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第49話 :「過去の幻影、迷宮の真実」

 暗く沈んだ通路は、まるで沈黙の奈落に足を踏み入れたかのようだった。


 風の流れもない。魔物の気配すら、まったく感じられない。あるのはただ、俺たちの足音だけ──


 ぱたん、ぱたん──その音が石の階段に響いて、虚無の空間に孤独な音を刻んでいた。


 俺は照明用の魔石を握りしめ、その光で周囲の壁を照らしながら進む。


 灰白色の岩壁。その表面には、命の気配ひとつ感じられなかった。まるで墓場のような沈黙。

 ……と、その静寂を、かすかな「カチッ」という音が破った。


「瑛太さん……見て」


 美月の声は小さかった。でも、その中に隠された不安を、俺ははっきりと感じ取ることができた。


 俺は視線を上げ、照明の光を広げる──すると、左側の壁に、まるで水面のような光の波紋が広がり、そこに映像が浮かび上がった。


 最初はぼやけた色の塊だった。でもすぐに、それは形を持ち、輪郭を描き始めた。


 ──小さな女の子。ツインテールで、洋服姿のその子が、若い女性の手を引きながら、どこか懐かしい場所──公園で無邪気に走り回っていた。


 その公園──あれは……俺が昔、よく通っていたあの団地の近くの公園だ。


「……ありえない……」


 空虚な喉から、かすれた声が漏れた。


 ブランコに飛び乗り、笑いながら蝶を追い、最後に一本の大きな木の下に立ち止まって空を見上げる少女。隣で見つめていた美月が、ぽつりとつぶやく。


「……あの子、すごく幸せそう……でも、なんだか、どこかで見たことあるような……気がする……」


 俺は何も言えなかった。ただの何気ない日常。けれど、それがあまりにも懐かしすぎて、胸の奥が締めつけられる。


 ……その時だった。右側の壁もまた、ゆらりと「目覚めた」。


 同じような光の波紋が広がり、もうひとつの映像が浮かび上がる。


 ──そこに映っていたのは、俺たちだった。


 教室。木の机、白い蛍光灯、使い慣れた黒板、いつもの座席。カーテンの隙間から差し込む陽光すら、はっきりと見えた。


 ……あれは──俺たちの高校、そして、事故に遭う前日の朝。


 窓際の席で、俺があの何度も読み返した画集を開いていた。


 美月は少し斜めに座り、隣の鷹山凛と小声で話しながらも、時折こちらを気にするように目を向けていた。


 後ろの席には、望月澪がイヤホンを片耳につけたまま、鈴木真白たちとゆるくおしゃべりしていた。


 森本梓は最前列で真剣にノートを取り、黒板の内容を丁寧にまとめていた。


「……あれって……わたし……?」


 美月の声は、もはや消え入りそうなほど小さかった。俺の隣に立っているのに、その表情は、まるで方向を失った迷子のようだ。


 俺は瞬きをするのもためらった。今にも、この光の幻が壊れてしまうような気がして。


 ……でも、壊れなかった。むしろ、映像は少しずつ動き始めた。


 チャイムが鳴り、全員が起立、礼、着席。そして、教師が教壇に立ち、授業を始める。


 俺は、異世界の迷宮の深層にいながら……もう一人の「俺」が、あの世界で平穏に呼吸している様子を、ただ黙って見つめていた。


 死んだ人間──ゾンビの俺が、かつて生きていた世界を。


「……これって……幻覚? 記憶? それとも──」


 動揺を隠しきれない美月がつぶやく。俺は彼女の方をそっと見た。美月は黙ったまま、手を伸ばしてその「教室」の映像に触れようとする。


 その手が触れた瞬間、淡い波紋が広がる。けれど、そこには何もなかった。触れられない。ただの光。記憶か、幻影か。


 俺たちは、何も言えず、そのまま立ち尽くしていた。


 教室の映像は、まるで録画されたビデオのように、同じ日常を繰り返している。


 そして左の公園では、あの小さな女の子が今も蝶を追い、ベンチに座る穏やかな女性が笑顔でカメラを構えていた。


 ……でもなぜだろう。その女性の顔だけが、ぼんやりとしていてはっきり見えない。


 ここが迷宮の中でなければ。俺に今も心臓があれば──


 本気で、これが「現実」だと思ってしまっていたかもしれない。


 ──その瞬間だった。


 油断したその一秒を狙ったかのように、左側の光の壁が──「歪んだ」。普通の映像の切り替わりではなかった。


 まるで水面に石を叩きつけたように、「パシャンッ」と波紋が走り、揺らいだ瞬間——色彩が一気に冷え、暗く沈んでいく。陽の光が消え、体感温度すらも下がったような寒気が背中を撫でた。


