あめだま
昼下がり、湿った明るい曇り空から間隔を空けて雨粒が降ってくる。
ポツポツと降り出した雨は、波ひとつ無く凪いでいた水面にいくつもの丸い波紋を広げていった。
森に囲まれた湖のほとりに立ち、静かな湖面に広がって行く波紋をぼんやりと見ながらタバコをくゆらせていた俺は雨粒にタバコの先の火を消され、ようやくそこで雨が降り出した事に気が付いた。
「やっべ、ぼんやりし過ぎていた。
…本降りになる前に帰るか…梅雨明けしたのにな。」
俺はタバコをしまい、車を停めた場所に向かった。
湖岸の湿った砂利をギュッギュッと音を鳴らして踏みしめながら湖のほとりを歩き、所々湖面近くまで根を張り出した伸びた木々を避けて進んで行く。
人があまり立ち入らない湖の周りは悪路が多く、歩きにくい。
「こんな誰も来ないような場所で転んで怪我なんかしたら、助けを呼ぶのも一苦労だよな…。」
俺はドライブがてら、この湖には良く来るのだが、この湖で人の姿を見た事はない。
山間の奥まった場所にあり、人の気配がほぼ無いこの大きな湖は絶好の釣りスポットだと思うのだが、駐車出来る場所が湖から離れているせいか釣り人も来る様子が無い。
近くには寒村があるらしいが行った事はないし、そこが湖からどれ位離れた場所にあるかも、どんな村なのかも知らない。
まぁ…この湖は龍神様とやらが祀られていて、昔は若い娘を人柱を捧げたなんて怖い話もある位だから人が近付かないのかも知れない……。
そんな閑散とした場所だからこそ気に入っているってのもあるが……
なんて思っていたら、独りごつ俺の前方で突然バシャバシャと水が激しく打たれる音がした。
必要以上に驚いた俺は一瞬立ち止まり、ビクッと身体を強張らせる。
初めて湖で人を見掛けるかも知れない。
いや…そもそも本当に人なのだろうか……。
野生の熊だったりしたら、どうしよう。
熊だったらヤバいと思いつつも、何度か訪れている湖での初めての邂逅に「こんな辺鄙な場所に俺以外のどんなヤツが?」と好奇心が勝ってしまう。
俺は気配を極力消し、生い茂る木々の隙間から水音の鳴った方を窺った。
湖にある入江のように窪んだ場所に、こちらに背を向けた学校の制服姿のような黒い服を着た小柄な人物が2人して膝まで湖に浸かり、懸命に何かを沈めようとしている。
近くの寒村の子たちだろうか。
「………?何をしてるんだ…?」
耳を澄ませると、水音に紛れながら少女のような高い声での怒号が聞こえてきた。
「早く湖に沈め!沈んでしまえ!」
「顔を出すんじゃない、この出来損ないが!」
背を向けた少女らしき二人の陰になった向こう側、彼女たちの足元ら辺に、白い服を着た少女がチラっと見えた。
「や、やめて……いやぁ……」
一瞬、理解が及ばなかったが、二人が湖に沈めようとしていたのは白い服を着た少女だった。
白いワンピース姿の少女が黒い制服姿っぽい少女たちに、消え入りそうな声で「やめて」と言いながら、頭や身体を乱暴に押さえつけられ水の中に沈められようとしている。
これは凄惨なイジメじゃないのか?
