第60話 :「星野美月:なぜ、こうなった?!記憶の彼方で崩れゆく現実」
俺は美月の肩に手を置き、少し声を強めて揺さぶった。
「おい、美月、起きろ。」
……それでも反応はなかった。
今度は凛のところに移動し、呼びかけながら体を揺らす。試しに彼女が手放さないはずの刀を鞘から抜いてみても……やはり何の反応もない。顔色もどこか青白く、まるで深い眠りに落ちているようだった。
おかしい。明らかにおかしい。
凛は警戒心の塊だ。刀を握ったまま寝ることからしても、それは明らかだ。なのに……彼女は、それすらも気づかないまま眠っているだと?
最後に梓を確認する。彼女は普段、物音ひとつで目を覚ますほど神経が細かいはずだった。けれど今は、小さく誰かの名前を呟きながら、自分の身体を抱き締めるように丸くなって……まるで寒さに耐えるように震えていた。
「……おかしい。これは絶対におかしい。」
俺は強くそう確信した。
――《皆は我のために、我は皆のために》。このスキルは、仲間同士の感情を繋ぎ、精神的なリンクを可能にする共鳴型の能力。本来は戦闘中の連携用だが……今こそ、使うべき時だ。
──《リンク:感情共有》。発動。
視界がぐらりと歪んだその瞬間、俺の意識は深い深い海の底に引きずり込まれるような感覚に襲われた。
温かく、ぼやけた光の中に包まれて……しかしその奥に、得体の知れない不安が潜んでいるのを感じた。
目の前に浮かび上がるのは、見覚えのある風景。校舎の廊下、運動場、花壇の前にある桜の木──
「……いや、違う。これは……あいつらの記憶じゃない。」
これは造られた世界だ。彼女たちの夢じゃない。迷宮が、彼女たちの魔力と精神力を糧にして創り上げた幻影。彼女たちは……すでに完全にその中に囚われている。魔力と感情を材料にして構築された、優しくて、でも残酷な“心の牢獄”。
そして今……俺だけが、まだ飲み込まれていない唯一の存在らしい。
「……そうか。これが、あいつらの試練ってわけか。」
俺は低く呟き、意識の霧が渦巻く中、遠くに浮かぶ三つの影に目を凝らす。それぞれ別の空間をさまよう彼女たちの姿が、ぼんやりと見えた。
……決めた。俺は、彼女たちを助けに行く。
だが、くそっ……一度に入れるのは一人分だけかよ。
夢の世界は、それぞれの魔力と精神力を基に構築されている。放っておけば、いずれ精神も魔力も擦り減り、命まで奪われかねない。
……冷静になれ、瑛太。焦るな。まずは誰から助けるかを判断しないと。そう思い、俺は一時間かけて三人の状態を見極めた。
一番魔力の消耗が早いのは──美月だった。
……おかしい。彼女は魔法型のスキル持ちだ。魔力量も多いはずなのに、なんで凛よりも早く減ってるんだ?
だが、事実として彼女が一番危ない。
凛はまだ耐えられる。そして梓は……多分、あのスキルのおかげだろう。魔力の減少速度が異常に遅い。致命的になるには、あと数日は持つはずだ。
だから、まずは美月を助ける。そう決めた。
……だが、決めたからって楽になるわけじゃない。
さっきリンクしただけで、俺の魔力と精神力もごっそり持っていかれた。恐らく夢の中にいられるのは、10分が限界。
俺の回復速度と三人の消耗スピードを計算しても、美月と凛に与えられたチャンスは──せいぜい二回ずつ。
あの夢の中、楽園のようで地獄のような……喜びと苦しみが同時に存在する、意味不明な空間。
……だが、選んでる暇はない。覚悟を決めろ、瑛太。今は、救うだけだ。
ふざけやがって、この迷宮……やっぱり一瞬でも気を緩めたら終わりかよ。精神系の攻撃まで仕込んでくるなんてな。でも、ここで立ち止まっても何も始まらない。
「──美月。今、助けに行く。」
俺はそう小さく呟き、彼女の夢の世界へと足を踏み入れた。
——————
《一日目》
──桜が舞い散る学校の道を、私は歩いていた。
見慣れた通学路、懐かしい制服、春の空気。まるで、長くて感動的で、忘れたくても忘れられない夢のよう。
交通事故で命を落として、異世界で猫に転生して、瑛太さんと一緒にダンジョンを冒険して……そんなの、本当にあったのかな。今思えば、ぜんぶ私の妄想だったのかもしれないって、そう思えてしまうくらい、目の前の現実は「いつも通り」で。
私は何事もなかったかのように、自分の子供の頃から過ごしてきた部屋で目を覚ました。
起きたあとは、いつものように学校の準備をする。朝六時に起床して、歯を磨いて、顔を洗って、髪を整えて……いつものルーティン。ちょっと寝癖がついてるけど、大丈夫。可愛い制服を着て、朝食を食べにリビングへ。
今日の朝ごはんも、お母さんの手作り。優しい味。家族と過ごす朝は、やっぱり落ち着くなぁ。朝食を済ませて、私は元気に家を出た。
頬に風が吹いて、前髪がふわっと揺れる。「私」は猫なんかじゃなくて、人間の女の子。十六年間、この身体で生きてきたはずなのに──歩くたびに、なんだかぎこちないの。四足で歩くほうがバランス良かったような……あれ? なにそれ、私、なに考えてるの?
