く落ちた。
「帝国の力の秘密を問うなら、私たちの足元をも問わねばならぬ。欲望を燃料にする器――それを恐れながら、手放せなかったのは我らも同じだ」
――やはり。
胸が冷たく締め付けられた。私は表情を変えないよう必死だった。だが内心では、ポケットに潜んだあの破片の脈動が甦り、老人の言葉を裏付けるように鼓動する感覚を思い出す。帝国も、我々も。どちらも同じ毒を飲んでいる。違いなど、ないのか。
「破壊すべきでは?」
食い下がると、老人は首を横に振った。
「毒を制すには毒を飲む。石を砕くには石を使う。その理屈に縛られてきた。……それが答えだ」
抽象的で、直接は言わない。だが十分だった。私はその隙間から真実を繋ぎ合わせた。
――デーモンの遺物は、私たちの足元にもある。
「ありがとうございます。館長」
老人はただ頷き、再び本を開いた。資料館を出ると、外の風が重く感じられた。中庭はいよいよ空虚で、噴水の水音すら不気味に澄んでいた。緩衝を失った世界は、音を吸い込み、ただ次の裂け目を待っている。




