第56話 :「間章:マリアの嘆息、そして覚悟の裡に」
天界の聖域において、勇者・望月澪が《悪しき覚醒》へと足を踏み入れたその瞬間、女神様は静かに背を向け、後の処理を全て熾天使マリアへと託した。
浮遊する聖なる神殿の頂で、マリアは静かに立ち尽くしていた。
遥か眼下、青灰色の大地に刻まれた迷宮層を見下ろすその眼差しには、もはや焦りも不安もなかった。
その表情はどこか懐かしさすら漂わせており、まるで長く離れ離れだった劇の再演を見守る観客のように——静かに微笑を浮かべていた。
魔力で構築された映像が、淡い光を放ちながら揺らぎ、そこに一人の少年の姿を映し出す。
藤原瑛太——その名の少年が、目の前で崩れかけていた少女の手を、優しく、それでいて確かに握り締めていた。
「……成功しましたね」
その小さな呟きには、安堵と、どこか感慨深げな響きが混ざっていた。
幻影の魔物だけでなく、人の心のもっとも冷たく、深い闇をも乗り越えてみせたその姿に、マリアの胸はじんわりと温かく満たされていく。
「……本当に、優しい方ですね」
そう、彼は誰よりも人の心に寄り添うことができる。
今、彼は森本梓という少女を、崩れかけたその心ごと抱きしめていた。
拒絶せず、歪めず、ただまっすぐに向き合い、彼女の手を取り、信じるという力を言葉にして届けている。
マリアの視線が、画面の中の彼に釘付けになる。
不器用ながらも真摯な態度で、瑛太は他人の弱さを受け入れ、支えることを自然に行っていた。
梓の心は今、再び形を取り直し、より強く、そしてもう簡単には折れないものへと生まれ変わろうとしている。
そして同時に——彼女は本当の意味で、藤原瑛太という存在に惹かれ始めていた。
鷹山凛の想いもすでに彼に傾いている。
これで三人は、瑛太を中心とした堅固な絆を持つパーティとなるだろう。
だが——一夫一妻の価値観を持つ日本人である彼女たちにとって、その関係は決して容易なものではない。
一歩間違えれば、衝突や分裂すらあり得る。
しかしマリアには確信があった。瑛太はその関係性すら、誠実に、正面から受け止められる器を持っている。
(……きっと、大丈夫です。瑛太なら、きっと)
彼の持つ雰囲気、未来の展望、スキルの成長性——すべてが示している。
複数の女性の想いを背負いながらも、誰一人不幸にせず進める者。
マリアは、かつて他の世界でそのような「特別な者」たちを見てきた。
彼らは妻子に囲まれ、仲間に愛され、世界に必要とされた存在だった。そして瑛太もまた——その系譜に連なる者。
彼は、眩しいほどの英雄でもなければ、人々を圧倒するような神聖さを持つわけでもない。だからこそ、誰よりも深く、人の心を温めることができるのだ。
(……この三人なら、きっと邪神にも立ち向かえる)
そう、邪神と対峙するにあたって必要なのは、力だけではない。強靭な精神と揺るがぬ意志——それこそが、鍵となるのだ。
「私……忘れていたのですね、かつての私も、そうだったことを」
ふと、マリアの唇が穏やかにほころぶ。彼女の脳裏に、遥か昔の仲間たちの笑顔がよみがえる。
世界の大戦の最中、彼女は最前線に立ち、幾度となく命を賭して仲間たちを守り続けた。
「私が一撃でも多く防げば、仲間が一秒でも長く生きられる」——
そんな想いを胸に、剣を振るい続けてきた。
今、彼女は瑛太の姿に、かつての自分を重ねていた。
そこには、「強さ」ではなく、「信頼」と「繋がり」の光があった。
力を誇るでもなく、世界を憂うでもなく、ただ隣の者と共に歩もうとする——
同行者の姿。
「……なるほど。これが……女神様がおっしゃっていた“あの人”なのですね」
再び目を開いたマリアの瞳は、ただの観察者ではなかった。
そこには、久方ぶりに燃え上がる熱情が宿っていた。
ようやく理解できた。
なぜ女神様が、人間の可能性を信じているのか。
なぜその成長を待ち続けているのか。
(私も……もう一度、信じてみたい)
力で世界をねじ伏せるのではなく、静かに、しかし確かに寄り添うことで——
それもまた、女神の御業の一つであると、ようやく思い出せた。
マリアはそっと幻影を消し去り、両手を胸元で組む。
そして心からの祈りを捧げるように、静かに呟いた。
「……どうか、彼に祝福があらんことを。そして私も、ほんの僅かでも……彼の力となれますように」
六枚の白銀の翼が、音もなく展開する。
背後には、神聖なる光がそっと差し込む。
それは気高く、清らかでありながらも、もはや遠い存在ではなかった。
彼女は決めたのだ。命令ではなく、義務でもない——
ただ、彼のような者の未来を、信じてみたくなった。
だからこそ、マリアはもう直接的な介入はしない。
ただ静かに、陰から見守り、導いていく。
そう——これは、彼女が「心からの意志」で下した、はじめての決断だった。
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