第72話 :「森本梓:悪夢の終わり、そして芽生えた彼への想い」
瑛太があたしの目の前に現れた瞬間、虫の群れに飲み込まれないように、彼は迷わず神聖魔法を唱えた。
「――(聖なる結界)!」
半円形の光の盾がふわっと広がり、あたしたちを虫の海から切り離す。
「梓、大丈夫か?」
「お、遅い! どうしてこんなに時間かかったのよ、瑛太……。い、いや、違う、あたしは平気だけど!」
……まただ。前はこんなこと絶対言わなかったのに、最近のあたしはどうも瑛太に素直になれない。
なんで無意識にこんな言い方をしちゃうのよ。あたし、まさかツンデレなの?
「ははっ、遅くなって悪かったな梓。君が一番落ち着いてると思ったから、先に美月と凛を助けたんだ」
「えっ? 二人も何かあったの?」
「ああ、長くなるから簡単に言うと――君と同じで夢に囚われてた」
瑛太の説明によると、あたしたちは満腹になって寝たあと、この夢の中に閉じ込められたらしい。夢の中では魔力と精神力がじわじわ削られて、ゼロになったら命を落とす可能性がある。だから、危険度の高い美月と凛を先に救ったそうだ。
理屈は分かる。けど……気持ちは全然すっきりしない。あたしにとって今の瑛太はあたしの最優先なのに、同じように思われてない気がして……胸がチクっとした。でも、その次の言葉で、そのモヤモヤは一瞬で吹き飛ばされた。
「でも梓、ありがとうな。ずっと俺を待ってくれて。ちゃんと自分の恐怖を乗り越えてくれて、本当に嬉しい。美月たちは自分でその一歩を踏み出せなかったから、俺が先に助けた。だから梓は、自分を誇っていいんだ。平凡だなんて言っても、ちゃんと一人で恐怖に向き合える強い心を持ってる。本当に勇敢な女の子だよ。美月や凛に負けない魅力と力を、俺はちゃんと知ってるよ。」
……こういうこと、なんでこの人はそんな自然に言えるのよ。さっきまで無自覚に傷つけてきたのに、次の瞬間には一番欲しい言葉をくれるんだから。ずるい。
「ありがと……でも今のあたし、ただの狐だよ? 女の子ですらないのに、魅力なんてあるわけ――」
反射的に否定しちゃう自分に、あたし自身うんざりしてくる。けど瑛太は、そんなあたしを簡単に逃がしてくれない。
「関係ないさ。姿が狐でも、梓は梓だ。ちょっと不器用で、不愛想なところもあるけど、真っ直ぐで、必死に前に進もうとする森本梓。俺から見れば何も変わってない。人の価値は見た目じゃなくて、行動で決まるんだ。日本から異世界まで、梓はずっと努力し続けてきた。本当に優秀で、前向きな女の子だよ。」
や、やめて! お願いだからそれ以上言わないで!なんでそんな恥ずかしいことを平然と言えるの!? こっちは死ぬほど照れてるんだけど!?唯一の救いは、今が狐の姿ってこと。もし人間の姿だったら、顔真っ赤なのがバレバレだわ!
「あーっ! その辺でストップ! 忘れてない? あたしたちまだ虫の海の真ん中にいるんだけど!? 瑛太、これどうやって脱出するつもり?」
「んー、それが俺にもよく分からなくて」
「なんでよ! 美月と凛は助けられたんでしょ!? なんであたしのときだけ分からないのよ!」
「落ち着け梓。二人は自分の中で一番深い恐怖と向き合ってたから、周りを観察すれば夢と魔力の流れを把握できた。でも君の場合、この虫たちはただすごく嫌いなだけで、心を引き裂くほどの恐怖じゃないだろ? だから同じ方法は使えない」
「……あ、そっか。ごめん、急に怒って」
瑛太は気にした様子もなく、辺りを見回して脱出の糸口を探している。
――あたしが本当に発狂するほどの恐怖。それはきっと、さっきのあれだろう。あれは確かに心を粉々にした。でも瑛太があたしを取り戻してくれた。だから、もう二度と同じことで倒れたりはしない。
「瑛太、魔法で虫をなんとかできないの?」
「無理だな。ここにいるだけで魔力を消耗するから、下手に使えば、君一人で虫の群れと戦うことになるぞ?」
「そ、それは絶対イヤ!!」
「でしょ? ……それはそうとさ、梓ちょっと気になるんだけど――自分の家のリビングに何かあったの、気づいた?」
「リビング……? 虫だらけだった以外は……あっ! あった! ゴキブリの群れ……! あの子たち、襲ってはこないけど、リビングとキッチンの境目あたりで固まって……なにしてるんだろう……」
「なるほど、やっぱりそこが鍵みたいだな。」
瑛太によると、あの場所には強いエネルギーの流れが集まっていて、夢の中ではそういう場所に核心――つまり、重要な人や恐怖の対象があるらしい……あたしの場合は、やっぱり一番嫌いなゴキブリの群れってわけ? そこに、この夢から出るヒントがあるっていうの?