「……っ」


 嫌な予感が胸をよぎる。そして——俺たちは、見てしまった。


 遠くでのんびりと歩いていた通行人たちが、突然次々と崩れ落ち、痙攣を始めたのだ。体が膨れ上がり、歪み、目は白く濁り、口元から黒緑色の泡がぶくぶくと溢れ出す。


「……ゾンビ……か?」


 思わず口をついて出た言葉に、美月がビクッと反応し、俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。


「瑛太さん……これ、ただの映像じゃない気がするよ……!」


 映像の公園は、地獄へと変貌した。大地が裂け、木々は枯れてねじれ、大通りのビル群には火の手が上がり始める。都市全体が、一瞬でカオスへと転落した。


 人々が、次々とゾンビへと変化し——


 アメリカのホラー映画で見たような、あの「感染系ゾンビ」が、叫びながら生者に襲いかかる。咬まれた者は絶叫し、もがいた末にまたゾンビへと変わり、さらなる惨劇を広げていく。


 まさに——ゾンビ・アポカリプス。


 映像には音がない。だが、それがかえって不気味さを増幅させていた。


 無音の中の地獄絵図は、まるで“静かな絶叫”そのものだった。その中、ある女性が異変に気づき、少女を抱き上げて走り出した。


 カメラが彼女たちの視点に切り替わり、揺れる映像が続く。後方には数十体のゾンビたちが追いかけてきていた。距離が、どんどん縮まってくる……。


 ——助かった、そう思ったその瞬間。


「バシュッ!」


 背後から、異様なゾンビが飛びかかり、口から緑色の毒液を吐き出した。それは矢のように女性の背中に直撃し、液体が全身に飛び散る。


 何故か彼女は倒れこそすれ、即座には倒れなかった。だが——彼女は悲鳴を上げ、顔が一瞬にして蒼白になった。


「……やめて……それは……」


 美月の声が震えた。


 画面の中で、女性は気づく。自分が抱いていた少女の身体にも、毒液がかかってしまっていたことを——


 次の瞬間、彼女は少女を抱き締めて、激しく揺さぶり、必死に叫んでいた。音は聞こえない。それでもその歪んだ表情だけで、胸をえぐられるような痛みが走る。


 毒素は急速に広がっていく。


 少女の瞳が虚ろになり、口がうっすら開き——


 でも、その顔にはまだ微かな笑顔が残っていた。


 そして——息を、引き取った。その瞬間、女性の目が変わった。無音の慟哭をあげ、娘の亡骸を抱きしめ、地面に崩れ落ちる。


 髪は乱れ、指先は地面を掻き、全身が震えていた。次の瞬間——


 彼女はカメラの方へと顔を向けた。その顔を、俺たちは見た。


 それは——凛だった。


「えっ……あれって……(鷹山)凛……?」


 俺と美月は、ほぼ同時に口を開いていた。美月が口を押さえ、息を呑む。俺の中の、何かが深く、深く揺さぶられた。これはただの幻影じゃない。


「感情」だ。


 魂の奥底を引き裂くような、「喪失」の記憶。俺は拳を握りしめ、指がわずかにきしんだ。壁の中の映像で、凛は全ての光を失ったように、膝をついていた。


 口を開けても声は出ず、ただ涙だけが静かに、永遠のように零れ続けていた。


「……瑛太さん……これって……幻なのかな……?」


 美月が弱々しく問いかけてきた。


 俺は答えなかった。

 でも、理解していた。

 これは——迷宮が、俺たちの“魂”を覗いている。

 俺たちの一番見たくない「痛み」を、呼び起こし、投影しているんだ。


「……鷹山……彼女は……本当に、妹を失ったのか……?」


「ううん、違うよ。あの子……やっぱり凛の妹ちゃんだ。私、事故の数日前に凛ちゃんの家に行ったばかりだもん。妹ちゃん、元気にしてたよ。」


 じゃあこれは——思い出じゃない。迷宮が見せている、「もしもの世界」。


 試練。

 拷問。

 仲間の、

 一番深くにある痛みを、俺たちに突きつけるもの。


 鷹山凛は——きっと、《誰か》を失った。

 その喪失が、ここでは“妹”として形を成していた。

 そのとき、ようやくはっきりと理解した。


 この迷宮の第二層——

 本当の敵は、モンスターなんかじゃない。

 それは——

 俺たち自身の「心」だった。


皆さま、こんにちは。


本日は、操作ミスにより、本来は朝8時に公開予定だったエピソードを誤って即時公開してしまいましたことを、心よりお詫び申し上げます。


ですが、どうかご安心ください!


この後、予定通り本日午後3時に次のエピソードを更新いたします。


どうぞ、引き続きお楽しみいただけますと幸いです!



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