第二十五話 任務の報告
学園へ戻ったとき、春の風はもう柔らかさを失っていた。石畳の上を渡る風は乾いていて、砂の匂いが混じっている。門をくぐるだけで、外の空気と中の空気の境界線が肌に焼きつく。
――報告。
それが何より重かった。背嚢よりも、剣よりも。監査局の棟は、学園の建物の中でもひときわ無機質で、石の壁は陽を拒むように冷たい。足を踏み入れるたび、私は自分の影が濃くなるのを感じる。廊下の先に重たい鉄の扉が待っている。黒鉄の蝶番がぎしりと鳴るたびに、胸の奥が収縮する。扉に近づくだけで、肺の奥が硬くなり、呼吸が浅くなる。
私は舞い上がっていたのだ――帝都での潜入、暗殺。すべてを一人で背負い切ったかのような錯覚に。だが、この扉の前に立つと、その高ぶりは一瞬で剥ぎ取られる。ここには称賛も共感もない。あるのは選別だけ。
指先が冷えて、取っ手に触れるのをためらう。私は扉を叩き、声を整えた。
「諜報課第三班、クレナ・イサリア。任務帰還につき、報告のため入室を求めます」
重い返答のないまま、沈黙だけが落ちた。私は一瞬ためらったが、許可を待つ時間が恐ろしく長く感じられ、結局、取っ手に手をかけた。扉が軋む音を背に、部屋へ足を踏み入れる。黒衣の影は、いつものように扉の奥で待っていた。ミレイユ・オルタス。椅子に腰をかけたまま、視線だけがこちらを射抜く。その目に迎え入れる色はなかった。
「遅かったな」
淡々とした声。机の上には封蝋の剥がされた報告書の束が積まれている。
「任務の報告を」
簡潔な言葉。だが背後の空気が閉じる。部屋の隅々にまで、嘘を拒む結界が張られているような錯覚。私は喉を鳴らし、声を整えた。
「帝都での接触は、未遂に終わりました。標的とは交戦せず、帰還を選びました」
声が出た瞬間、喉が灼けるように乾いた。耳には自分の声が他人のもののように響く。言葉は事実をなぞっている――だが、その中から最も重い部分を切り落としている。ライネル。土に還ったあの顔。かつて純白を叫んだ喉が、黒い線で覆われていた現実。ヴァレリウス・ヴァルト。私の刃を見透かし、「デーモンの遺物は君たちの足元にもある」と囁いた声。
そしてミレイユ。今、目の前に座る彼女は、それをすべて知っているのだろうか。それとも、私を通じて探ろうとしているのか。
――彼は、私が来ることを知っていた。
それは偶然ではなかった。計画は完璧なはずだった。だが、彼は最初から待ち構えていた。ならば、監査局の情報は漏れていたのか。あるいは、最初から「試されるため」に私は送り出されたのか。ポケットに潜む遺物の冷たさが、返答のたびに脚へと伝わる。「嘘」と「沈黙」の境界で、心臓は鉄のように沈んでいく。
ミレイユの瞳に映されているのは、報告の文字ではなく、私の震えそのものに思えた。まるで、遺物の脈動まで彼女に読まれているかのように。
「交戦せず?」
ミレイユの声が、硝子を割るように響いた。瞳はわずかに細まり、机上の羽根ペンの先端を撫でる。その仕草は静かだが、観察は鋭い。
「結界が厚く、侵入の余地を失いました。無理をすれば、死んでいたでしょう」
言葉を吐き出すごとに、肺の奥が浅くなる。これはどこまでが彼女の計画なのか。私を帝都へ送り出したのは、ヴァレリウスの暗殺ではなく、遺物の影を探らせるためだったのか。あるいは、ライネルの死を目にして動揺する私の反応そのものを、観察していたのか。今この瞬間も、ポケットに潜む破片を「持ち帰らせる」ことこそが、彼女の真の意図なのか。
ミレイユの無臭の視線に飲まれながら、私は思わず瞳をのぞき込んだ。冷たい硝子の奥に、私を突き放す色はない。あるのはただ、計測不能な深さ。見返しても見返しても、どこまでが罠で、どこからが偶然なのかを測ることはできなかった。
沈黙が一度、部屋を満たす。インクの滴る音が、心臓の鼓動と重なり、私自身が既に「調査対象」として書き込まれている気がした。
「……報告は」
やがてミレイユが口を開いた。
「事実ではなく、真実を示すもの。君が何を選んだのか、私は見ている」
その声は、論を語るというよりも、冷たい石碑に刻まれた定義のようだった。
「君は今、何を選んだ?」
言葉は冷気の刃となって肩に落ち、肺を圧迫する。私は唇を結ぶしかなかった。――事実を隠し、真実を歪めた。それを彼女が知っているのか、ただ試しているのか、分からない。分からないことが、いちばん恐ろしかった。
部屋を出ると、石畳の廊下が急に狭まり、空気が薄くなる。吸う息のたびに、ポケットの中の破片が冷たく重くなり、まるで「これがお前の選んだ真実だ」と告げているように思えた。
――監査局。
――シェルツ。
――学園の仲間たち。
三つの檻が重なり合い、私の周囲を囲んでいる。外に出る道は、もう見えなかった。




