第十話 黒の聴取
朝の鐘はいつもと同じ数だけ鳴った。けれど、その余韻はやけに長く、耳の奥で黒く揺れた。食堂は湯気が薄く、声は必要以上に小さい。スプーンが陶器を叩く乾いた音だけがやけに響く。エンフィリアでは、訓練で死者が出ることは珍しくない――それは制度であり、伝統であり、ある種の誇示でもある。けれど、今朝の沈黙は「慣れている」では説明できない重みを帯びていた。
森の試験で亡くなったのは、編入組でも、志願兵でもない。幼いころから長年、同じ舎で眠り、同じ庭で走り、同じ教本に落書きをした生徒たちだ。彼らの名が、ひそひそ声で、パン屑と同じ軽さでテーブルの上を転がるたび、私は喉の奥に固い砂利を飲み込むような感触を覚える。
呼び出しは、食後すぐに来た。黒い封筒。黒い封蝋。表には私の名――クレナ。裏には、監査局の印章。紙の冷たさが手袋越しに伝わる。私はそれを見ただけで、胃の形が自分でわかるほど縮むのを感じた。
ノエラとロゼルも同じ封筒を握りしめていた。ノエラは手紙を横向きに持ち、封蝋に爪を立てては離す。彼女の横顔は、いつもより少しだけ硬い。ロゼルは黙っていた。瞳の奥に石を沈めたみたいに、表面だけが静かに凪いでいる。三人で廊下を歩くと、磨き込まれた黒い床に、同じ色の制服が三つ連なって映る。私たちは黒を着て、黒に囲まれて、黒に呼ばれた。
監査局の聴取室は、北棟の二階、半ば閉鎖された区画にある。重い扉は艶消しの黒。真鍮の取っ手だけが鈍く光る。中は質素だった。小さな机、椅子が四脚、壁に掛かった振り子時計。そして高い位置に細い窓が一つ。窓枠にはレースのように細かい護符の刻印――式が編み込まれている。光はそこを通り抜け、床に薄い模様を落としていた。
彼女は、すでに座っていた。ミレイユ・オルタス――監査局担当官。学内でその名を聞かない日はない。噂は矛盾していた。温和、鋭利、慈悲深い、冷酷。どれも彼女を説明する言葉だと言い切る声と、どれも違うと否定する声が、同じ密度で存在する。
初めて見るその人は、噂よりも静かで、噂よりも濃かった。黒い。とにかく黒い。黒髪は耳の後ろで低く束ねられ、一本の細い黒の簪で留められている。黒のハイカラーのドレスは、喪の礼装にも似て、しかし胸元と袖口にだけ微細なレースが縁取られ、刺繍された式の糸が光を吸っている。指先だけ露出する薄手の手袋。眼差しは墨のように深いのに、縁に細い光が宿り、見られる者の意図をそっとすくってしまうような柔らかさがあった。
「入って」
その声の高さは私の予想より少し低く、温度は私の予想より少し高かった。命じるでもなく、迎えるでもなく、ただ枠を示す声。私たちは椅子に座る。振り子時計の振り子が、乾いた音をたて揺れている。
「怖がらなくていいわ。これは罰ではありません。……ただ、正確な経緯が必要なの」
柔らかな言葉だ。けれど、正確という言葉が、室内の温度を一度だけ下げた。私は背筋を伸ばす。正確に、という指示は、記憶の中の曖昧な影を整列させる作業を要求する。森の湿った匂い、黒々とした土、枝の擦れる音、教官の声、仲間の息……それらはすでに私の胸の奥で混ざり合い、別の色になっているのに。
「順番に、聞かせて。まずはあなたから」
彼女の視線が、私に触れる。熱を持たない灯が、皮膚のごく浅いところを撫でていく。私は頷き、息を一つ吐いた。
「クレナ。森の試験、第三区画、午後。配置は第二列左翼。前衛一、後衛二。――開始二十五分後、想定外の群れと遭遇。標準規格の狼型ではなく、骨格の変異のある……」
言葉にしていくと、出来事はすこしずつ形を取り戻す。私はできるだけ感情を挟まないよう語ろうと努める。けれど、死の瞬間だけは、どうしても客観の輪郭からはみ出してくる。血は見ていない。見ないようにした。けれど音と、吸い込んだ匂いと、皮膚に跳ねた温度は、嘘を許さない。
