第28話 :「間章:熾天使マリアの守護と、彼女の世界を守りたいという矛盾
《迷宮【第一試練領域・啓示の野】 第二区画・最深部》
血の香りが微かに漂い、微細な光の塵が空気中を舞っていた。
「堕落の門番獣」と呼ばれたボスが轟音と共に倒れ伏した瞬間、空間全体がゆっくりと崩れ、そして再構築されていく。その中心には、次なる階層へと繋がる暗く重厚な石階段が姿を現した。
石門がまだ完全に開かれる――
その背後、白き翼が静かに広がる。現れたのは熾天使マリア。女神に仕える、最も若き使徒のひとりである。
彼女は静かに、目の前に浮かぶ魔法投影を見つめていた。
映し出されていたのは、地に膝をつき、傷だらけの身体で仲間を支える一人の少年――藤原瑛太。そして、その腕に抱かれるようにして横たわる、血に染まった白い毛並みの少女、星野美月。彼らは極限まで疲弊しながらも、確かな絆と意志の光をその瞳に宿していた。
「……予想より、早い成長ですね。」
マリアが小さく呟いた。
彼女の手には、純白の珠――運命の軌跡を示す「天命の宝珠」が乗っており、その内部では二本の金の糸が緩やかに交差し、光を帯びながら絡み合っていく。
それは藤原瑛太と星野美月、二人の魂の軌跡。互いの存在が強く、不可分な結びつきとなりつつある証だった。
「彼らは……自ら選び、自ら信じて進んでいる。己の意思と覚悟によって迷宮を越えようとしている。その歩みは、何よりも価値あるものです。」
その瞬間、まるで夜明けのような、温かく澄みきった思念が彼女の心に響き渡った。
それは、女神の声――世界を見守る創世の女神の意志だった。
『……あなたも、そう思いますか、マリア。瑛太君と美月ちゃん――彼らは今、魂の《昇華》を遂げつつあるようです。私の想定よりも、ずっと早い速度で。……順調なのは、本当に喜ばしいことですね。』
「はい、ルナリア様。」
マリアは静かに跪き、尊き神の思念に敬意を込めて答える。視線の先には、第二層へと足を踏み入れる二人の姿があった。
「彼らは、迷宮の闇の中でも……互いを信じ続けています。その信頼の光こそが、この世界に希望を灯す証です。」
ルナリアはすぐには応じなかった。長い沈黙の後――わずかに、寂しげな吐息がこだまする。
『マリア……この世界は、あなたの生まれ故郷でしたね。前の選ばれし者がこの世界を卒業した後、私はあなたをこの地の守護天使として任命しました。でも……あなたのその焦り、過度な干渉は、“この世界が自立できない”という矛盾を生みかねません。』
「……申し訳ございません、ルナリア様。」
マリアは深く頭を垂れ、真摯に謝罪する。
本来、守護天使は“見守る者”であり、“干渉する者”ではない。自分の理想を押し付ける行為は、この世界の自律性を損なう禁忌でもある。
――たとえ、それが創世の女神であるルナリアでさえも。
小さな調整や迷宮の微細な書き換えは許されても、大きな介入は神界からの強い制約があるのだ。
『……藤原瑛太君。彼はこの転生候補者たちの中で唯一――現実に傷つき、打ちのめされながらも、決して“現実に染まる”ことなく、“他者の痛み”を理解できる少年。彼の心はとても純粋です。……あなたは、そんな彼に、この世界の希望を託せると思ったのですね?』
「……すべては、女神様のご慧眼の通りでございます。」
マリアの声音は揺らがなかった。彼女もまた、藤原瑛太に賭けたのだ。この世界を救う希望を、彼という名の存在に。
『……あなたの気持ちがわからないわけではありませんよ、マリア。』
女神ルナリアの思念が、静かに、しかし確かな威厳を伴ってマリアの心へと響いた。
『あなたの力があれば、あの《制御不能の存在》――意志すら保てず、ただ力に飲まれた“彼”を排除することなど、たやすかったでしょう。でも、それは許されないのです。あれは地上の人々自身の課題。私たちが代わりに解決してしまっては、彼らは決して成長できず、自立もできません。』
「……仰る通りでございます、ルナリア様。」
その言葉は、まさに神々とその使徒たちの本分を示すものだった。
――我らの使命は、世界を導くことではなく、育むこと。
どれほど理不尽な危機が訪れようとも、それが“世界自身の流れ”である以上、神とて安易に覆してはならない。それが、神界の掟である。
『マリア……あなたは、どれほど長い間、私の部下であり、教え子であり、妹分のように過ごしてきたか……私にはよく分かっています。あなたがそんな風に口数少なくなる時というのは、決まって機嫌が悪い時なのですよ。』
「……」
『さて、マリア。どうしてあなたが、藤原瑛太君の周囲にあれほど“都合のいい偶然”を用意できたと思います? 例えば宝箱の中身を調整したり、美月ちゃんと“偶然”再会できるように仕向けたり――』
「……それは……すべて、ルナリア様のご命令によるものかと……」
『ブーッ、不正解です♪』
女神の声が、珍しく明るく響いた。
『それはね、瑛太君が“私の望む資質”を持っていたから。だからこそ、私が特例として準備し、干渉しても世界の調和を壊さないように調整したの。つまり、“そういう特例を与えても問題がない子”だったということ。』
「……」
『さて、ここからが本題です――あなたは今、とても不満に思っているわね? 彼には干渉できるのに、世界には干渉できないという二重基準が矛盾している、と。』
「……ノーコメントでございます。」
『ふふ、いいのよ。全部分かっているもの。』
ルナリアの声音は、まるで姉が妹を諭すように、優しくも包み込むようだった。
『私にも、かつてそういう時期がありました。神界の戒律に嫌気が差して、世界を自分の思い通りに動かしたくて、力を振るいたくなったことがね。でも、そんなことをすれば――簡単に神界から追放されるの。分かるわね、マリア?』
