第14話 :「星野美月: 変わらない、記憶の中の優しい彼」
《美月の視点》
腐ったゴブリンの臭いと生臭い血の匂いが、まだ空気の中に残っていました。
私、星野美月は、この困難な状況の中でどうにか生き延びることができました。それも、藤原さんのおかげです。
気がつけば、私たちの間にあった距離は少しだけ縮まっていたのかもしれません。バスの中で、あのとき私を守るように抱きしめてくれたからでしょうか。
今では藤原さんに「同級生」の敬称を付けることもなく、名字で呼び合っています。
「はぁ……はぁ……」
私は地面に座り込み、荒い呼吸を繰り返していました。
身体のあちこちに傷を負い、雪のように白かった毛並みも、今では血で斑に染まっています。
たしかに戦いの終わりは順調でしたが、最後にゴブリンの反撃を受けて、軽い傷をいくつか負ってしまいました。
それに、魔法を大きく使いすぎて、魔力量がかなり減ってしまっています。
こんなこと、一人のときなら絶対にしないでしょう。魔力が少なくなると、極端に疲労しやすくなりますし、集中力も落ちてしまいます。
そんな状態で、この危険な迷宮を一人で行動していたら……あっという間に死んでしまうかもしれません。
「大丈夫か?」
藤原さんが、優しい声で私を気遣ってくれました。
でも、私も初めて魔力量がここまで低下した状態になっていて、声を出す余裕もなく、荒れた呼吸を整えることしかできませんでした。
彼の骸骨の顔が、じっと私を見つめています。その目の位置には、水色の炎が静かに揺らめいていて──
普通ならホラー映画のような光景で、「この猫、食べられちゃうんじゃないか」と思ってしまいそうなのに……
不思議と、そこにあるのは温かなまなざしでした。
私が四つ足で地面に伏せ、必死に呼吸を整えていると、彼はさらに口を開きました。
その身体が再び白く輝く光に包まれた瞬間──
重くのしかかっていた疲労がすうっと抜けていく感覚。
私は目を見開きながら、身体の痛みと精神の疲れが静かに消えていくのを感じました。
「(ヒール)、これで少しは楽になったはず。さっき君に魔力を少し分けたから、もうそんなに疲れてないと思うよ」
……ほんとうに、この人はいつも誰かを見ている。
いや、私だけじゃない。彼はいつだって他人のことを、きちんと見ている。そして、自分の態度で他人と向き合っているのです。
藤原さんは、私のことを「学校の人気者」や「綺麗な女神」みたいな存在としてではなく、何かを得るための「王冠」としてでもなく、ただの「星野美月」として、ひとりの人間として接してくれているのだと思います。
きっと、藤原さんの態度を左右するのは、私の性格だけ。それ以外は関係ないのです。
時には適当に流されて、彼が熱中しているときに話しかけたら無視されることもあるけれど、誰かが悩んでいたり、苦しんでいるときには、静かに気遣ってくれる。必要以上に踏み込むこともなく、放っておくこともない……そういう優しさを持った人なんだと思います。
「少し楽になりました……ありがとうございます」
私は心の中で、そっと彼にそう呟きました。
「うん。あの通路の端で休もう。あそこなら魔物はいないし、中に入らなければ罠も作動しない。安全に休める場所だよ。星野はそこで休んでて。俺はゴブリンの魔石を少し集めてくる。ひと休みしたら、また進もう」
そう言い残して、藤原さんは一人で歩いていってしまいました。
でも、私たちの間には不思議な繋がりがあるから、わかるんです。彼が嘘をついていないこと。ただ、魔石を集めに行っただけだってこと……でも、どうしてそんなものを?
ゴブリンなんて、ほとんど魔石を持っていないはずなのに。せいぜい、ゴブリンシャーマンのような上位個体が持っているくらいで……。
道中、倒した魔物から落ちた石を拾ってはいたけど、藤原さんが欲しがるような気がしたから集めてただけで、たぶん(第六感)のスキルが働いたんだよね。身体を休めていると、だんだん眠気が襲ってきました。
ずっと緊張しながら迷宮を探索してきたから、少し気を緩めた途端、どっと疲れが出てきたみたいです。
藤原さんがそばにいてくれるし、少しだけ……眠ろうと思います。
……なんだか、夢を見た気がします。
それは、私がまだ死ぬ前のこと──
女神に転生されて、この世界で猫になる前の、そんな記憶でした。