第50話 :「迷宮が暴く、偽りなき感情の真髄」
左側の画面がまだ鷹山の哀しみに囚われている一方で、右側に映し出された「教室」の映像も、いつの間にか静かに、しかし確実に様相を変えていた。
最初は些細な違和感だった。窓の外にあったはずの陽光が突然消え、教室全体の光が灰色に沈んでいく。まるで画面の彩度だけが急激に下げられたような、扁平で冷たい光だった。
その異変に気づいたとき、森本梓が席を立ち、手を挙げて教師の質問に答えていた。
いつも通り、彼女の口調は丁寧で論理的。完璧な敬語で、自分の意見を的確に述べていた。
それは、俺ら全員が「さすが森本」と納得する、完璧な回答だった。
……にもかかわらず。
「違う、それは間違いだ」
教師は眉をひそめ、低くそう呟いた。そして何の説明もなく、彼女を一瞥することもせず、黒板に赤いチョークで力強く「×」の字を叩きつけた。
教室に、ひと瞬の静寂。
直後に響いたのは、笑い声。いや、嘲笑だった。
数人の男子がひそひそと話し出し、女子たちは小声で笑いながら言った。
「え? あの梓が間違えるの?」
「勉強だけが取り柄じゃなかったの? マジで恥ずかし……」
森本はその場に立ったまま、表情を凍りつかせていた。手に持ったプリントがかすかに震えている。
それでも、彼女は何も言わず、静かに席に戻った。 映像が切り替わる。今度は学級会の時間だ。
森本はノートとホワイトボードのペンを抱えて、教壇の前で真剣に意見をまとめようとしていた。
「皆の意見は一応記録していますので、もしよければ──」
「いや、来週練習あるからムリなんだけど?」
「私もいないから、てきとーに決めて~」
「一部なら手伝うけど、全部はムリ!」
……誰も、彼女の言葉を聞こうとしなかった。誰も、真面目に向き合っていなかった。
教室の中心にいるのに、まるで存在しないような透明感。その瞬間、カメラが静かに引いていく。映ったのは、昼休みの一場面。
窓際の隅に、俺と美月、そして鷹山の三人が集まって、アニメの話やラノベの設定、美月の手作り弁当の中でどのおかずが一番おいしいかで盛り上がっていた。
あのときの鷹山は珍しく心から笑っていて、美月は笑いながら俺にこっそりスイーツを差し出していたっけ。
俺の記憶が正しければ、そのとき笑って隣で話していたのは《森本》だったはずなのに……なんで、美月にすり替わってる?
――画面が少し右にズレて、そこにもうひとりの姿が現れる。
森本梓。
彼女は自分の席に座って、教科書を抱えながらこちらを見ていた。その瞳には、怒りも、嫉妬もなかった。
ただ――言い表せない感情。
寂しさ……それとも、羨望?
いや、それだけじゃない。
彼女の目は震え、唇を噛みしめ、指先はノートに触れているのに、何も書けずにいた。近づきたい。でも、足が一歩も動かない。
……そして、次の瞬間。俺たち三人の隣に、ひとりの少女が座った。
それは――「梓のようでいて、完璧すぎる梓」だった。
背筋は真っ直ぐ、表情は自信に満ちていて、話し方も洒落が利いている。
彼女は画面の中の「俺」と一緒にアニメの話を笑いながらし、美月とも自然に打ち解け、さらには鷹山と剣道の大会について語り合っていた。
「資料まとめておいたよ」と言って俺に褒められ、「すごいな」とまで言われていた。
――おかしい。
森本と美月の関係なんて、せいぜい「友達かどうか怪しい」くらいだ。美月は俺と森本会話するとき、なぜか目をそらしたり、鷹山がいないと空気が悪くなったりしてた。
森本は運動音痴で、剣道のことなんてわかるはずがない。
資料の整理だって、たまに手伝ってくれるくらいで、こんなに万能なわけがない。
こんなの、あまりに――虚構じみてる。
完璧すぎて、森本梓じゃない。
だって彼女は、規律に厳しく、勉強に真剣で、不器用で、でもアニメが大好きな……そういう「人間」だったはずなんだ。
そしてその「本物の梓」は、画面の端でひとり、すべてを見ていた。
声を出そうとした。けど、言葉は一言も発せず。
ただ、ノートをそっと閉じただけ。
映像なのに、はっきりと“パタン”という音が僕の心に響いた。まるで、心の扉を閉じる音のように。
「森本……君は、自分にそこまで不満を抱えていたのか?」
思わず、呟いてしまった。隣にいる美月の猫耳が垂れ下がり、しょんぼりと落ち込んだように見えた。
「梓……もしかして……私と仲良くできてなかったから、自信なくなっちゃったのかな……?」
「いや……違う。もっと前からのことかもしれない……」
そう答えながら、僕は言葉を失っていた。
だって――これは、僕たちがいままで見ようとしなかった、森本梓の「孤独」だったからだ。
森本は、いつだって真面目に授業を受けていた。
毎日、学級委員としての役目を果たし、みんなの意見を整理して、客観的な立場から全員が納得できる結論へと導いていた。
でも、あいつは……本当に一度でも「輪の中に入って」俺たちと笑い合えたことがあったのだろうか?