「やめろ!何してるんだ!」
思わず声を出して身を乗り出してしまった。
離れた茂みからいきなり姿を現した俺に驚いたのか、黒い制服姿の2人の少女はこちらを振り向く事も無く向こう側へと走り去り、木々の間に姿を消した。
あまりにも素速い行動に一瞬だけ呆然としたが、ハッと少女の事を思い出し、自分も湖に膝まで入って水に浸かったままの白い服の少女に近付いた。
靴もズボンもびしょ濡れだが、ここで躊躇するのは女の子の前で格好悪いなと少し見栄を張った。
「いきなり現れてごめんな…その…見てられなくて。
君、大丈夫……?」
見知らぬ男に警戒するだろうと恐る恐る近付きながら、少し距離をあけて話し掛ける。
少女は湖の中に全身ずぶ濡れのままへたり込んだ状態で俺を見て頷いた。
良く見れば小学校高学年か中学生って位に幼いが、かなりの美少女だ。
日本人形みたいに揃えられた長い黒髪は純和風な雰囲気で、濡れて肌に張り付いた白いノースリーブのワンピースは白装束のようにも見えた。
場所が場所なだけに、遥か昔に龍神だかに捧げられて人柱にされた少女はこんな感じだったのではないかと思ったりする。
少女は俺を見ているが警戒している様子は無いみたいで、俺はホッとして彼女の側に行き手を差し出した。
「彼女たちは同級生?ずいぶん、ひどい事をするな。」
「……わたし…学校には行ってないから。」
のばした俺の手を取り、湖から立ち上がった少女は緩く首を振った。
確かに、こんな非道いイジメを受けていたら学校なんて怖くて行けないよな…引きこもって当然、と思いつつ、なぜこんな場所にいたのかと疑問に思う。
「なぜ湖に来たんだ?彼女たちに呼び出されたのか?」
少女は口元に指の背を当て小さく首を横に振る。
じゃあ、なんでこんな場所に居たんだと俺が疑問を口にする前に少女が答えた。
「湖に…探し物があって…。」
「湖に?何か落とし物でもした?探すの手伝おうか?」
「何を探していたか分からなくなっちゃって…。」
……え……可愛いけど頭のゆるい残念な子なんだろうか。
探し物のために、わざわざ湖にまで来ておいて、何を探してるか分からなくなったって。
俺は着ていた薄手のパーカーを脱いで少女の背に掛けた。
雨足は強まってはいないが、ポツポツとした雨はずっと降り続いている。
「風邪引くよ。
少し歩いたら車あるし、家まで送ってあげようか?」
少女は少し激しめにブンブンと首を横に振った。
まぁ…そりゃ見ず知らずの男の車に乗るのはさすがに怖いし抵抗あるよな。
「じゃあ、雨がやむまで少し俺と話しでもする?」
少女はコクンと頷き、俺と彼女は湖岸にある岩の上に腰を下ろした。
着ていたパーカーを少女に渡し、Tシャツ姿になった俺は肌寒くなったので湖から離れたかったのだが、彼女は探し物とやらにご執心でどうしても湖から離れたくないと言う。
「寒いな、濡れた足が冷たくて凍えそうだ。
感覚が麻痺してる。」
夕方になり雨足は少し強くなり、日も厚い雲に覆われて辺りは薄暗く気温も下がったようだ。
俺は両腕で自分の肩を抱きブルッと身震いした。
全身ずぶ濡れの少女は寒がる素振りは一切見せずに俺の隣で何度も湖面に目を向けていた。
探し物が何なのかも分からないのに、だだっ広いだけの湖面を見たって仕方ないだろうと思うが…口に出せなかった。
何だか思い詰めてるようにも見えて、心配になってきてしまった。
まさか、死に場所を探してるなんて言わないよな…。
「なぜ、君はあんなヒドい目に…?
さっきの子たちに出来損ないって言われてたけど…」
「わたし…本当に出来損ないなの…。
だから、仕方ないの…。わたしが悪いから…。」
非道いイジメにあう事を自分が原因だから「仕方ない」なんて言うのはおかしい。
出来損ないなんて言われてそれを受け入れてしまうのも、彼女の精神がそれだけ追い詰められて疲弊しているからかも知れない。
「何を言ってるんだ!君は悪くない!
