第63話 :「星野美月:今度こそ、己が信念のままに。目を覚ました決断」— 2
もう何周したんだろう……この窒息しそうなほど馴染み深い住宅街を。
家、学校、コンビニ、駅、公園、また家――まるで終わりのないランニングマシンみたいに、ずっとぐるぐる回っている。
でも私は諦めたくなくて。逃げ出せるヒントがまだ見つかっていないことが悔しい。瑛太さんは「この世界に真正面から向き合えば、出口が見つかる」と言ってくれたんじゃないの? それなのに出口が見つからないなんて、私、まだ何か見落としているだけじゃないのかな?
私は諦めずに歩いた。歩きながら過去を思い出して、「現実じゃない」ことを示す小さな痕跡を探していた。
そして数時間も歩き続けたとき、ひらめいた。出口の鍵は……瑛太さんの家、かもしれない。
私は立ち止まり、その住所について考えた。以前こっそり書き留めた住所……それは偶然知っただけで、訪ねたこともない。でも、なぜか「行けない」と思っていた。
でも、今なら……ちゃんと向き合ってみたい。勇気を出して、あの住所へ向かおう。
記憶に頼って進むと、その路は非常に素直だった。住宅地の奥、小道を抜け――確かに初めて来るはずなのに、行くべき場所は自然と分かってしまう。
心臓がどきどきして、やっぱり行くんだ……初めて、好きな人の家を訪ねるんだ、って少しだけ緊張してた。
こっそり歩いて、家の近くまで来たとき、不意に高級そうなアパートを見つけた。管理人さんが外で見回っていたけど、私が通りかかってもただ一瞥されただけで、中へ進めた。
(ここが……この夢から脱け出す鍵の場所かもしれない)
私はエレベーターに乗り、10階のボタンを押した。
そして……
「……ここで間違いないハズ……!」
そのドアの前で止まり、顔を上げた。プレートに刻まれた「藤原」の文字に、鼓動が胸を突き上げる。この夢が、私の記憶から構築されたものならば――環境も学校も友達も、すべてが私の記憶と変わらないなら。
だったら、私は――この「覚えのない場所」に入ってみてもいいはず。こここそが、突破する場所かもしれない。
震える手でドアノブに触れると……──カチッ、と音がして、ドアは自然に開いた。
中は、真っ黒。深くて、底が見えない。でもその瞬間、私は確信した。ここは温かい家庭なんかじゃない。別の空間、圧迫された古びた迷宮の入口……夢の軌道から逸脱した場所。
私は息を呑む。誰にも頼らず、怖くて来られなかった場所だけど……今、私はその前に立っている。
「瑛太さん……また、あなたに頼りたいって思っちゃった……」
小さく笑った──でもそれは涙声じゃない。今回は違うの。
「だけど……今回は、瑛太さんと一緒に……この先を、一緒に歩いていきたいんです」
私は迷わず、扉の奥へと足を踏み入れた。
一歩踏み出した瞬間、ほっとするような温かい空気が顔に触れた。今までの夢の街のように、機械的なNPCが歩く冷たい空気とは違う。
これは、もっと現実に近い――いや、私の理解する「現実」に限りなく近い空気。扉をくぐると、中には豪華だけれど優しい空間が広がっていた。
「……これが……瑛太さんのお家、なのかな?」
私は知らないはずの家に立っているのに、なぜか懐かしくて落ち着いて……この場所に彼の趣味が宿っていると感じた。
控えめだけどしっかりしていて、目立たないけど温かい……私は思わずリビングへ進み、低いテーブルのそばにちょこんと跪いた。
柔らかな木目のテーブルに指先を滑らせていたそのとき——
「ねぇ、それ、勝手に触らないでくれる? あれ、昨日徹夜して描いた絵だから。軽く扱わないでほしいんだけど」
安心する声が聞こえて、私はハッと顔を上げた。
そこにいたのは、「藤原瑛太」だった。脱衣所のドアに立ち、見たことのない私服を着ていて、頭にはタオル。どうやらシャワーのあとみたいで、髪もまだ少し湿っていた。
タオルで髪を拭きながら、そっと私のほうに歩いてきた。
「……瑛太さん?」
思わず声が出てしまう。
でもその表情の中には、私を認識している様子はない。まるで私は――ここにいないかのように。彼は微笑みながら、視線を別の場所へ向けた。
