第十一話 軽い紙、重い言葉
「次は、ノエラ・ゼディア」
ノエラは姿勢を正し、顎を引いた。彼女のおさげの黒髪はいつもよりきっちり結われ、結び目に細い黒のレースが絡められている。彼女は要点を外さず、事実を淡々と語った。私よりもずっと整然としている。けれど、一箇所だけ、声が薄くなった。
「……転倒したとき」
ミレイユは、そこで初めて頷いた。
「そのとき、彼の手は——あなたに向けていたのでは?」
向けていなかった、と私は即座に思った。距離も、位置も、そんな余裕はなかった。だが、彼女の口調は「そうだったはず」という前提を含んでいて、聞く者をそこに引き込む。
「……そう、かもしれません」
ノエラの声がわずかに曇る。あやふやな言葉を吐くとき、彼女は視線を一瞬だけ下げる癖がある。今、それがあった。
「ならば、なぜ掴まなかった?」
「命令が、あったから」
「誰の?」
「班長クレナの……」
私の名前が、室内の空気に触れて形を持つ。反射的に息が止まり、胸の奥が氷のかけらで満たされる。そんな命令は出していない——その確信が、頭より先に身体を走った。
一瞬、ノエラの横顔を見た。彼女は視線を逸らさない。嘘をつくときの赤みはない。ならば——これは嘘ではないのか? それとも、嘘を真実として握りしめているのか?
ミレイユの視線は私には向かない。机の上の書類に落ちたまま、口元に薄い微笑を留めている。沈黙が、私を口を開かせる罠のように伸びてくる。言えば正せる。だが、いま口を開けば、その瞬間に負けると直感した。
「その命令を、どう思った?」
ノエラは沈黙する。彼女がこの言葉を真実だと信じているのか——あるいは、信じるしかない理由を自分の中に作っているのか。
「正しい、と思います」
「今も?」
「……はい」
短い肯定。ノエラの声は揺れない。私が信じるノエラと、今ここにいるノエラが、同じ輪郭を持たないように感じた。
ミレイユはわずかに姿勢を変える。椅子に預けていた背を立て、机の縁に手を置く。手袋の甲に縫い込まれた黒いレースの式が、光を受けてかすかに脈打つ。その微かな光は、偶然ではなく意図された切っ先——証言という刃を、私とノエラの間に突き立てるためのものだ。
私は理解する。この場は、真実を明らかにする場ではない。揺らすための場だ。それに気づいた瞬間、喉の奥に鉄の味が広がった。反論できない自分への苛立ちと、ノエラを問い詰めたい衝動が、同じ場所で燻り始める。ミレイユはその煙を、楽しんで見ている。
「ロゼル・ハインツ」
ロゼルは短く頷いた。彼の声は低く、抑揚が少ない。記憶を引き出し、配置し、差し出す。彼の言葉は、静かな雪のように均等に落ちる。その中で、ひとつだけ、雪片が大きかった。
「……エダン教官は、笑っていなかった」
ミレイユの目が、初めてわずかに動いた。
「笑っていなかった?」
「はい。口元は固く結ばれて、でも、目が……」
「目が?」
「揺れていました」
沈黙。私はその言葉を胸の内で転がす。揺れ。あの距離で、あの混線の最中に、ロゼルはそんな細部を掬い上げていたのだ。
私は見ていなかった。見なかったのかもしれない。自分の目が何を選び、何を捨てたのか——その小さな事実が、今さら胸に痛く沈んだ。彼はいつも遠くを見るのに長けている。だから、近い痛みを拾い損ねることがある。けれど、今回は逆だったのかもしれない。
聴取は二時間ほど続いた。振り子時計が何度か短く鳴り、そのたびに空気がわずかに揺れた。質問は柔らかく、核心だけ鋭い。ミレイユは、私たちの言葉から言い訳の毛羽をつまみ取り、事実の糸を一筋ずつ撚り直す。痛みは最小限で、しかし見逃しも最小限。私は、彼女がこの部屋の空気を一ミリ単位で測りながら呼吸しているのを感じた。
最後に、彼女はようやく一枚の紙を机上に置いた。黒い縁取りの報告書。表題には、事務官の整った字で「第三区画における不慮の事故」とある。
「これは外に出す報告。予定通りの試験、不慮の事故。そこに嘘はない、ただし、真実のすべてでもない」
彼女の指先が紙の角を押さえる。黒のレースが肌に影を落としている。
「あなたたちの中の本当の記録は、ここには収まらない。……忘れないで」
ノエラが息を呑む。ロゼルがわずかに目を伏せる。私は、彼女の言葉が罠なのか手当なのか、判断できずにいた。真実――その言葉はいつも、正しさの衣をまとって近づいてくる。けれど彼女の口から出るとき、それはどこか、手術用の刃物に見える。
「もう一つ」
ミレイユは視線を上げた。瞳の縁の光が、ほんの少しだけ強まる。
