第十五話 影の眼
夜明け前、山頂はまだ星を手放していなかった。冷えた空気の中で吐く息が白く溶け、頬の感覚が鈍くなる。三日前にここへ張りついてから、私たちはずっと砂漠の縁を見下ろしてきた。
最初は数騎だった使者の列は、日ごとに増えていった。野営地は輪を広げ、焚き火の数が夜ごとに星座のように増える。テントが並び、槍が林立し、やがてその周囲に蛮族の戦士たちが現れた。
蛮族――バーサーカー化という呪いを受けた民。怒りと共に理性を失い、敵味方の区別なく血を求める。エンフィリアでは討伐対象とされる彼らが、今は帝国と同じ輪の中にいる。その中心で行われるのは、条約締結の会議。部族長と、帝国辺境王が一堂に会するという、滅多にない機会だった。
無線が小さく鳴る。耳にかけた受信具から、滑らかな女声が届いた。
「こちら本部。監視班、位置と状況を報告せよ」
私たちは順番に情報を送る。ここから見える全て――新たに張られた柵、動く兵士の数、旗の配置、警護の層。報告が進むにつれ、本部の声が少しずつせわしなくなるのがわかった。
エンフィリアの無線。遠く離れていても瞬時に声を届ける技術。私たちの頭上、見えぬ高さを巨大なヴェイラスが旋回し、中継地点となって広範囲の通信網を構築している。帝国の魔導士団ですら持たぬこの力が、いまや私たちを戦場の目にしていた。
だがその魔導士団も、この野営地にいる。青銀のローブをまとい、結界の光を漂わせながら、輪の外を巡回している。最精鋭の幹部を含む一旅団。彼らの存在は、白の魔法剣士でさえ正面からは刃を交えられぬ壁だった。
「中央の動きを注視しろ」
班長の声に、私は双眼鏡を覗き込む。布陣の中心にある大きな天幕。その前に、ゆっくりと一人の男が姿を現した。銀髪に銀の髭。聡明な額と、静かに光る瞳。立ち居振る舞いに品と威厳が宿る。
「……辺境王」
班長が低く呟く。間違いない、その人だ。
すぐに無線で報告する。声を出す瞬間、喉の奥に硬い塊が引っかかる感覚があった。吐く息が耳の中でやけに大きく響く。
「辺境王、視認。周囲に魔導士団四名、パラディン一名」
返答は短く鋭い。
「了解。作戦名〈三月の刃〉、時刻通りに実行する」
その声の奥に、白の魔法剣士シェルツ・エリファスの気配があった。
「目標は辺境王ただ一人。実行後は即時離脱」
喉が乾く。唾を飲み込もうとしても、喉が固く塞がったように動かない。握った双眼鏡の接眼部が、じっとりと手汗で湿っていく。 あの距離からでも感じる威圧感――これが帝国の辺境王か。顔も声も知らなかったはずなのに、目に入った瞬間、頭の奥が本能的に「抗えない」と告げてくる。
本当に、この人間を殺すのか? 私たちは蛮族や帝国の皇族を憎んできた。しかしあの辺境王は……。思い浮かべようとする。「これは世のためだ」「これは必要な犠牲だ」――そう繰り返しても、言葉が胸の奥で霧のように散っていく。
双眼鏡越しのその瞳は、ただの老人ではなく、何百人もの命を背負ってきた者の眼だった。その瞬間、胸の奥がきゅっと縮み、背骨の内側に冷たいものが走った。私が今見ているのは「人間」だ。息をし、脈を打ち、体温を持つ、たった一人の生きた人間。
正義だと信じてきた任務の輪郭が、一瞬で揺らぐ。肩越しの空気は重く、仲間たちもほとんど息をしていないように見えた。皆の沈黙が、私の迷いを押し潰す。けれどその沈黙の中に、暗殺を生業とする者たち特有の匂い――冷えた鉄のような気配――が漂い、同じ組織にいるはずなのに、私は一歩引きたくなった。
そして――
どこから仕掛けるのか分からない。視界を細かく走査するが、白の実行部隊らしき影は見えない。双眼鏡の奥で辺境王は誰かと短く言葉を交わし、ゆっくりと杯を置く。その瞬間、山頂の空気がぴんと張った。胸の奥で小さな鐘が鳴る。何かが来る。
ほんの一瞬――何の予兆もなく、辺境王の身体がふっと崩れた。椅子に沈むでも、後ろへ倒れるでもなく、糸を切られた人形のように。喉の奥が勝手に震え、息が詰まった。瞬きする間もなかった。何が起こったのか理解が追いつかない。剣が閃いたのか、呪文が飛んだのか、ただ心臓が止まっただけなのか。
音が消える。風が止まり、焚き火の匂いすら遠のいた。鼓膜が自分の鼓動だけを拾い、視界の端はじわりと暗くなる。これが「人が殺される瞬間」なのだと、頭ではなく身体が先に理解した。
魔導士団の面々も動かない。その無反応が逆に恐ろしい。まるで彼らも、何も見なかったふりをしているように。時間が一拍だけ止まり、その間に私の呼吸も止まっていた。
パラディンが駆け寄った瞬間、幕舎の中がざわめき、静寂が破れる。兵たちが慌ただしく集まり、蛮族の戦士たちも低く唸る声を上げた。
「目標、沈黙。これより離脱する」
無線の声が冷たく響く。班長が即座に頷く。
「撤収するぞ。辺境王は死んだ」
私はまだ双眼鏡を離さなかった。布の隙間から見える、揺れる影、叫ぶ口、走る兵。遠くのその混乱が、波紋のように砂漠へ広がっていく。
――これで本当に終わりなのか? あまりに静かで、あまりに速かった。
耳の奥で、自分の脈よりも速い呼吸音が重なる。その声は、訓練場で仲間の一人を「的」として殺すふりをしたときと同じ、温度のない声だった。あれが命を奪った声だと思った瞬間、背筋がこわばる。そして、心臓の裏では、別の声が囁く。次は私かもしれない、と。白の実行部隊は味方だ。それでも彼らの刃は、命令一つで私の首にも届く。そう思った途端、背筋の冷えが消えなかった。
やがて班長に肩を叩かれ、私はようやく視界から目を離した。まぶたの裏には、倒れた銀髪の男が焼きついている。この光景を正しいと信じられる日は、果たして来るのだろうか。




