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星の織りなす物語 COCYTUS  作者: 白絹 羨
第三章

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第二十四話 遺物の記憶

 帰還の途上、私は列車に乗り、再び宿場(まち)の北の宿へ足を向けていた。夜明けの霧は薄く、草の匂いを濡れた石畳にこすりつけている。任務は失敗に終わった。それでも、どうしても確かめなければならないことがあった。


 ――あの死体。


 宿の裏手には、先日の騒ぎの痕がまだ残っていた。踏み固められた泥、焦げた藁、覗き込む人影の名残。そこからさらに小道をたどると、土が新しく盛られた一角があった。粗末な布が半ば地表に覗いている。

 足が止まる。胸の奥で何かがひとつ軋んだ。ここを掘り返せば、二度と戻れない――そんな予感が指先より先に心を震わせる。布を見つめているだけで、喉が乾き、舌の裏に鉄の味が広がった。背嚢の紐を握り直す。立ち去ることもできる。知らなかったと目を背けることもできる。けれど、私の足は動かない。いや、動かなかったのではない。土の下から視線で呼ばれている気がした。


「……」


 息を吐き、膝をつく。冷たい土の匂いが顔を包み、吐き気が込み上げる。掘るか、逃げるか。選ばされている。だが選択肢はすでに剥ぎ取られていた。私がここに戻ってきた時点で。

 両手を伸ばす。土を掻き出すたび、爪が割れ、掌に小石が食い込む。湿った泥の匂いが鼻腔を刺し、胃の底から酸が逆流してきた。指は凍えるほど冷たいのに、掻き出すたびに熱を帯びる。止められない。布切れが指先に触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。めくると、泥に塗れた顔が現れた。頬の線は削げ、皮膚は土と同じ色に沈み、鼻梁にこびりついた泥から微かな腐臭が立つ。最初は誰かわからなかった。――違う、と叫んだ心の奥で、唇のかたちが記憶を突き破った。


 ――ライネル。


 中庭で未来を語った声、群衆を束ねた手振り。その全てを知る私の記憶が、目の前の沈黙と結びつく。かつて旗を背負うと思われた肩は、土に押し潰され、今は羽毛のように軽い。胸の奥で何かが裂けた。「純白」を叫んだ声は、こんなにもあっけなく、泥に飲み込まれてしまうのか。これが、仲間たちの先に待つ死の姿なのか。

 震える手で彼の衣を探ると、胸骨の近く、黒い光がかすかに覗いた。土にまみれた小さな金属片――針ほどの細さで、しかし異様な冷たさを放つ。指先が拒絶するのに、目は離せない。抜き取ると、金属片は血肉を拒むように鋭く冷えていた。


 ――遺物。


 胸骨の奥に埋もれていたのは黒い金属片だった。針ほどの細さなのに、抜き取ると指先に、冷たさではなく、脈打つ鼓動を伝える。まるで二つ目の心臓を掴んだように。その瞬間、耳の奥を誰かが叩いた。


「純白を求めるなら、血を差し出せ」


 声は一度で終わらない。風にも聞こえる。私自身の思考の裏返しにも聞こえる。いや、この金属そのものが言っているのか。声が自分の血の流れと重なり、全身の骨を叩く。

 風ではない。妄想でもない。もっと近い。破片そのものが囁いた気がした。背筋が凍る。声は風か、妄想か。あるいは、この破片そのものが私に語りかけているのか。手の中の金属は、ただの破片のはずだった。けれど、視界の端がかすかに揺れる。色が濃くなり、世界の境界が震える。私の呼吸は速く、血流が耳の奥で響いた。


「……」


 布をかけ直す。ライネルはもう土に還る。声も姿も未来も、そこに留まることはない。けれど、彼の胸にあったこの破片だけは、確かに生きていた。私はそれをポケットに忍ばせた。震える手を握りしめ、布の上に土をかぶせ直す。


「……すまない」


 口にしても、土は応えない。ライネルも応えない。自分の声だけが湿った空気に溶け、どこにも届かない。孤独だけが残る。ただ一つ確かだったのは――私は禁忌を持ち帰った、という事実だ。ポケットの奥で遺物は沈黙している。だが、その沈黙は鼓動していた。私の心臓と同期し、まるで体内に侵入してきたかのように。


 ――運がよかっただけだ。いや、違う。あの男は私が来ると知っていた。すべて見透かされ、試されていた。


 私は初めて「失敗」を背負った。初めて、死が自分の背にのしかかった。まだ息をしているのは運がよかったからだ。いや、違う。あの男は私が来ると知っていた。すべて見透かされ、試されていた。私はすでに舞台に上げられ、観客の前で剣を握らされていたのだ。

 背嚢の重さよりも、ポケットの小さな冷たさが強く足を引きずっていた。爪の下にはまだ土が残り、吐き気は消えない。眠りは遠い。幻聴は耳の奥で脈動と重なり続ける。


 ――純白を求めるなら、血を差し出せ。

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