第十四話 砂漠の獣
日が昇る前の港は、波音と鳥の声がかすかに混ざるだけで、夜の喧騒が嘘のように静かだった。吐く息が白く、甲板の影はまだ夜を引きずっている。私は昨夜のうちに、マダムから受け取った紙片をエンフィリアの通信員へ届けた。報告を終えると、次に与えられたのは監視班の一員として山に登る任務だった。
暗殺ではない。戦闘でもない。ただ、見る。見て、記録し、伝える――それだけだ。頭では、それがなければ刃は的に届かないとわかっている。けれど、胸の奥で別の声がうずく。
――こんなの、誰でもできるし、私じゃなくてもいい。
そんな言葉が喉の奥までせり上がってくる。昨日は昨日で、肌を露出するだけの役。今日は今日で、岩陰に貼りついて景色を眺めるだけ。これじゃあ、訓練所で木偶を相手に素振りしているのと変わらない。
早く剣を振りたい。血を見たい。誰かを斬って、私の価値を見せたい――そんな熱だけが、体の中で持て余され、皮膚の下で暴れていた。
昨夜の赤い扉の中を思い出す。あの甘い空気と、肌を晒し、笑顔と視線で男を縛る役目。あれを任務と呼ぶなら、私にはあまりにも退屈で、薄っぺらだった。マダムも、給仕に化けた剣士たちも、鋼ではなく腰と胸で相手を倒すことを選んだ人間だ。私には、そのやり方はどうしても剣の道より軽く見えてしまう。
それに――私はまだ、その武器すら持っていない。布の下でわずかに盛り上がる胸、鍛錬で締まった腰回り、まだ丸みを帯びきらない尻。あの場に立っても、視線を引き寄せたまま受け流す術はない。
そもそも、男の手の熱さも、女としての喜びも知らないこの体では、笑われるか、弄ばれて終わるだけだ。そんな舞台に立つくらいなら、剣を握って立っていたい。そう思えば、あの舞台の誰もが、私から何百里も離れた場所にいる人間に見えた。
だからこそ、私は剣で前に出たい。血を流す場でこそ、私の価値は輝くはずだ。それなのに、いざ作戦が始まれば、私の居場所は戦場のはるか外側。どうして白の輪の中に入れないのか――悔しさが、朝の寒さとなって肌を刺した。
集合場所には、私の知らない顔が並んでいた。黒の魔法剣士たち――彼らは皆、私より年上で、動きにも、視線の重みにも無駄がない。誰も自己紹介などしない。必要なのは名前ではなく、役割だ。私は一番末席に立ち、渡された荷を背負った。双眼鏡、記録用の簡易符、非常食、そして砂避けの布。
港の外れから丘陵地帯を抜けると、砂の匂いが風に混じり始めた。緑はまばらになり、足元は乾いた土に変わっていく。やがて、太陽が頭上へと近づきはじめるころ、山肌に取りついた。そこからは一歩ごとに、世界の色が褪せていった。
「おい、新人。足遅れるな」
前を行く剣士の一言が、背筋を冷やす。山肌を登る足場は崩れやすく、砂利がぱらぱらと滑り落ちるたびに、心臓の鼓動が耳の奥で跳ねる。息が上がる。だが、誰も足を止めない。荷を下ろして水を飲むことも許されない空気があった。全員の背中が獣のようにしなやかで、私は自分の足音がやけにうるさく感じる。ここで転べば、一瞬で「使えない」と判断されるだろう。剣ではなく、沈黙と足運びで試されている。
山頂に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。太陽は容赦なく真上から照りつけ、肌の上で汗が瞬く間に蒸発していく。唇が乾いて張りつき、鎧のない腰回りに直射の熱が刺さる。岩陰に身を寄せると、指揮役が地図を広げた。
眼下には、砂漠の縁に広がる街道が細い糸のように続き、その先に小さな集落の屋根が光っていた。あの道を三日後、辺境王の使者が通る――私の任務は、ここからその瞬間を見届けることだ。
双眼鏡を覗くと、すでに陽炎が立ち上っていた。朝の冷え込みを忘れさせるほど、砂漠の空気は熱を孕み、遠くの影を揺らしていた。視界の端が揺れ、遠くの影は膨らんだり縮んだりする。焦点を合わせようと額に力が入る。私の肩越しに、別の監視員が無言で視界を切り替える。交代だ。
私は岩に背を預け、唇を湿らせた。戦場の喧騒とは違う、砂漠の静けさ。だがその下には、獣が身を潜めている。狩りの前の、長い呼吸。
「なあ、新人。暇だろ?」
隣の魔法剣士が笑いもせずにぼそりと呟く。
「……少し。いや、正直もう飽きた」
つい口を滑らせると、隣の剣士は鼻で笑った。
「贅沢な新人だな。退屈に耐えるのが一番難しいって、まだ知らないのだろう」
砂の上でじっとしているだけで、足の筋肉が退屈に痺れていく。この沈黙を耐える力もまた武器だとわかってはいる。それでも、剣を抜く瞬間のために作られた私の体は、今にも動き出したくて疼いていた。
「悪いが水を汲んできてくれ」
背後から声が飛んだ。指揮役が顎で山の麓を指す。見下ろせば、乾いた谷間の底に、わずかに傾きかけた光を反射する水面があった。
私は肩の水袋を揺らしながら降りていく。背中に直射の熱が突き刺さり、背骨のあたりで汗が帯の下へ流れる。砂礫が靴の中に入り込み、指の間をざらつかせる。喉は焼けつくように乾き、背中を伝う汗が服に張り付く。水辺に着くころには、額から汗がぽたりと落ち、手の中の革袋がやけに重く感じた。
冷たい水を一口だけ飲み込み、残りはすべて袋に詰める。飲み干したくなる衝動を、歯を食いしばって押し殺す。背を伸ばすと、山頂の仲間たちが豆粒のように見えた。彼らは岩に溶け込み、砂色の外套の中でじっと獲物を待つ獣の姿だった。あそこに混じれば、私は骨ばった肩と細い腕だけが浮くに違いない――そう思うと、距離がやけに胸に刺さり、呼吸を浅くした。
隣の仲間たちは、ほとんど身じろぎもしない。砂の上の蜥蜴のように、ただ日差しと風を受け入れ、眼だけを動かしている。その姿は、剣を振るうよりもずっと獰猛に見えた。私はまだ、こういう時間に耐える筋肉を持っていない。焦りはしないが、どこか置いていかれている感覚がじわじわと広がる。
日が落ちかけたころ、影は薄くなり、岩が暖を残す。誰かが干し肉を回してきた。噛みしめても、塩気は舌の端で小さく砕けるだけで、喉は渇きのほうが勝っている。
この任務では、私の名は呼ばれないだろう。功績として残ることもない。頭では理解していても、腹の底ではそれを飲み込みきれない。剣を握る手は影でもいい――そう思えるには、私はまだ若すぎた。
日が落ちると、砂漠の端が薄紫に染まり、遠くの街道を行く小さな隊商の明かりが見えた。まだ三日ある。だが、あれが先遣隊だと指揮役は言った。砂漠は獣だ。近づく足音を、地面の下でずっと聞いている。そして牙をむく瞬間まで、決して動かない。私はその牙の一部になるのか、それともただの影のままなのか。答えはまだ、陽炎の向こうにある。