──きっとアニメの観すぎ、だよね。
そう思いながら教室に入った。先生はいつも通りに授業を始めて、クラスメイトも変わらずに笑ってる。なのに、心のどこかがざわついて、ちょっぴり落ち着かないの。こんなにも日常で、こんなにも幸せで、なのに──なぜか、「違和感」がある。
でも、「これは夢だ!」なんて騒ぐほど、私も子供じゃない。とりあえず、授業に集中しよう。休み時間、私は凛と瑛太さんとおしゃべりをしていた。
「ふふ、そうだよね。あのアニメ、本当に面白かった!」
「だよな、美月。どう思う?」
「私も大好きだよ。凛も観てたの?」
何気ない会話の中で、ふと気づく。
……もし、あのダンジョンでの出来事がすべて私の妄想だったとしたら、じゃあ──私と瑛太さんの関係、なんでこんなに近いの?
瑛太さんって、すごく距離感を大事にする人だよね。普段、あまり人の名前を呼ばないし、呼ばれることもあまり好まないタイプ。なのに──私は自然に「瑛太」って呼んでる。それに、瑛太さんも私を「美月」って……。
なんだろう? どうしてこんなに自然に思えるの? 本当に、なにかがあったっけ? それとも……。
「美月、美月。ねぇ、大丈夫? なにか悩んでるの? もしよかったら、話して?」
「ううん、なんでもないよ。ありがとう、瑛太さん。」
「そんなこと言うなよ、美月。俺たち友達だろ? お互いを思いやるのは当然じゃん。」
──そう、だよね。でも、なんだか変。目の前の「瑛太さん」、ちょっと違う気がする。
本物の瑛太さんって、こんなに踏み込んでくる人だったっけ? あの人は、人との距離感をすごく大切にしてくれる。優しいけど、深入りはしない。私の繊細さも、ちゃんと見てくれる人。
でも、今の瑛太さんは──なんだか、近すぎる。
それとも、私が変わったのかな? もっと瑛太さんに近づきたくて、でも、今目の前にいる「彼」には、なぜか怖さを感じる。
……どうして、こんなにおかしいの?
全部、知ってるはずの日常なのに。全部、愛しいはずの世界なのに。なぜか、遠い。昼休み。私は窓際の席で、小さく折りたたんだ一枚の手紙をじっと見つめていた。
「……渡すべき、かな?」
頬がほんのり熱くなる。
それは、ずっと前から書こうと思ってた瑛太さんへの手紙。私の気持ちを、勇気を出して伝えたくて。今日、こんなに違和感だらけなのに、不思議と少しだけ落ち着いて──今なら、渡せる気がした。
手紙には、ずっと伝えたかった思いが込められてる。……そして、これからも一緒にいたいという願いも。
手紙をぎゅっと握って、私は教室を出た。
──すると、廊下の先に、瑛太さんがいた。
彼の隣には、凛だ。
二人は何かを話していて──そして、笑っていた。すごく、楽しそうで、近くて……。
私の足が止まる。胸が、ちくっと痛んだ。頭をふって、笑ってごまかす。「……大丈夫。ふたりは、友達だもんね。」
でも、この痛み……すごく、リアルだった。まるで、前にもこんな場面を見たことがあるような──。その時、もっと近くて、もっと親密だった……抱き合ってるイメージさえ、頭に浮かんできた。
……でも、あれは夢? それとも現実? 私、どうしてこんなに混乱してるの?
心がちくちくして、でも納得してるような、なんとも言えない感情。本当に、今日は……おかしいよ。
朝からずっと、どこかがおかしかった。なにに対しての違和感だったのか、もう思い出せないけど……気のせいだったのかな?
ぼんやりしてるうちに、二人はもう廊下からいなくなっていた。渡そうと思ってた手紙も──間に合わなかった。
……ううん、明日渡せばいいよね。
《数日後》
今日は体育の授業があって、クラスのみんなと一緒に校庭で体を動かしていた。
そのとき、私は見てしまったの。瑛太さんと梓が楽しそうにゲームの話をしていて、ふたりで笑い合っていたの……。
……よくある光景だよね。うん、別に珍しくなんかない。瑛太さんは、前から梓さんとはよく話してたし、仲も良い。
でも、私……私も一生懸命、瑛太さんの好きなもの、興味のある作品、趣味、ちゃんと調べて……たくさん知ろうと努力したのに……。
それなのに、どうして……いつも瑛太さんと話すとき、どこかぎこちなくなっちゃうの?
