第52話 :「鷹山凛、傷つき絶望しても、心折れぬ女」
俺は再び、あの暗い通路へと転移された。美月の姿はもうここにはない。
となれば——進むしかない。この通路の奥へ。きっと、凛と梓はその先にいる。
壁には、あの残酷な映像が今も流れ続けていた。彼女たちの心を引き裂く、見たくもない記憶の断片。あれは迷宮の悪意ではない。——呪いだ。
俺は通路の奥深くへと走った。
進めば進むほど、空間はどんどん歪んでいく。石畳も蔦も消え、夢の中のような奇妙な世界が広がっていた。
湿った冷たい空気に包まれ、壁は液体のようにうごめきながら、彼女たちの心の奥にある映像を映し出していく。
凛の恐怖は、「大切な人を守れなかった記憶」。
梓の恐怖は、「自分の平凡さを受け入れられない心」。
それは幾重にも重なった、心理のバリアだった。
「……凛、梓……! どうか耐えてくれ……」
どれほど走ったのか、時間の感覚すらも曖昧になった頃——やっと、空間の最深部に辿り着いた。そこは円形の広場のような場所だった。
「凛! 梓!!(ニャー!)」
美月がそこにいた。彼女はすでに到着していて、懸命に二人を呼びかけていた。
そこで、俺はある衝撃的な事実に気づく。
美月が俺と会話できていたのは、あれはスキルによるリンクの効果だった。
現実世界では……彼女の声は、ただの「猫の鳴き声」だったのだ。
それで、凛は美月の事が全然気付かない。
——目の前の光景は、まさに悪夢のような戦場だった。
凛は、巨大で異様な怪物と戦っていた。
それはもはや骸骨などではない。歪んだ感情と恐怖から構成された、得体の知れない化け物。
その目は血のように赤く、背からは触手のような幻影が伸び、攻撃のたびに不可解な光の幕を周囲に放っていた。
その光の幕は、まるで映写機のように——
凛と梓の心の傷を映し出し、繰り返し再生していた。
「う、ああああああああああああああっ!!」
凛が怒号を上げながら、剣を振り抜く。その動きは今も鋭く、剣閃には迷いがなかった。けれど——遅い。
一振りごとに、見えない鎖に引きずられているようだった。回避の動作も、ほんのわずかに遅れている。
まるで、背中に計り知れない重圧を背負っているかのようだった。
「な……んで……また、見せられなきゃ……ならないの……!」
かすれた声が漏れる。彼女の顔には、痛みと苦悩が浮かんでいた。その目尻には、涙の跡。
それでも凛は、戦っていた。守っていた——その背後に倒れて、頭を抱えている梓を。
「……私なんて……私なんて……」
梓は地面にしゃがみ込み、両手で頭を抱えていた。身体は小刻みに震え、膝に顔を埋めて縮こまり……まるで、糸が切れかけた人形のようだった。
そして彼女の周囲には——「もっと完璧な梓」が、幽霊のように浮かんでいた。その幻影は笑顔で彼女に語りかける。
——「あなたはただの代用品。」
——「みんなが好きなのは私。あなたじゃない。」
——「瑛太だって、一度も本気であなたを見たことなんてないよ?」
「やめて……うるさい……」
梓の声は、今にも消えそうだった。両手で必死に耳を塞ぎ、目も口も、幻影を拒絶していた。
彼女の瞳は完全に焦点を失い、深い闇の中を彷徨う欠片のようだった。幻覚と戦い続けてはいるが……限界は近かった。
「凛……にげて……わたし……じゃまに……なって……る……」
「もう……魔法なんて、つかえない……」
凛は答えなかった。
ただ、食いしばった歯を鳴らしながら、黙々と戦い続けていた。服は何箇所も切り裂かれ、肩からは血が流れていた。
それでも、彼女はそれを気にもせず、ただ梓の前に立ちはだかっていた。その眼差しは、強かった。信じられないほど、強かった。
……そのとき、俺はようやく気づいた。
彼女たちがまだ倒れていない理由に。
凛は、かつて守れなかった「妹」を、今、梓に重ねているんだろう。
たとえ幻覚が痛みを与えても。
たとえ心が砕けそうでも——
たったひとり、守るべき誰かがいる限り。彼女は、決して諦めない。
「美月。」
「瑛太さん……来てくれたんですね……!」
彼女も、この地獄のような光景を見て、呆然としていた。
「一緒に行こう。……彼女たちを救うんだ。」
俺は武器を構える。その瞬間、俺の中で何かが微かに震えた。
そして次の瞬間——
俺たちは、戦場へと踏み込んだ。
空気はまるで透明な壁のように凝り固まり、重く、そして冷たかった。
怪物の気配は依然として周囲に漂っていたが、俺たちの視界に最もはっきりと映っていたのは――彼女だった。
――鷹山凛。