本当に嫌だけど……このまま偽物の世界に閉じ込められて生きる方が、もっと嫌だ。
たとえ人間の体で幸せそうに暮らせても、それが嘘なら意味がない。
痛くても、苦しくても、あたしは現実で足掻きたい。
だって、このまま下のままでいるのは――悔しいから。
強くなりたい。現状を変えたい。もっと自分に自信を持ちたい。
だから、怖くても……あたしは瑛太と一緒にリビングへ向かった。
……そしてついに、奴らの目の前に到着。鼻をつく、あの独特な臭いが漂ってきて、吐き気が込み上げる。
「梓、手を突っ込んでみてくれない?」
「……はぁ!? 本気で言ってるの? こんな気持ち悪い生き物に触れって……瑛太、絶対あたしのこと嫌いでしょ!? こんな無茶振り……!」
「美月も凛も、自分の恐怖をそうやって乗り越えたんだ。梓にもできると、俺は信じてるよ。」
――ああ、この人ほんっとに狡い!きっと美月や凛には、こんな言い方しないくせに。「凛もできたんだから、美月もできるよな?」なんて絶対言わないのに……!
わざわざあたしを煽ってるの、わかってるんだから!
でも……あたし、こんなふうに言われたら、絶対やっちゃうじゃない……。
負けたくない。美月や凛にだって。
そして、瑛太に――あたしもいい女だって思われたい。
だから、嫌悪を押し殺して、少しずつ手を近づけ……群れの中に差し入れた。
怖くて目をぎゅっとつぶり、最速で触れにいく!
長引かせたくない、こんな感触一秒だって味わいたくない……なのに、あたしの手に走った感触は――何十本もの脚が這い回るあの嫌悪じゃなかった。
代わりに触れたのは、冷たく硬い石の感触。慌てて掴み上げる。それは、テニスボールより少し大きな、青く輝く宝石のような……宝石?
「やっぱり魔石か……でも、なんで梓の夢にこんなものが……」
瑛太はそれを受け取ると、掌で転がしながらじっと観察した。やがて魔石は淡く光を放ち、その輝きはどんどん強まり――周囲一帯を青白く包み込んでいく。景色が煙のように溶けて消えていき……あたしたちは、やっとここから出られるらしい。
「梓、今度目を覚ましたら、そのまま戦闘になるぞ。」
「え? 何それ?」
「今回の元凶は《悪魔》の魔物だ。夢の試練を解いたってことは……つまり次は直接対決だ。」
「……なるほどね。で、それを今言うのは何のため?」
「覚悟をしておけってこと。今の君、狐の体だろ? 慣れてないはずだ。」
最後の最後まで、瑛太はあたしのことを気遣ってくれる……なんか、美月があんなに瑛太を好きなのも、ちょっとわかってきた気がする。きっと、こういう優しさと――自分をちゃんと見てくれてるって感覚が欲しいんだろうな。
「あたしは大丈夫。この体でも、ちゃんと異世界で生きていくから。安心して。」
返事を聞く前に、瑛太の姿はふっと消えた。周囲は真っ暗になり、意識がゆっくり沈んでいく。
……やっと、目が覚める。そして今度は、《悪魔》のことも――瑛太のことも、絶対に諦めない。
こんなに温かい想いをもらったんだ。簡単に手放してなるものか――!