第二十三話 標的の魔導士
帝都――。夜は昼よりも明るい街。空を覆う透明な光膜に沿って、数えきれない照明塔が並び、道路には浮遊式の外灯が滑るように移動していた。石畳も、金属板も、反射した光に白く燃えている。建物は天を突くように屹立し、硝子張りの壁には無数の幻影広告が踊る。人々は行き交い、笑い、語り、音楽が溢れる。文明の絶頂。
けれど私は見た。硝子の影に沈む廃屋。足場の崩れた塔。放置された電光掲示の残骸。表層は輝き、底面はひび割れている。熱と冷たさが同居する都市。それが、いま目の前にあった。
標的――ヴァレリウス・ヴァルト。帝国魔導士団党首。皇帝血統の中でも最も強大な魔導を制御する者。彼の行き先は既に監査局の報告で知らされていた。夜の迎賓館。重厚な外壁と魔力結界に囲まれた塔。その最上階、煌めく窓辺。そこに立つ影を私は見た。
私は屋上の梁に身を伏せ、剣を布から抜いた。刃が空気を割る音さえ、勝利の合図に思える。呼吸は整っている。心臓は速く鳴っているが、それは恐怖ではない。獲物を狩る瞬間を知る者の鼓動だ。
計画は完璧。動線も、時間も、すべて計算の通り。結界の揺らぎも読み切った。失敗の余地はない。むしろ、この一撃はすでに終わっている。刃が届く前に、私は勝利を見ていた。窓の結界がわずかに薄れる瞬間を捉え、私は影のように滑り込む。動きに淀みはない。落下する羽根のように静かで、刃はすでに相手の命を指していた。広間に立つ男の背中。長い外套、銀糸を織り込んだ衣。煤けた金の髪が灯りに溶ける。その姿は、標的に間違いない。
――一瞬で終わる。
私は息を殺し、躊躇いもなく刃を突き出した。
――触れる寸前、視線が返ってきた。
氷のように静かで、それでいて底に火を秘めた瞳。私の腕は空中で止められていた。刃は彼の首に届かず、指一本が触れてもいないのに、見えない壁に支えられている。息が詰まる。空気が喉から抜けず、胸が痛みに軋む。足元から冷たい水がせり上がり、膝が震えた。
――駄目だ。
心臓はまだ打っている。だが、それはもう自分のものではなく、死にゆく者の鼓動に変わっていた。振り下ろすはずの刃は重く、腕は石柱のように固まり、視界の端では暗闇がじわりと狭まっていく。
抗う力は、ない。叫ぶ声も、ない。
ただ一つ、確かにあったのは――これが最期だという確信。刃を握る指の感覚が遠のき、腕が他人のもののように重くなる。胸骨の奥で、音が止まる予兆がしていた。その感覚を飲み込んだ瞬間、彼の唇がわずかに動いた。
「……よく来たな」
男の声は低く、広間に澄んだ音を落とした。笑みはない。恐怖もない。ただ、観察者の眼差しだった。
「学園の子だろう?」
胸の奥が、冷たい針に刺された。名を呼ばずとも、彼は私を知っている。
「殺すために来たのか。それとも、死にに来たのか」
その言葉は、私の息を奪った。返答を探す間もなく、喉が石に塞がれる。刃を握る手が重く沈む。
「……だが妙だ」
彼はゆっくりと歩み寄り、私の剣先を見下ろした。目は、笑いも恐怖もなく、ただ観察者の光を帯びている。
「学園が送り込むなら、白が来るはずだ。シェルツ・エリファス。でも、他の歴戦の剣士でもなく。なぜ、まだ芽の硬いお前なのか。」
鼓動が耳を裂く。私は答えられない。答えられたとしても、それはすでに檻を示すだけ。
「……一人、死んだだろう。宿場で」
言葉が胸を撃った。私が目にした白の死体――黒い細線に覆われた顔。
「お前も見たはずだ。あれは剣で裂かれたのではない。炎に焼かれたのでもない。血が逆流するように刻まれた痕……」
低い声が、死の光景を呼び覚ます。私の喉が焼け、肺が冷える。
「学園は気づいていないふりをしている。だが私は知っている。あれは――遺物の痕だ」
空気が凍る。彼の瞳は深く、逃げ場を塞いでいた。
「お前はただの刃だ。背後にある者は真実を隠し、己の罪をお前に握らせた。白は光を装いながら、闇を見ない。……その鎖の音が聞こえないのか」
肺が潰れそうになる。呼吸は浅く、膝が震える。――けれど、彼の声はさらに深く突き刺さる。
「デーモンの遺物は、君たちの足元にもある」
その瞬間、世界の輪郭が崩れた気がした。私たちの足元――学園か。監査局か。シェルツか。答えを求める前に、見えない力が私を押し返し、窓辺の夜気が背を打った。
「……帰れ」
彼の袖がわずかに揺れただけで、身体は軽々と外へ放り出され、私は屋根の上に転がった。痛みよりも、胸の内に残った言葉が焼けついていた。
――遺物は、君たちの足元にもある。
追撃は来なかった。街の灯は相変わらず煌めいていた。通りには歌があり、塔には幻影広告が映っていた。だが、私は知ってしまった。あの言葉が真実なら、この光の下のすべてが、すでに腐りはじめている。
暗殺は未遂。任務は失敗。持ち帰れるのは、言葉の棘だけ。その棘は刃よりも深く突き刺さり、抜けないまま歩かされる。私は闇の中で背嚢を抱え、灯の届かぬ路地へ足を踏み出した。帝都の喧騒の奥で、ひび割れが音もなく広がっていくのを感じながら。