かつて俺たちの学年で一番クールで、鋭くて、そして頼れる存在だった彼女が、今は満身創痍で、歯を食いしばりながら立っていた。
「凛!!」
俺はその名前を叫んだ。だが、返事はなかった。彼女の視線が鋭い刃のようにこちらを切り裂く――それは驚きでも、信頼でもなかった。
……それは、警戒。いや、敵意すら含んでいた。
「また……新しい敵……?」
(ちがう、俺は……ああ、そっか……)
彼女の目に映る俺は――腐った皮膚、血の気を失った腕、そして真紅の瞳。
……そうか、今の俺の姿は、どう見ても人間には見えない。彼女の記憶にある“藤原瑛太”には、到底見えないはずだ。
美月が俺の肩に飛び乗り、やさしく「ニャー」と鳴いた。
尻尾が俺の首元をそっと撫でるように揺れていた。まるで「大丈夫、きっと思い出してくれるよ」と言っているかのように。
だが――凛は俺たちに一瞬の隙も与えてくれなかった。
「……梓には、近づくな。」
彼女が静かに告げた。その声は冷たく、手にした剣が風を裂き、雷のような怒気を帯びていた。
「お前が誰であろうと、あと一歩でも梓に近づいたら……斬る。」
言い訳しようとした俺の口から、声は出なかった。
彼女にとって、俺は“瑛太”ではなく、ただの――不死の化け物。梓の前に現れた脅威の一つ。
「……梓には近づくな。(斬心・一文字)」
彼女は風のような速さで踏み込んできた。
剣閃は地面すれすれを這い、俺は反射的に短剣を抜いて受け止めた。
ガキィィン――!
金属同士がぶつかる激しい音が響き、腕が痺れるほどの衝撃が走った。俺は反撃せず、ただ下がった。だが彼女は追撃の手を緩めない。
――「梓に近づくなって言っただろ!!」
怒声とともに斬撃が容赦なく振り下ろされる。必死にかわし、受け止め、それでも彼女の一撃が俺の頬を掠めた。
流れたのは――血ではなかった。乾いた、黒い液体が一滴、地面に落ちた。彼女の動きが一瞬だけ止まる。
その瞬間、俺は一縷の望みに賭けて、声を振り絞った。
「……凛、お前……ほんとに、強くなったな。」
荒く息をつきながら、言葉を紡ぐ。
「覚えてるか……? 部活のとき、初心者を泣かせた件……。俺、代わりに謝ったんだよな……」
凛の目が細くなり、疑念を込めて俺を睨む。
「……しゃべれるの? いや、それより……なんでそれを……」
「だって……あの時、お前、本当は優しくしたかったんだろ? でも上手く言葉にできなくてさ。剣には厳しかったから、部の新入生みんなビビってたけど……」
彼女は返事をしなかった。だが、攻撃の手は止まり、足も止まった。俺は言葉を続ける。
「お前は、そんなに簡単に怒るやつじゃない。言葉はぶっきらぼうだけど……ちゃんと、みんなのこと大切にしてた。」
凛の瞳がわずかに揺れた。
「今だってそうだ。梓を守って、誰にも傷つけさせないようにして……そういうところ、全然変わってないよ。」
もう、彼女の剣は動かない。重くなる呼吸だけが、俺たちの間を埋めていた。
そして、彼女は俺の顔をじっと見つめたまま、何かに気づいたように目を見開いた。その唇が、風に消えるような声で動いた。
「……藤原……瑛太?」
俺は、ゆっくりと頷いた。近づこうとはせず、その場に立ち尽くす。
そのとき、美月が肩から飛び降り、凛の足元へ近寄り、そっと脚にすり寄った。そして、仰ぎ見るように「ニャー」と鳴く。
「ちなみに……その猫、星野美月だよ?」
「……美月、お前……猫になったの!?」
凛の目がさらに見開かれる。俺は苦笑を浮かべた。
「……ごめん。こんな姿になって、こんなに遅くなって……でも、ようやく会えたな。」
しばらく、凛は何も言わなかった。
ただ――ゆっくりと剣を下ろし、警戒を解いて。そして、手を上げて――目を覆った。
「……ばか……っ」
その声はかすれていて、まるで長い間抑えていた感情が、今やっと溢れ出したようだった。
「……死んだと思ったんだぞ……私たち、ずっと……」
言葉が途切れ、彼女はついに――泣き出した。
俺は、そっと歩み寄って、彼女の肩に手を置いた。
そして、優しく抱きしめた。せめて、それで少しでも安心させられるように。
凛だって、たくさんの幻に傷ついて、自分の恐怖と向き合って――ようやくここまでたどり着いたんだ。
その瞬間、彼女は……拒まなかった。
――俺たちは、ようやくお互いを取り戻したんだ。
——【条件達成:皆は我のために、我は皆のために】——
《精神リンク確立: 鷹山 凛》
《対象の被ダメージを50%軽減 50%は契約主へ転送重度の精神疲労に変換》
《リンク安定化 心の共鳴度:A》