「……はい。心得ております。」
『だからこそ、そういう天使や、未成熟な神たちのために――特別なルールを用意しているのです。それが、《SPシステム》――正式名称、世界ポイント・システム。』
「……エス・ピー・システム……?」
マリアが小さく反復する。聞き慣れぬ単語に、眉をひそめた。
『そう。未熟な神が、自分の力をほんの少しだけ世界に影響させるための“許可証”。そして同時に――“その影響がどのような結果をもたらすのか”を学ぶための教育プログラムでもあるのよ。』
「結果を……受ける……教育プログラム?」
『マリア、あなたがこの世界を救いたいと願う気持ち……私は否定しません。それどころか――認めましょう。この《SPシステム》、あなたに使用を許可します。』
「……恐縮でございます。ですが、具体的にどのような……システムなのでしょうか。私は今まで、この存在を聞いたことがありません。」
『簡単に言えば、“世界に干渉するためのポイント制”ね。今、あなたには毎日《10SP》が与えられます。そのポイントを使用して、以下のような行動が可能になります。』
『たとえば――
・ある人物の近くに重要な書物を落とす
・啓示を夢の中に届ける
・祝福や小さな加護を与える
・迷宮の一部を微調整する など。』
『ただし――このシステムのルールの範囲内に限ります。勝手なルール追加や、大規模な運命改変などは、当然禁止されています。』
「……つまり、私が“自由に”このシステムを使って世界に干渉することは可能なのですか?」
マリアの声には、わずかに揺らぎが混じっていた。それは希望か、あるいは恐れか――自らの行いが“世界を狂わせる力”に繋がるかもしれないという予感。
『そう、もちろん使っても構いませんよ、マリア。』
女神ルナリアの声は、まるで優雅な鈴の音のように響きながらも、どこか揺るがぬ権威を纏っていた。
『ただし――何かしらの干渉を行えば、それに応じてSPが消費されます。SPが尽きた場合は自然回復を待つしかありません。そして……あなた自身の力を使って《不正》にSPを増やすような行為は、断じて許しません。その点は、私がしっかりと監督させていただきます。』
「……そのような卑劣な真似をしてまで世界の運命を変えようとは思っておりません。なによりも、私にここまでの知識と役目を授けてくださったルナリア様の御恩を、私は決して忘れておりませんので……」
マリアは深く頭を下げながらも、胸の内にほんのわずかに残る不安を押し殺すように、必死に自分を律した。
――それでも。
――それでも……この世界を見捨てたくなかった。
天使とは、ただ神意を伝える存在ではない。ときに神の名のもとに、世界へ介入し、導く役目も担う。育てられた者として、神に忠誠を誓う者として――マリアは迷ってはいけなかった。
『あなたは……本当に優しい子ですね。だからこそ、私もつい心配してしまうのですよ。とはいえ、今回はあなたの“意思”に任せましょう。このSPシステムを使って、自分の思うままに行動してみなさい。』
女神は穏やかに言いながらも、その瞳の奥に、どこか試すような光を宿していた。
『その上で、もしこの世界が滅びへと進むのであれば……その時は、あなたも文句は言えないでしょう?』
「……はい。ご配慮、心より感謝申し上げます。」
マリアの胸に込み上げてくるのは、感謝と共に、どこか切なさを孕んだ覚悟だった。
女神の許しは、嬉しくもあり、同時に――責任の重さを感じさせる重圧だった。
『よしよし、そんなに堅くならなくてもいいのですよ? せっかくですし、今回は《お試し》として――SPを消費せずに、一度だけ無料で機能を使用しても良いとしましょう。ふふ、これも教育の一環ですわ。』
その言葉に、マリアはほんの少しだけ目を見開いた。だがすぐに頭を垂れ、感謝の意を深く込めて応じる。
「……畏れ多くも、ありがとうございます、ルナリア様。では――この“無料の一度”を、ぜひ活用させてください。」
彼女の瞳は、次第に切迫したものに変わっていた。
「第一の勇者適格者、《望月澪》が……今、危機に瀕しております。」
その名を口にする時、マリアの声には焦りと、怒りにも似た感情が滲んでいた。
「あのままでは、王国の伯爵家の長子に屈し、無惨に敗北するでしょう。ですが、私は……勇者という存在が、簡単に心を折られ、堕ちていくようなことがあってはならないと思うのです。」
その言葉の奥には、彼女が幾度も観測してきた“崩壊”の記憶があった。力を持った者が、堕ちる――その恐ろしさを、彼女はよく知っていた。
「澪が今、王国に潜む“悪意”に晒され、その心が折られるのであれば……それに続く他の勇者たちもまた、欲望に支配され、あるいは悪意に操られ……この世界を破滅へと導く存在になりかねません。」
『……つまり、あなたは彼女に“希望”を与えたいのですね?』
「……はい。」
『それなら、いいでしょう。使用可能な《才能開花》機能を通じて、彼女に《あの》スキルを付与しなさい。』
女神の声音が、優雅に、だが確かに許可を下した。
『思考よりも速く身体が反応する、戦闘本能を極限まで高めるそのスキル。勇者としての素質を持つ彼女であれば、いかなる人間の子であろうと、敗北することなどありえません。』
その言葉に、マリアの胸に熱い確信が灯った。
「ありがとうございます、ルナリア様。彼女を……見捨てなくて、本当にありがとうございます……!」
言葉を口にするより早く、マリアは胸元で宝珠を掲げた。その瞳は確信に満ちていた。
――私は見ている。
――そして、選ぶ。
この世界の《可能性》を。