「エダン・フロスト教官について、監査局は独立に聴取を行う。あなたたちの証言は参考にするが、判断は別系統で下す。……エンフィリアは、死を教育の一部に組み込んできた。制度は冷たく見えるでしょう。けれど、冷たい制度があるからこそ、熱に溺れずに済むこともある」
「あなたは、その制度の味方ですか」
自分でも驚くほど、自然に質問が口から出た。部屋の空気が一瞬だけ止まる。ノエラが私の袖を引く気配。ロゼルが視線だけで何かを伝えようとする気配。それでも私は、目を逸らさない。答えが欲しかった。彼女が何者なのか、その輪郭の、せめて一辺だけでも。
ミレイユは、笑った。笑みは深くない。けれど、完全な作り物でもなかった。
「私は、記録の味方」
短い答え。私はその言葉の意味を、すぐには掴めない。記録――記憶ではない。記録。残るもの。残すために削られるもの。彼女の黒は、喪の色ではなく、インクの色なのだ、とふと思う。
退出を告げられ、私たちは立ち上がった。扉の前で振り返ると、ミレイユはもう視線を紙に落としていた。横顔は静かで、頬にかかる黒髪の光だけがわずかに揺れる。彼女の衣装のレースは、動くたびに新しい影を作る。式の刺繍が、その影の縁で微かに脈打っているように見えるのは、私の疲れのせいだろうか。
廊下に出ると、空気は少しだけ軽かった。けれど、その軽さは本物ではない。重さを肩から一時的に預かってもらっているだけだと、身体が知っている。
「彼女、怖い人ね」
ノエラが小さく呟いた。彼女は正直だ。恐れを恐れない——はずだ。だが、先ほどの言葉はどうだろう。あの「命令があった」という証言。あれは、私の知るノエラの正直さとは別の場所から出てきたものだ。
私は苦笑し、首を傾げる。
「怖い。でも、正確」
ロゼルは、それに被せるように言った。
「嘘はついてない」
その一言が、私の胸を針で刺す。嘘ではない? では、ノエラは本気でそう思っているのか。それとも、そう思い込まなければ何かを守れないのか。守るべき何か——それは私か、彼女自身か。
私は歩きながら、ミレイユの笑みを思い出す。記録の味方。記録は、真実と同義ではない。けれど、嘘の反対でもない。記録は、選ばれた真実だ。選ぶのは誰か。残されるのは何か。削られるのは誰か。
黒い窓に、私たちの黒い姿が映る。色は一つなのに、輪郭は別々だ。ノエラの輪郭はいつも鋭く、前に出ている。ロゼルの輪郭はいつも滲み、遠くを絡め取る。私の輪郭は、私自身にもまだ曖昧だ。記録の中の私と、記憶の中の私は、同じ黒で塗られるのだろうか。
角を曲がると、北棟の踊り場に小さな礼拝室がある。黒の祭壇、黒の燭台、黒い布地に刺された白銀の式。誰もいない。私は扉に手をかけ、開けかけて、やめる。祈りは、言葉になる前に形を持ってしまう。今日は、言葉が怖い。私はまだ、私を守るための嘘も、私を壊すための真実も、選べない。
その夜、寮の部屋で、私は報告書の表題を思い出していた。「第三区画における不慮の事故」。正しい。けれど、その一行の影に、二つの名前と二つの笑い声と、重たい靴音が沈む。紙は軽い。記録は軽い。だからこそ、重さを載せることができる。ミレイユ・オルタスは、その軽さと重さの釣り合いを、怖いくらい正確に知っている。
私はペンを取る。自分のための、私だけの記録を作るために。紙は白く、インクは黒い。手の震えは、最初の一字で止まった。私は名前を書く。亡くなった二人の、名を。書くたび、胸の奥の砂利が少しずつ砕けていく。痛みは粉になり、粉は言葉に混ざる。
――私は、助けようとしなかった。そう書いて、しばらく見つめる。やがて、行の端に小さな印をつける。今の私が、未来の私を糾弾しすぎないように。ミレイユなら、ここにどんな印をつけるだろう。彼女はたぶん、つけない。彼女は私の代わりに、別の場所に印を置く。報告書の欄外か、記録官の耳の内側か。私の胸の内ではない。
窓の外で風が鳴る。森の匂いが、まだ消えない。私はペンを置き、目を閉じる。黒い裏側に、ミレイユの横顔が浮かぶ。黒のレース、黒の刺繍、式の糸がわずかに光る。彼女は真実を守っているのか、真実を削っているのか。私は答えを持たない。けれど、次に彼女の前に座るとき、私は今日よりも少しだけ重い言葉を持っていようと思う。軽い紙に、重い言葉を。
砂時計の音が耳の奥で鳴った気がした。私はその音に合わせて、もう一行を書き足す。
――私は、記録の味方になれるだろうか。
答えはまだ遠い。だが、この問いが紙に残るなら、いつか答えに届く日もあるかもしれない。
— 第一章終 —