だから私も、彼が見ている先をそっと見た。
そこで私は――見つけたかもしれない。
私は目にした――凛がいた!私服姿で。ノースリーブのシャツにジーンズという、彼女らしいカッコよくてスタイリッシュなスタイル。ソファにのんびり座って、片手にコーラ、片手に瑛太さんが描いたイラストを持って、「今日のヒロインスタイル、めっちゃ可愛いね〜。アニメのキャラ?」なんて瑛太さんをからかっていた。
梓も同じく私服姿。初めて見るような白い可憐なワンピースに身を包んで、凛の横で収集してる漫画を開いて「趣味が地味すぎるよね、これって10年前の作品だよね?」って笑ってて。顔には微妙な微笑が浮かんでた。
瑛太さんはというと……相変わらず、おふたりにツッコミ返しまくりながら、梓の額を軽く指の関節でコツンと叩いたりしてた。
「おまえら、俺よりこの家に住んでるみたいだな」
涼しげに言って、そのまま凛と梓の間に座った……。まるで、……ずっとこのふたりが瑛太さんのそばにいたような雰囲気で。
そしてその隣……私のいる場所なんて、そこにはなかった。
それを悟った瞬間、私の心は深い深い奈落の底へ沈んでいくようだった。胸が締め付けられて、息ができなくなるほど。
瑛太さん……彼の笑顔はいつもの優しい笑顔。でも、その笑顔を向けている相手は私じゃなかった。二人は自然に、まるで私の存在なんて関係ないように、笑い合っていた。まるで私がいなくても、ずっと幸せにやっていけるんじゃないかって。
この世界では、私は彼の側にはいられないんだ……。無言で、ただ現実を破壊するような居心地の悪さを抱え、まるで他人の私生活に入り込んだ居候みたいに。
「……いなくてもいいよね?」
「どうせ誰でも君の代わりになるんだろ?」
その夢の光景とともに、そんなささやきが耳元で囁かれたような気がした。私は本能的に後ずさりして、ドア枠にぶつかった。
心臓がキリキリと痛み、喉が詰まって、まったく声が出せなかった。私が、いちばん恐れていたこと——見られることなく、ただの脇役で終わってしまうこと。
「……い、いや……やだ……」
声にならない声を絞り出して、小さく震えながら呟いた。
その瞬間、私は悟った。
ここは……瑛太さんの家なんかじゃない。私の心の奥にある恐怖そのものだ。私が最も恐れて、見たくなかった「可能性」を具現化して見せている、悪夢だったんだ。
私は手を強く胸に当て、膝を抱えて縮こまった。できる限り視線を閉じた。涙が止まらず、次から次へと溢れた。どんなに逃げようとしても……私は――
受け入れられなかった。
怖かった……「瑛太さんの世界」に、
私の居場所がないってことを。
「……美月?」
そのいつもの優しい声が、厚い黒い霧みたいな心の闇に、一本の光の筋を差し込んだ。私は咄嗟に、顔を上げた。
「あの時」とは違う、その目の奥で――確かに、私を見てくれていた。
瑛太さんは、あの拒絶の客間に立って、私をまっすぐに、優しく見つめてくれていた。そこに映っていたのは、「現実」の彼だった。
「どうしたの? ただフラッと立ってるだけじゃなくて、こっちに来て、一緒に座ろう?」
彼は、私に手を差し出しながら、いつもの笑顔を浮かべた。
でも私は、動けなかった。
脚に鉛でも乗ったように重く、身体が鎖で縛られたように動かなかった。
――違うの。私は、怖くて踏み出せなかったんだ。
「私……本当に、いてもいいのかな……?」
私、本当に……彼のそばにいていいんだろうか?だって、彼のそばには凛も梓もいる。ふたりとも、私よりずっと賢く、美しく、勇敢で、可愛い。
彼にとって本当の助力をするのは、あの二人のような存在だと思う。
私は……ただ、彼のその光だけを頼りにしていただけなのに。
私は彼の心を“独占”したかっただけなんだ。
胸の奥が裂けてしまいそうで、目に涙があふれた。その時、凛と梓が声をかけてくれた。
「美月、瑛太君が貴方だけ放っておかないよ。ほら、こっちおいで」
凛が優しく呼びかけ、梓がさらに踏み込んできた。
「それにね——瑛太は、君だけのものじゃないんだよ」
だが、梓は間近で瑛太に抱きつき、鋭い眼差しで私を見据えた。