ミレイユは一言も挟まなかった。頷きもしない。眉も動かさない。ただ、聞く。紙は持っていなかった。記録官が隅に座り、黒い羽根ペンがさらさらと音を立てるが、彼女自身は何も手にしていない。言葉をそのまま、身体で保管するつもりなのか、と私は妙な想像をする。
「……以上です」
私の声は、終わりの形を自分で持たなかった。彼女が小さく顎を引いて境界を示してくれるまで、私は話し続けたかもしれない。
「ありがとう、クレナ。あなたは助けようとした?」
唐突に核心に触れる。私は瞬きを忘れる。助けようとしたか――その問いは、救出の動作があったかどうかを問う以上に、意志の位置を問う。私はあのとき、誰を見て、誰を切り捨てたのか。
「……はい。できる限りは」
「なぜ、助けられなかったの?」
声の抑揚は変わらないのに、問いは急に鋭くなる。痛いわけではない。ただ、自分の中の弱い部分にピンを立てられたような感覚。私は呼吸を整え、言葉を並べ直す。
「隊列が崩れて、判断が遅れました。変異体の動きが早く、意識が一箇所に集中して……個別の叫びに、反応できなかった」
「反応できなかったの? それとも、しなかったの?」
一音が室内を震わせた。息を呑む音、椅子のきしみ。時計の振り子が一度だけ大きく揺れた気がした。ノエラが小さく息を呑み、ロゼルは視線を伏せる。私は、目をそらさないことにした。逃げる視線は、自分のための嘘を呼ぶ。
「……しなかった、のだと思います」
言い終えた瞬間、胸の内側で何かが音を立てて割れた。私はそれが、自己保全の薄い膜だったのだと気づく。ミレイユは、頷かない。
「誰を、優先したの」
「私の、……班の仲間です。全体の生存確率を、上げるために」
「その計算を、後悔している?」
彼女の声は高くも低くもならず、ただ問う。私は口の中が乾いているのに気づく。唾を飲み込む音がやけに大きい。
「わかりません。後悔している、と言えば楽になれる気がします。でも、それを言って許されたいのかもしれない。私は、自分がどの言葉で自分を誤魔化すのか、今は判断ができない」
言い終えたとき、私は自分の声が少し震えていたことに遅れて気づいた。恥ずかしい。けれど、隠すための仮面を探す時間は、すでにこの部屋にはない。
ミレイユは、そこで初めて指先を動かした。手袋の裾に触れ、わずかに整える。それは自分の感情を整える仕草ではなく、場を整えるための合図に見えた。
「エダン・フロスト教官は、あなた方の視界にいた?」
来た。私は心臓がひとつ、余分に跳ねるのを感じる。
「はい。距離は……」
私は具体の距離と、教官の動きの少なさを述べる。彼は見ていた。ほとんど動かなかった。口元だけが厳しく結ばれていたのを覚えている。助けに入らなかったのか、入れなかったのか、それとも入るべきではないと判断したのか。
「そのとき、何を思った?」
「……呪いました」
自分の声に、自分が驚く。喉の奥で渋い金属の味が広がった。取り繕う言い方はいくらでもある――訓練の趣旨、育成の理念、自己責任。正しい答えは、きっとこの部屋のどこかに用意されている。けれど、最初に生まれた言葉は、それだった。吐き出してしまえば、もう引き戻せない。私はそのまま続ける。
「でも、戻ってからは、怖くなりました。呪った自分が。もし教官が動いていたら、私たちはもっと死んでいたかもしれない。あの人の静止が、最善だったのかもしれない。可能性が、私を軽蔑で守ってくれなくなった」
ミレイユは目を伏せない。私の言葉の上に何も被せない。沈黙が落ちる。沈黙は冷たいが、責めてはいない。振り子時計の振り子が、形のない忠告のように揺れ続ける。
「……いいわ」
彼女の声は、薄い布地の触感に似ていた。刃でも、掌でもないものが、胸の表面を一度だけ撫でていく。