どんな理由があってもイジメなんて、する側が絶対に悪いんだ!」
俺は彼女を慰めようとした。
幾つもの励ましの言葉を掛け、彼女の気持ちが前向きになるようにした。
だが彼女は小さく微笑んで緩く首を振り続けた。
「わたしの探してる物……見つからないし……何を探していたのかも、もう忘れちゃったし……
わたし……疲れちゃった。
こんなわたしなんて、もう湖の底に沈んだ方がいいんだわ…。」
「そんな事………」
俺は言葉を途切れさせた。
何度も励ましてみたが、彼女には俺の言葉が届かない……そう思った。
少女は、この湖に沈もうと……入水自殺をしようとしてる━━
雨に打たれ幾つもの波紋を広げる湖面を悲しげに見詰める少女の横顔を見た俺には、そう思えた。
「駄目だよ湖に沈むなんて…そんな事をしたら………」
俺は彼女の冷たい頬に触れるように手をのばし
少女の頬には触れず、その手を少女の白く細い首に掛けた。
「おに、…お兄ちゃん……?……ッつ……かハ!……」
俺は少女の首に手を掛けたまま、彼女の小さな身体を水際に押し倒して彼女の腰の上に馬乗りになった。
大きな水しぶきが上がり、俺は全身ずぶ濡れになった。
そんな事はお構い無しで、寒さも感じないほど熱くなっていた俺は両手で彼女の首を絞め、全体重をそこに掛けた。
彼女が手足をバタつかせて暴れれば湖面が波立ち、息も絶え絶えな彼女の顔をザバザバと水が覆って、少女は更に息が出来なくなり苦悶の表情を浮かべた。
「駄目だろ、湖で自殺なんて。
警察が来て湖を調べたりしたら、どうするんだよ。
俺が沈めたアイツまで見つかってしまうじゃん。」
「おにぃ……お兄ちゃ………」
少女の声がか細く消え入りそうになる。
その声すら掻き消すように水が彼女の鼻と口を何度も覆う。
こんな時に何だが、水に沈みながら苦悶の表情を浮かべる少女はゾクリとするほど美しく見えた。
「俺とペアの指輪をしたまんまなの気付かずに湖に投げ捨てちまった。
アイツの死体が見つかったら、俺の元カノだってバレるだろ。
そうしたら俺が殺したってのもバレるかも知れないじゃん。」
水面下で目を見開いたまま仰向けの少女はもう動かなくなった。
ただ、長い黒髪が海藻の様に水の中をユラユラと漂う。
「だから君の死体は離れた山の中にでも捨てておくよ。熊の餌にでもなっちゃえば俺の仕業だなんてバレないかもだし。」
水に沈んだ少女の白いワンピースの胸ぐらを掴んで引っ張り上げ、彼女の上半身を湖から起こした。
ザバァと彼女の上半身から滝の様に水が流れ落ち、生気を失った彼女の青白い顔が俺の目に入った瞬間、俺の足が凍らせられたかのように、ピキピキッと痛みを伴う冷たさを感じた。
「いつッ…冷たッ……」
少女に馬乗りになった時に俺の足は既に湖の中で、それを越えて足が冷たくなる理由が分からない。
俺は少女の身体を跨いだままの自身の足に目を向けた。
目に映った物を理解するのに長い時間を要した。
いや実際には、ほんのわずかな時間だったのだろう。
俺の足がふくらはぎの途中から消えて無くなっていた。
足が浸かった部分の水は赤く染まっては波にさらわれる様に透明になり、絵の具を落としたみたいな赤い筋が再び水面を赤く染め、透明になってを繰り返す。
切られた断面の温かな肉が水にひたり、異様なまでの冷たさを感じていたのだと気付いた。
「うわぁあ!俺の足が…!足がぁあ!痛い!痛いぃ!」
視覚は脳に痛みを認識させ、切断された足を見た瞬間に冷たさを忘れる程の猛烈な痛みが俺を襲う。
俺は湖の浅瀬でもんどり打ちながら騒ぎまくった。
「誰かっ!!誰か救急車っ…!痛い!痛い!死ぬぅ!」
俺は少女の死体を湖に放り出し、這うようにして湖から離れようとした。
湖岸の砂利に爪を立て身体を引きずり何とか陸地に上がろうとしたが、突然強い力で身体が後ろに引っ張られ、ズルズルと湖に引き戻された。
抵抗した俺は爪が剥がれても砂利を掴み、その場に留まろうとしたが無駄な努力だった。
得体の知れない何かに、俺の身体が弄び始められる。
「見つけた…見つけた…見つけた…見つけた…見つけた…見つけた…見つけた…見つけた…ここにあったぁ!
