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星の織りなす物語 COCYTUS  作者: 白絹 羨
第三章

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第二十六話 遺物のささやき

 廊下を歩く足音が、自分のものに聞こえなかった。石畳の一歩ごとに、胸の奥で三つの影が鳴った。ライネルの痩せた顔。ヴァレリウスの瞳。「遺物は足元にある」という声。そして、ミレイユの無臭の視線。どれも私の背中に貼りつき、剥がれない。

 報告を終えて戻るだけのはずなのに、石畳はやけに重く、壁の影が背中を押してくる。――私が選んだ、と念じるたびに、選び切れていない自分が浮かび上がる。部屋の扉を閉じ、背嚢を下ろす。音は小さいのに、胸に落ちた響きは大きかった。重い。剣ではない。――ポケットに潜む黒い破片。


「……」


 まずは疑うことからだった。偽物かもしれない。幻かもしれない。布を机に敷き、その上に破片を慎重に置いた。布越しに押すと、軽いはずなのに掌の奥まで沈むような重さが響く。

 灯りにかざした瞬間、金属は黒い水滴のように光を呑み込み、周囲の空気を揺らした。視界の端がわずかに歪み、まるで世界がその存在を恐れて身を退いているようだった。息を止めなければ落としてしまいそうで、指先が固まる。それでも目は離せなかった。


「血を流せ」


 耳を澄ませても、何も届いていないのに、指先の奥で、冷たさが言葉に変わった。声がした。耳ではなく、指先から。錯覚だと思いたいのに、冷たい金属の奥で確かに言葉が脈動していた。

 手が震える。けれど、震えは恐怖だけではなかった。好奇心。もっと知りたいという欲。私は息を整え、机の引き出しを開け、紙を広げる。破片の記録を残すために。なぜこれがライネルの胸にあったのか。誰が仕込んだのか。なぜヴァレリウスは私に「足元にある」と告げたのか。


「純白を裂け」


 紙に観察の一行を書こうとした瞬間、声が割り込んできた。インクの線が勝手に波打ち、囁きが文字を上書きしようとする。私は必死に線を整える。背筋が冷える。幻聴か。いや――もっと近い。これは私の内にある願望そのものかもしれない。私は知っている。力が欲しいと。仲間を守るために。シェルツに追いつくために。


 ――シェルツ。シェルツ。シェルツ。


 思わず、その名が脳裏をよぎり、紙に勝手にペンが走った。幼いころ、彼女に抗えなかった記憶が蘇る。触れられれば膝は折れ、呼吸すら支配された。その記憶は毒であり、甘露でもあった。心は憎しみに震えるのに、肉体は今も彼女を欲している。


  ――憧憬か、憎悪か。


 その境界はとっくに溶けている。彼女を追い越したい。彼女に認められたい。だが同じ強さで、彼女の首筋に刃を突き立てたい。命を奪えば、やっと彼女から解放されるのではないか。


「力を求めるなら、私を喰え」


 破片の囁きが、まるでその衝動を肯定するかのように響く。机の上の紙の(ふち)が波打ち、窓の外の影がシェルツの横顔に重なった。私の内に潜む声と、破片の囁きが混ざり合い、区別がつかなくなる。シェルツを超えるためか。シェルツを殺すためか。どちらでもいい。力が必要だ――その一点だけが、確かだった。


 ――私は、まだ私なのか。


 はっと息を呑んだ。掌が濡れている。いつのまにか、爪が皮膚に食い込むほど拳を握りしめていた。今の声は破片の囁きか、それとも私自身の心か。境界が曖昧になり、分からなくなる。憧れなのか、殺意なのか。シェルツを欲する衝動すら、自分のものではなく誰かに植えつけられた夢のように思えた。頭を振る。いまは――近づいてはならない。彼女に届く前に、やらねばならないことがある。


「調べなければ」


 声が漏れた瞬間、胸の奥で次々に問いが膨らんだ。何を、どう調べるのか。ライネルが死んだこと。それを知っている者はどれほどいる? 学園ではまだ公表されていない。それとも、彼の胸に「遺物」があったという事実か? いや、もっと深い。誰がそれを仕込んだのか。白か、黒か、あるいは……監査局自身か。

 教官たち。ヴェルダ、メルヴェ、エダン。彼らなら学園の影を知っている。相談できるのか? いや、口にした瞬間、次に消えるのは私だろう。ノエラ、ロゼル――旧友。だが二人は既に立場を異にしている。友情すら思想に裂かれている。秘密を預ければ、彼女たちの間の亀裂に飲み込まれるかもしれない。

 ならば、一人で進むしかない。頭の中で順番を並べ替える。ライネルの死――まだ誰も知らないかもしれない。遺物の存在――それを白が利用しているのか。そして、ミレイユ。彼女はすでに知っていたのではないか? 暗殺命令すら、この破片を私に掘り起こさせるための罠だったのでは――。彼女の視線は、すでにすべてを見抜いていたのではないか。私に暗殺を命じたのも、破片を掘り起こすための罠だったのか。

 心臓は重いのに、視界だけが冴えていく。遺物を調べること――それこそが、いま私の任務だ。監査局の命令でも、ミレイユの鎖でもない。これは、私が選んだ真実。布に包んだ破片を引き出しに押し込み、鍵をかける。だが心には鍵をかけられない。沈黙の奥で、まだ囁きが生きている。それでも――選んだのは私だ。

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