いや、彼女自身がそう思っていないのかもしれない。
自分にはその資格がないって……あの「友達としての席」でさえ、「自分より優れた誰か」に奪われたって。
――いや、ちがう。
そうじゃない。
きっと森本の心が、彼女自身にこう告げていたんだ。
『君なんて、全然ダメだ』
『ただ便利な学級委員でしかない』
『本当に彼らと一緒に笑えるのは、君じゃない』
……その瞬間、俺はようやく理解した。この空間は、ただの記憶映像なんかじゃない。
彼女たちの心の奥底――
もっとも脆く、誰にも見せたくなかった“傷口”を、容赦なく引き裂いているんだ。
目の前の二つの映像が、刃のように俺の胸を刺してくる。でも、悪夢は終わっていなかった。いや――まだ、始まったばかりだった。
「パキン」という軽い音が、左の壁から響いた。
最初は一本の細い亀裂だった。だがその直後、壁面の光がまるで鏡のように――
粉々に砕けた。
鷹山が妹の亡骸を抱きしめて泣き叫ぶ映像が、無数の破片へと引き裂かれていく。
そしてその一つ一つの欠片が、新たな「記憶」へと広がっていった。次の瞬間、左側の壁いっぱいに、十、いや何十もの映像が映し出された。
――妹が車に撥ね飛ばされ、彼女が膝をついて医者に懇願する姿。
――隕石で都市が崩壊し、焦土の中を必死に走るも誰も見つけられない映像。
――病院で、医者に余命を宣告され、薬の瓶を床にぶちまける場面。
――火災、毒霧、洪水、戦争……
――そして、感染症に倒れた妹を自らの手で葬り、「ごめんね」と叫ぶ口の動き。
どの場面でも――必ず「死」があった。そしてどの場面でも、鷹山は何度も、何度も、大切な存在を喪っていた。
最初の彼女は耐えていた。歯を食いしばり、冷静に、剣で危機を退け、理性で状況を読み取ろうとしていた。
しかし、映像が増えるにつれ、彼女の表情は崩れていく。
涙、悲鳴、怒声、床を殴る拳……
ついには自分自身を殴り、壁に拳を打ち付け、鏡を叩き割り、空に向かって咆哮する姿へと変わっていった。
……これは、ただの幻覚じゃない。これは“檻”だ。「妹の死」が繰り返されるたびに、彼女の魂が少しずつ削られていく。凜はここで、何度も、何度も壊されているのだ。
「凜……!」
俺は低く名前を呼んだ。でも、その声は壁を越えなかった。
……そして、その時。右側の「教室」もまた――崩れ始めた。
パキィッ……
まるで絵画が裂けるような音と共に、教室の風景がねじれていく。あの、隅でひとり立っていた梓の姿が、次第に無数の場面へと細かく分裂していった。
――部活の会議で、梓の企画が笑い飛ばされる。
――家庭の食卓で、彼女が話そうとするも兄弟に会話を奪われ、誰にも気づかれず席を立つ。
――朝、必死におしゃれして登校したのに、背後で「どうせ似合わないよね」と囁かれる。
――文化祭で裏方に尽力したのに、謝辞に名前が載らない。
――趣味のアニメ掲示板でさえ、もっと考察が上手くて、絵が上手くて、話が面白い「別の梓」が称賛されている。
一つ一つの映像が、目まぐるしく切り替わる。そこに映る梓の表情は……魂が抜けたようだった。
笑顔も、怒りも、悲しみもなかった。
ただ――見つめていた。
自分が無視され、置き換えられ、忘れられていくのを。
まるで色褪せていく人形のように……
少しずつ、自分を失っていく姿だった。
「違う……これは……彼女たちの心が、壊れ始めている……!」
ようやく俺は、声に出せた。隣に立つ美月も、言葉を失っていた。唇を噛みしめ、猫耳はぴたりと頭に伏せ、尻尾は強く丸まっている。
彼女の震えから、恐怖と痛みがひしひしと伝わってきた。
「瑛太……あなたも、感じているんでしょ……?」
俺はうなずいた。これはただの記憶映像なんかじゃない。迷宮の試練が、彼女たちの“心”そのものを喰らっているんだ。
凜は、大切な存在を何度も喪い、感情を捩じ曲げられている。
梓は、世界から無言で拒絶され、世界と繋がる力すら奪われている。
彼女たちは、今……その幻影の中に囚われている。
身体ではなく――魂が。
俺たちにできることは、ただひとつ。彼女たちを、見つけること。
幻影が鷹山と森本を完全に飲み込んでしまう前に、この「記憶の深淵」から、引っ張り出すことだ。俺は微動だにせず、立ち尽くしていた。
「駄目だ……助けなきゃ……今すぐ、助けに行かないと……!」
俺は咄嗟に一歩、踏み出した。
だが、足元がぬるりと沈む。地面が黒く、泥のように柔らかく変質していた。まるで画面から溢れ出した“感情の残渣”が、俺たちをも呑み込もうとしているようだった。
けど、俺は怯まなかった。わかっていたからだ。諦めるわけにはいかないって。
彼女たちは、俺の仲間だ。
俺はもう、彼女たちを一人きりで、恐怖と戦わせたりしない。
絶対に、しない。