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星の織りなす物語 COCYTUS  作者: 白絹 羨
第二章

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第二十話 教官たちの沈黙

 夜の宿舎食堂はまだ明かりが消えず、あちこちで声が飛び交っていた。若い兵士が訓練の失敗を笑いあい、年配の技術者が湯気の立つ皿を前に議論を続けている。燻った油の匂いと薄い葡萄酒の香りが混じり、ざわめきが絶えない。

 その喧噪の奥で、よく知った三つの姿が見えた。ヴェルダ・ミュリス教官、メルヴェ・トゥレイン教官、エダン・フロスト教官。彼らは周囲を気にするように、声を潜めて卓を囲んでいる。強く話しているわけではないのに、その沈んだ響きはざわめきの隙間から不思議と耳に届いた。兵舎に戻るには早すぎ、部屋に籠もるには落ち着かない。だから私は、空いたグラスを抱えてその卓に近づいた。

 ヴェルダは、紅をひいた唇が酔いに濡れ、艶やかに笑っている。女のように柔らかい仕草の奥に、やはり刃を隠しているのを私は知っていた。メルヴェは、黒のレースを纏い、背筋を崩さず杯に触れもせず、視線だけで周囲を牽制している。 エダンは、腕を組んで身を乗り出し、酒を乱暴にあおる。声は荒げていないのに、石を叩きつけるような重さがあった。

 三人は言葉を交わしながらも、周囲の視線を常に気にしているようだった。その姿に、私はひそやかな緊張を覚えた。私は深呼吸して、努めて自然に笑った。


「――失礼します。ひとつ、空いていますか?」


 ヴェルダが目を上げ、唇を歪めた。


「まあ。小娘が一人で夜更けに酒の席へ忍ぶなんて。もうそんな年頃になったの? クレナ」


「忍んでなどいません。……ただ、少し、懐かしい顔を見かけたので」


 笑ってグラスに酒を注ぐ。キャバレーで教わった通り、角度を崩さず、泡を立てない。三人の視線が一瞬だけ、私の手先に集まる。すぐに散っていった。


「初陣を終えた顔だな」


 エダンが言った。


「生き残ったなら、語る権利はある。死人には、何もない」


 乾いた言葉が重く響いた。誰も相槌を打たない。私もできなかった。


「権利なんて、旗が与えるものよ」


 ヴェルダが紅い唇で笑う。


「白でも黒でもいい。旗の下に立つ者には名前があり、外れた者はただの影。剣を振るう姿勢を整えるのは、影でもできるわ」


「姿勢は救いにはならない」


 メルヴェが静かに言った。


「私の魔法も、いつも足りない。力がなければ、誰も守れない」


 グラスに水を足すような声だった。私はその響きに心を揺らした。守れない――私自身の胸の奥でも、何度も響いている言葉だったから。

 エダンが舌を鳴らす。


「守るだと? 違う。生き残る。それだけだ。生徒が死んだ? 訓練が厳しい? 笑わせる。戦場は訓練より残酷だ。死にたくなければ、牙を研げばいい」


 ヴェルダが紅を塗り直す仕草で肩をすくめた。


「そうやって吠えるのも、結局は白の連中の台本通りかもしれないわね」


「……白の?」


 私は問い返した。自然な調子を装いながら。ヴェルダは目を細めた。笑いながら、瞳の奥にかすかな影を隠す。


「最近ね、教官が一人、また一人と席を外されている。病気だの、栄転だの……理由はいくらでも飾れるけれど」


 グラスを軽く揺らす。


「代わりに来るのは、決まって白の思想を口にする者ばかり。中立を保つつもりの私でさえ、気がつけば便利に使われているの」


「偶然、ではないでしょうね」


 メルヴェの声が低く落ちる。


「でも、それを告げた者は、次には姿を消す。だから、皆黙る」


「沈黙が一番安全だからな」


 エダンは苦笑した。


「俺だって、訓練で死んだ生徒の責任を問われている。表向きは規律の話だ。だが裏では、黒を締め出す口実にされている。そう見える」


 沈黙が落ちる。私はグラスを握りしめた。沈黙は安全。だが同時に、沈黙は檻でもあった。


「クレナ」


 ヴェルダが急に私を見た。紅い唇に、かすかな哀しみを漂わせて。


「あなたはまだ若い。旗より先に、自分の姿勢を守りなさい。剣を振るう時の背筋。それだけは、誰にも奪えない」


 胸に熱が広がる――だが同時に、私は自分の背筋がすでに歪み始めているのを知っていた。諜報の任務で、旗の色を問わず笑顔を貼りつける癖が身についた。彼に教わった「剣の姿勢」と、その癖が、胸の奥でかすかに衝突した。


「あなたは、流されてはならない。……けれど、私は力が足りない。守りたい者すら守り切れない。だからこそ、あなたが迷えば、私はきっと何もできない」


 その視線を受け止めきれず、私はうつむいた。心臓が鼓動で震える。エダンが立ち上がり、杯を一気に空ける。


「生き残れ。考えるのは後でいい。俺たちがどう沈むかは、もう決まっているのかもしれん。だが――お前はまだ、決まっていない」


 ヴェルダも立ち、椅子を払った。


「沈黙を守るか、声を上げるか。それも選ぶ自由よ。もっとも、自由と呼ばれるものほど、脆くて高価なものはないけれど」


 メルヴェはグラスに口をつけないまま、黒いレースの袖を揺らして立ち上がった。


「――次に残る教官が誰か、わたしたちにもわからない」


 三人はそれぞれの方向へと去っていった。私の前には、わずかに揺れる酒の面が残った。

 隣の卓で笑い声が弾け、皿のぶつかる音が響いた。けれどこの席に残ったのは沈黙だけだった。葡萄酒を口に含む。甘さも苦さも消え、舌の上にはただ冷たい空白が広がった。その空白こそ、三人が残していった問いの形だった。

 それは彼らの選択であり、また私への問いかけでもあった。教官ですら、声を奪われ、思想の網に絡め取られていく。私たち生徒に残る道は、どこにあるのだろう。葡萄酒の赤をのぞき込みながら、私は息を整えた。甘さも苦さも薄れ、ただ澄んだ沈黙が舌に残った。


 — 第二章終 —

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