まるで、私と瑛太さんの間には、透明な壁があるみたいで、どれだけ手を伸ばしても心が届かない気がして……悲しい。
昨日は気持ちが変だったから、うまく話せなかったけど……今日は違う。
今日は、ちゃんといつも通りだし、体調も悪くないし……よし! 今日は絶対、自然に話しかけられる……!
そう決意して、ふたりに近づいた瞬間──
瑛太さんは、ちらっと私を一瞥しただけで、何も言わなかった。えっ……? 挨拶も、してくれないの……?
「え、えっと……ど、どうかしたの、瑛太さん……?」
「うん? 別に。星野さん、何か用ですか?」
──えっ……!? ど、どうして……「星野さん」……?
最近は、お互い名前で呼び合ってたよね……? どうして急に、そんな距離のある呼び方に戻っちゃったの……?
「う、ううん……ただ、梓と楽しそうに話してたから、私も混ざりたくて……」
「そうですか。どうぞ」
──あれ……? これ、誘ってくれたわけじゃなくて……ただ、仕方なく認めただけ、なの……?
会話に入ろうとしても、ふたりは私を避けるように話を進めて、私の言葉は何度もすり抜けていった。
凛と梓も、私に気づいてるのに……どこか気まずそうな表情を浮かべて……まるで、私が場違いみたいに。
……ど、どうして……?
凛、あなたは……私の、親友だったんじゃないの……?
……私たち、どうやって親友になったんだっけ……?
思い出せない。でも、親友だったよね……たしかに……。
もう、だめだ……ここには居場所がないみたい……。
私は仕方なく、他のクラスメイトとバスケットボールをすることにした。そして、今日の昼休み。私は朝早く起きて、一生懸命作ったお弁当を瑛太さんに渡そうとしたの。
だって、少しでも……私の気持ち、伝わればいいなって思って……。でも、瑛太さんは黙ってお弁当の箱を見つめ、冷たく言った。
「もう、やめてくれない?」
「……え?」
「そんなに俺に構わないで。正直、迷惑なんだ」
その瞬間、手から力が抜けて、お弁当は地面に落ちた。
「そうそう、星野くん。瑛太君のお弁当は、これから僕が作るから。あなたの過剰な気遣いなんて必要ないのよ」
「凛……? なに言ってるの……? 私たち……友達だよね? どうして……『星野』って呼ぶの……?」
「はっきり言わせてもらうわ、星野くん。あなた、誰にでも馴れ馴れしく話しかけて、正直うっとうしいの。もうやめてくれる?」
「……そ、それは……私は、そんなつもりじゃ……!」
「はあ……ほんと、話が通じないタイプね。行こう、瑛太君。あ、そういえばさっき星野くんがお弁当渡そうとしてたけど……私の手料理のほうが、絶対美味しいよね?」
「もちろんだよ、凛。君の料理、楽しみにしてるよ。だって俺、《料理できない》からさ」
「ふふっ、ほんとしょうがないんだから。じゃあ、今日は《私の家》に来てね。今日の晩ご飯は私が最高のディナーを作ってあげる」
……もう、私は彼らの輪の中に入れなかった。
言葉も届かなくて、気持ちも届かなくて……
でも……消えていたはずの違和感が、またふわっと湧き上がってきたの。
しかも、今度のは……もっと、もっと強くて――
だって、凛は――《男の人が苦手》なんだよ?
いくら瑛太さんだからって、自分の家に招待するなんて……そんなの、あり得ないよ……!
それに、もうひとつ。
瑛太さん……あなたは、本当にお料理が上手なはずなんだよ……!?
あの、私のためにそんなに気持ち悪い食材も、ちゃんと工夫して、美味しく食べられるようにしてくれて……
「大丈夫だよ、美月のために、ちゃんと考えたよ」って……笑ってくれたじゃない……!
――違うの!?
……
ううん、まって。
瑛太さんって……そんなに料理、得意だったっけ……?
私、どうしてそんなふうに思ったんだろう……?
だって、今までお弁当を持ってきたところなんて、一度も見たことなかったし、
だからこそ、今日は私が頑張って作ったお弁当を渡したかったのに……。
それに……その「気持ち悪い食材」って、なんだったの……?
えっ、えっ……私、どうしてそんなことまで知ってるの……?
この違和感……この胸のざわつき……
もしかして――私、何か大事なことを……忘れてる……?
皆さま、今回の夢の挑戦編、お楽しみいただけましたでしょうか?
美月の夢の続きは、明日の21時に公開予定です。ぜひご期待ください!
次回は、瑛太が美月の夢の中に侵入する展開となる予定です。
もし物語が長くなってしまった場合は、美月が夢から目覚めるまで、もう一話かかるかもしれません。
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