第二十二話 暗殺の影
学園の門を出るのは二度目だ。
石のアーチをくぐった途端、空気の密度が変わる。中庭のざわめきも白い旗の色も背中のほうで薄く解け、代わりに、硬く乾いた外の風が肺の奥に刺さった。自由へ――そう思いたいのに、胸には二本の鎖がまだ絡みついている。
足は私の意志で前に出ているはずだ。けれど、引かれているだけなのではないかと、ときどき膝が空を踏む。私は背嚢の紐を締め直し、格納庫に鎮座する中型のヴェイラスへ歩を進めた。頭を持たない黒翼の巨鳥――羽根は金属とも生物ともつかず、闇を吸い込むような艶を放っている。
「入れ」
黒革の制服を纏った操縦士が短く言った。その声に従い、私は羽根の震えが生む隙間へ身を滑り込ませた。内部は温もりを帯び、まるで生き物の体へ踏み入れたかのように、湿った呼吸音と脈動が全身を包む。ヴェイラスは夜の雲を切り裂き、帝国領の外れに差しかかったころ、不意に羽ばたきを緩めた。
「降りろ」
操縦士の声は短い。黒い羽根が裂けるように開き、外の冷気が流れ込んだ。下には、林に囲まれた人気のない広場が広がっている。
私は闇に押し出されるように地に降り立つ。ヴェイラスはすぐに羽根を広げ、頭のない影となって夜空へ舞い戻っていった。そこには、既に一台の馬車が待っていた。車輪には布が巻かれ、音を殺してある。御者台に座る影が軽く鞭を上げ、合図を送った。帝国領での私の表の顔を支える舞台装置だ。
帝国領へ向かう身分は、行商の手伝い。荷車の軸が鳴くたび、身体の芯も同じ調子で軋んだ。港から上がってきた布包み、香草、針金。私の剣は粗い布にくるまれ、かさばる鍋の影で、ただの鉄の棒に化けている。
馬の鼻息、辷る曇天。路傍の祠では、誰かが古い神の名を唱えていた。麦畑の向こうでは、帝国の子らが遊び、嬌声が草に吸い込まれていく。めでたい声だ。けれど、その明るさに混じって、沈黙の粒が時々、頬に痛い。
宿場が近づくにつれ、言葉は減り、目配せが増えた。帝国の兵の房飾り、検問の視線。私は頰の筋肉だけを動かして、商人の笑みを貼りつける。鎖の熱と、檻の無臭。その二つを胸に刻んだまま、私は黙って揺れた。
黄土の屋根が肩を寄せ合う宿場に入ると、最初の宿で私は名簿に偽名を記した。宿の女将は帳面を裏返し、私の手に銅貨を数えさせながら、さりげなく噂を置いていく。
「昨夜、北の宿で死人が出たさね」
「盗賊?」
「さあね。兵にゃ内緒の話だよ」
女将の口角だけが笑っている。目は笑わない。私は余計な相槌を飲み、湯と粗末な粥の時間を確かめて、部屋の鍵を受け取った。
日暮れ、私は予定を半刻早め、北の宿へ足を運んだ。灯のまばらな路地で、割れた壺の水が冷たく足袋の端を濡らす。宿に入ると、人の輪。視線と囁きの渦。輪の外縁に立つだけで、死の気配はわかった。あの日、幕舎の中で崩れた銀髪の影と同じ、空気の沈みが皮膚の下に降りてくる。
「どいてくれ」
粗い声に押され、人の肩が少し退く。その隙間から、古びた外套の裾が揺れた。色褪せた布地に、わずかに覗く白――陽に焼けてもなお隠しきれない肌と、布の縫い目に忍ばせた糸の輝き。旅装をまとい、行商人の真似をしていても、どこかに「白」が滲む。胸の奥で、何かが小さく鳴った。見間違いならいい。けれど、目は曖昧さを許してくれない。
死体は寝台に横たえられていた。若い。まだ私たちの年代に近い。髪は乱れ、口は何かを言い残すように小さく開いている。
傷は……おかしい。斬られたのでも、焼かれたのでもない。骨も折れていないのに、皮膚に黒い細線が走っている。煤でも墨でもない。血管をなぞるようで、しかし血の流れとは逆に、中心から外へ、樹の枝が冬に指を広げるように。
指先で触れることはできない。触れたくないからではない。触れたら、何かがこちらへ移ると、身体が勝手に警鐘を鳴らしている。鼻を抜けるのは金属の匂いではなく、冷たい石の匂いだ。雨上がりの洞窟で嗅ぐ湿り。蝋燭の炎が、その死体の近くにだけ、時々、強くくぐもった。空気がそこだけ、よどんでいる。
「盗賊じゃねえな」
宿の男が言うと、別の誰かが囁きで返した。
「兵でも、ねえ。音がしなかったからな」
私は輪の外で黙って耳を傾ける。無関係を装うのは得意だ。呼吸を薄くして、視線の高さを一段下げる。盗もうとした痕跡はない。荷もそのまま。財布も荒らされていない。
――統一儀式の噂。
学園の中庭で飛び交っていた言葉が、耳の奥でくぐもる。ミレイユの書類の中で、私はその言葉を見たことがある。黒く塗りつぶされた段落の脇に、細い字で書かれていた不吉な名。
死者の喉元に、針で刺したような微かな痕が一つ。けれど、それが入口なのか出口なのか、私には断言できない。男の手が毛布をかけようとしたそのとき、私は思わず半歩、前に出てしまった。毛布が白い顔を覆い隠す。胸が焼けた。
――誰?