瑛太さんも、そのまま笑っていた。まったく動揺せず、それでもちゃんと私を見つめてくれていた。
でも……私にはわかった。
この夢は、本当に私と瑛太さんがこれからも日本で普通に暮らしていたら、実際にこうなるかもしれないという “結果” を見せてくれているだけなんだって。
あぁ――ここで、私はようやく気づいたんだ。
私が梓に対して、なんとなく距離を取っていたのって……本当は、彼女がいつか瑛太さんを奪ってしまうかもしれない、そんな怖さがあったからなんだと思う。
そして、前回の夢で、ずっと瑛太さんと凛の姿ばかりが映っていたのも……たぶん、私の心のどこかに「凛が瑛太さんとくっつくなんて、ありえない」って、思い込んでいたからかもしれない。
でも、この異世界で……瑛太さんが凛を優しく慰めて、そっと抱きしめた瞬間を見て、私は理解したの。
「あ……そうなんだ。これは、ありえない話じゃないんだ」って。
凛だって、瑛太さんのことを、好きになっちゃう可能性……きっとあるんだって。
私はそっと息を吸い込んだ。
胸の痛みはまだ続いていたけれど――その痛みの中に、どこかあたたかさが混じりはじめていた。
うん、わかってる……私は、彼にとって唯一の存在じゃない。
でも、それでもいいの。
彼はね、私の心の奥にずっと立ち続けてくれた人だった。
どんなに暗くて、怖くて、孤独なときも――
彼の真っ直ぐな信念に、私は救われてきたんだ。
だから……私は、瑛太さんが好き。
大好きだよ。
私も、彼みたいにこの痛みから逃げずに、ちゃんと向き合いたい。
もし、もしも私たちが異世界でちゃんと人間の身体を取り戻すことができたら……そのときは、私……
「みんな……ちょっと待っててね。私、今、行くから!」
私は全身の力を振り絞って、一歩を踏み出した。
心の中で、ずっと私を縛っていた見えない鎖が……ほどけていくのがわかった。
一歩。また一歩。ゆっくり、でも確かに前に進む。
瑛太さんは、何も言わずに――ただ、優しく私のことを見守ってくれていた。
ようやく……私は彼の元までたどり着いて、梓と彼のあいだに、ちょこんと座った。
そのとき、瑛太さんの指がそっと、私の頭を撫でてくれた。
「おかえり、美月」
私は顔を伏せたまま、ポロポロと涙をこぼした。でもその涙は、もう苦しさの涙じゃなかった。
これは……自分で一歩を踏み出せた喜びの涙だったんだ。
私、自分で、自分の檻から抜け出せたんだよ。
泣いちゃったのも、自分の意思で動けたから。私、決めたの。
もし、瑛太さんのまわりに集まるお花たちが、異世界という庭で美しく咲き誇るなら……私はその中で、彼が大切に育ててくれる、一輪になりたい。
だってね――
私が、いちばん嫌だったこと。
それは……瑛太さんの隣に、私がいない未来なんて、絶対に、受け入れられないってことだったの!
私は、自分の恐怖をちゃんと見つめて、そして受け入れて……今、ようやく、ここにいる!
《パリン!》
その瞬間――周囲のすべてが、ガラスのように音を立てて砕け散った。
でも――
瑛太さんだけは、ずっと私のそばにいてくれた。
だけどその姿は、もう日本での彼じゃなかった。
異世界での姿――ゾンビのような、でも確かに私の知ってる、瑛太さん。
「美月、ちゃんと自分の恐怖と向き合えたんだね。本当に……よく頑張った。迎えに来たよ!」
彼の声は、いつもの優しい声。
でも今は、それが……世界でいちばん嬉しい言葉だった。
皆さま、こんにちは!
今回の美月編、楽しんでいただけましたでしょうか?
個人的にはとてもお気に入りの章です。やはり、自分の恐怖に立ち向かう勇気を描く物語が好きなんだなと、改めて感じました。
そして、瑛太のことが好きな美月にとって、一番深い恐怖はきっとこれだったのではないでしょうか。
今後、時間が許せば、美月が瑛太に惹かれていく細かなエピソードも少しずつ描いていきたいと思っております。
楽しみにしてくださっている皆さま、ぜひ高評価とブックマークで応援していただけますと嬉しいです!
明日も更新を予定しております!
次回は瑛太の視点に戻り、今回の出来事を少し振り返りつつ、凛と梓の物語へと繋がっていきます。どうぞご期待ください!