第43話 :「《勇者編》勝利の残滓と、力への畏怖」
私は目を覚ました。
天井はほんのりとした米白色で、どこか薬草の香りと微かな魔力の気配が漂っていた。
……魔力、ですか。いつの間にか、そういうものまで感じ取れるようになっていたなんて。やはり、あの《覚醒》の影響なのでしょうか。
体の下には驚くほど柔らかいベッド、その上には王国の紋章が刺繍された上質な掛け布団。
少しだけ腕を動かそうとしたけれど、鉛のように重くて痛みも走った。でも、その手に、髪のように滑らかな感触が伝わってきて——
「澪……!?」
耳元で、聞き慣れた声が響いたかと思うと、次の瞬間、何か温かいものが私の体に飛びついてきました。
「やっと……やっと目を覚ましてくれて……! 本当に、良かった……っ!」
——エミリアさんだ。
私が顔を向けると、泣き腫らした真っ赤な目がすぐそばにあって、彼女はまるで私がもう二度と目を覚まさないかのような勢いで、ぎゅっと私を抱きしめていました。
「なんで……なんであんなに無茶したの……? そんなこと、しなくても……良かったのに……」
しゃくり上げるような声。途切れ途切れで、でもその不安と悲しみはしっかり伝わってきて——
私はただ静かに彼女を見つめて、唇を震わせたけど、すぐには言葉が出てこなかった……私にも、わからないんです。
なんであんなに衝動的になったのか。
ただ、あのとき——彼女が泣きながら連れて行かれそうになった瞬間。
胸の中で、何かが破れるような感覚があって。
「……日本だったら……きっと、話し合いや法律、大人たちが解決してくれたんだと思います。でも、この世界では……あのときは、私が立ち上がらなかったら、本当に連れて行かれてしまう気がしたんです。」
かすれた声で、私はそう呟いた。自分でもよくわからないけど、最後には思わず謝ってしまっていた。
「正義感で突っ走ったわけじゃないんです。英雄になりたかったわけでもない。ただ……あの目が、どうしても嫌だったんです。“女の子だから”“平民だから”って、勝手に運命を決められるような……そんな風に見られるのが、悔しくて。」
「ごめんなさい。心配かけましたね。」すると、エミリアさんは私の手をぎゅっと握って、必死に首を横に振りました。
「謝らないで、澪……澪は……私を、救ってくれた。……私も、本当はずっと、抗いたかった。でも、怖くて……どうしてもできなかったの。」
私はそっと彼女のおでこに自分のおでこを重ね、小さく囁いた。
「……エミリアさんのせいじゃないです。気にしないでください。私が、守ります。皆のこと、ちゃんと守れるように……なりますから。」
……でも、その言葉を口にしたあと、私は数秒間、黙り込みました。
脳裏に、あのときの情景が鮮明に浮かんでくる。
——(消えない信念)。
あのスキルを発動したとき、私は完全に自分を失っていました。あれは、「自分の意思で戦っていた」のではなく、「信念に動かされていた」。
怒りと願い、そして執念が、私の体を突き動かしていた。そして……あの一撃、本当に寸前で剣を逸らさなければ、私は——
私はそっと胸元に手を当てて、震える声で呟きました。
「……怖かったです。あの瞬間、守りたいって思っていたのに……それなのに、私、もう少しで……誰かを、傷つけるところだった。」
私は、誰かを憎んで殺したいわけじゃない。
ただ、自分の信念に従っていただけ。
でも、だからこそ——怖いんです。
その信念に、私が飲み込まれそうだったことが。震える指先。傷の痛みではなく、自分の感情の輪郭が崩れていく恐怖。
そのとき、エミリアさんがそっと、私をもう一度抱きしめてくれました。
「澪は、そういう人じゃないよ。あの人たちとは違う。澪は、自分のためじゃなくて……私のために、あそこまでしてくれた。ほんの少しだけ、境界を越えそうになっただけ。」
私はそっと目を閉じました。
——境界を越えそうに、なった。
でも、「人を殺す」って、ほんの少し越える程度のことなんでしょうか。
この制御できない力。本当に、誇れるものなんでしょうか。
もし、私が自分自身をコントロールできないのなら——
私は、「勇者」なんて、名乗っていいのでしょうか?
……答えは、まだわかりません。
でも、ひとつだけ、はっきりしていることがあります。
——この世界は、日本のように優しくなんてない。
剣を取り、自分の力で道を切り拓かないと、何も守れない。何も得られない。
だから、私はもう、戻れません。
——たとえ、怖くても。迷っても。
前に進まなきゃいけない。
だって、もう日本に戻る道なんて、どこにもないんだから。
だって、私たちはもう、この世界の住人なんですから——。
やがて、静かに扉が開いた。
「澪……! 本当に目を覚ましたんだね!」
声は落ち着いていたけれど、その奥に隠された安堵の感情までは隠せなかった。真白だ。
彼女はいつもの清楚で凛とした表情を保ちながらも、目の端は赤く染まり、スカートの裾をぎゅっと握っていた。あの頼りがいのある冷静な彼女ですら、ずっと不安だったのだ。
その後ろから飛び込んできたのは梨花さん。勢いそのまま、ベッドの横に崩れ落ちるようにして泣き始めた。
「うぅ……よかった……ほんっとによかった……わたしたち、もうダメかと思って……うわあああん!」
「おい、梨花さん。ちょっと落ち着けって……潰れちゃうだろ。」
「だってだって! あんなに血まみれで! しかも貴族にふっ飛ばされて、何度も火で焼かれて……っ!」
私は、二人の顔を見て、ふっと笑ってしまった。教室に戻ってきたような安心感があった。ただそこにいてくれるだけで、言葉なんていらない。
「……エミリアさんが無事なら、それで……」
「澪、またそれ。エミリアは確かに大切な仲間だけど、そうやっていつも他人を優先するあなたの性格は、ちょっと……」真白さんは眉をひそめて、そっと溜息をついた。「無茶しすぎなの、澪。」
「……分かってます。ただ……あの時はもう、他に方法を考える余裕なんてなかったんです。」
私は小さくうつむいた。あの場面を思い出すと、やはり申し訳なさがこみ上げる。
だけど、真白さんはそれ以上責めることなく、そっと私の手の上に自分の手を重ねて、優しく言った。
「何度でも言うけど、澪。あなたは一人じゃないんだから。次にそんな無茶するなら、せめて私も一緒に連れてって。」
それを聞いた梨花さんも、急いで言葉を重ねた。
「そうそう! 澪、次にまた誰かが私たちをいじめようとしたら、一緒にぶっ飛ばしてやろうよ! あたし、最近魔導書ちょっと読んでてね、人をカメに変える魔法見つけたの! 次は絶対カメにしてやるんだから!」
ふふっと、思わず笑みがこぼれた。そんなおどけた言葉が、空気をふっと和ませてくれた。
「ふふっ……似合うかもね、カメ。」