誰だったの。問いが喉に上がり、舌の裏で止まる。名前を呼べば、場所も立場も壊れてしまうから。
「お嬢さん、具合でも?」
輪の外で、主人が私の腕に触れた。私は首を横に振り、作り笑いをひとつ。
「すみません。血が苦手で……」
嘘。血は苦手じゃない。あの幕舎で、私は吐かなかった。吐く代わりに、心のどこかが固くなっただけだ。主人は、何も追及しなかった。追及する世界ではないのだろう。ここでは、問いは生き延びるためにしまわれる。
部屋に戻ると、私は扉に背を預け、指先の震えを数えた。五つ、四つ、三つ。震えは消えない。
――白の死体。
――黒い細線。
――暗殺の任務。
思考は三つ叉に分かれて、同じところで絡まる。私は背嚢から薄い革の小包を取り出した。中には小型の通信機。ヴェイラスの網に繋がる簡易回路だ。私は、簡潔に本日の連絡を済ます。
横たわると、天井板の隙間から夜の匂いが降りてきた。
――お前は、私のものだ。
遠い声が、皮膚の内側を熱でなぞる。
――君は監査局の目と刃だ。
別の声は、熱を一定の形に固める。どちらの声も、私に選ばせない。けれど、選ばないでここまで来たのは、私だ。
私は目を閉じ、死体の黒い細線を思い出した。枝は、中心から外へ広がっていた。あれは広がる絵だ。広げようとする誰かの意思が、そこにある。学園の中庭に撒かれた噂は、種だったのだろうか。ならば、いま私が見たのは芽か。いや、根か。布団の上で手を握る。拳の中が湿る。
――ヴァレリウス・ヴァルト。
吐息に混ぜて名を唱えると、喉の奥がきしんだ。標的の顔を、私はまだ知らない。けれど、名だけで人は刃を向けられるのだと、あの日、私は知ったはずだ。
眠れない夜の端で、扉が小さく鳴った。風か、木の節か。私は反射で柄に触れる。布の下の鉄は、たしかにそこにあった。外で誰かが笑い、次には泣いた。宿という器は、世界の細片をどこからともなく集めて、薄く混ぜてしまう。
私は浅く息を吸い、吐いた。任務は明朝、南の駅から都へ向かい、ヴァルト家の監視線の外側に沿って移動する。接触はひとつ、時間は短い。暗殺は、まだ先にある。けれど、死はもう足元にあった。異様な枝分かれが広がっていたように。
明け方、私は宿を出た。空は薄青く、屋根の縁に鳥が二羽、互いの顔を見ないまま鳴いた。路地の端で、昨夜の宿の主人が水を打っている。
「旅の人」
男が声をかける。
「北へ行くなら、祠で拝んでいくといい」
「どうして」
「知らねえ。今朝は、そうしたほうがいい気がする」
理由のない忠告ほど、旅では役に立つ。私は頷き、祠の前で短く頭を垂れた。神の名は知らない。けれど、沈黙には形がある。それに触れるだけで、背筋がまっすぐになる。列車に乗り込むと、座面の革が冷たかった。向かいの席の女が編み物をし、隣の老人が古い歌を小さく口ずさんだ。揺れのリズムに合わせて、私は指で膝を叩く。一、二、三――。
揺れに紛れて、胸の奥の鎖がわずかに緩んだ気がした。気がしただけだ。私は窓の外を見た。朝の光の中で、野を渡る影が長い。暗殺の影。黒い枝と、自分の影。その境界が溶けはじめていた。私はその重なりから目を逸らさないと決め、もう一度だけ、息を整えた。