美味そうな穢れ肉がぁ!ヒヒャヒャヒャヒャ!!!」
少女だったモノは、その面影を全て失くしており、得体の知れない巨大な何かになって俺の前に居た。
水草のようなうねった長い黒髪の陰から左右に離れた黄色く丸い目が鈍く光り、眼球の真ん中には縦に細くなった黒目があって俺を見ている。
額から鼻先までがノッペリと前に突き出しており、鼻の下で開かれた口は俺を丸呑み出来そうな程に大きく縦に開き、二本の大きな牙があった。
━━これはヘビだ━━
この様な姿になっても纏い続ける白いワンピースのような衣服の裾が、白いさざ波の様に揺れ動いており、その下からは灰色の鱗に覆われた長い胴が続き、俺の千切った足を尾の先で巻いていた。
その尾は俺の足を自身の顔の近くまで持って行く。
俺は自分の足の行く末を目で追ってしまった。
「や、イヤだ…やめろ、やめてくれ……」
ヘビの化け物は俺の足首を手に持ち、ガブリとふくらはぎに喰らいついた。
ズボンの上から噛みつき、硬い皮を食いちぎる様にズボンを食いちぎってプッと吐き捨てた。
靴だけを履いた俺の足をフライドチキンみたいに持って骨の見える切り口からかぶりついていく。
「食うなぁ!俺を食うな…!誰か…!誰か助けてくれぇ!」
ガリゴリと音を立て、骨ごとかじられ食いちぎられ、血を滴らせながら段々と小さくなっていく俺の足を見ながら俺は半狂乱で泣き叫んだ。
両足が靴を履いた足首だけになると化け物は食うのをやめ、俺を見た。
コイツはヘビのクセに丸呑みするんじゃなく、かじって血肉を味わって食うんだ、じゃあ次は俺のどこを……!
ズンっと右脇腹から尾の先が刺され、左の腰からブツッと尾の先が飛び出る。
同時に喉の奥から鉄の味が込み上げ、口からブッと血が噴き出した。
「ゴフッ…あああ、頼む…!誰か…誰か…助け……あ!!」
俺の視界に、離れた場所に居る黒い衣装の二人の少女が映った。
ああ、コイツをイジメていた二人ならば、コイツを何とか出来るんじゃないか、俺は助かるんじゃないかと、両足を失った上にどてっ腹に穴を開けられた俺は、非現実的な一筋の光明を見出していた。
彼女達がこちらに近付いて来た。
歩いてではなく、羽ばたいて…………
遠目で黒い制服に見えていたのは黒い羽根に覆われた身体で、人間の少女に見えていたのはカラスと人間の中間の様な姿をした化け物だった。
奴らはカラスの鳴き声に甲高い声を被せた不気味な声音で会話を始めた。
「とうとう見つけてしまったか。
湖に女の死体が投げ込まれたあの日に男の穢れた魂を感じてから、儂らの制止も聞かぬ程に飢えた状態だったからの。」
「穢れた魂を持つ人間を食いたいと、食欲に抗えずに湖底の社を抜け出すとは…人柱の娘の魂と連れ添い、更なる高みに往かれた先代の龍神様とは大違いじゃわ。
人を喰らうてしまったコヤツは未熟者どころか外道じゃ。まだまだ龍神になどなれん。」
「まぁ、腹が満たされたらば落ち着くだろうよ。
百年は再び社にこもってもらわねばならぬがの。」
ああ……こいつらにとっても俺は、ヘビの化け物の餌でしかないのか……
俺がかじられてゆく…ガリガリと骨の噛み砕かれる音がする…
段々と俺が減ってゆく…俺が無くなってゆく…
俺は…………今、どれ位残っているんだ?
あれからどれ位、経ったのだろうか。俺はまだ意識を保っている。
少女だった、あのヘビの化け物に足を切り落とされ腹を貫かれ、かじられ続け…………
だが、思考が途絶えてない俺は生きている。
良かった、足は無くなったが命だけは助かったようだ。
早くここから逃げなきゃだな。
少女の死体も山に棄てに行かないと…………
「ヌシ様は、よほどあの男が気に入った様子。
魂までも縛り付けて、ほれ、あのように。」
「あの男をしゃぶり続けている内は、社で大人しくしてくれるじゃろ。
ヌシ様の飴玉になってくれた男に感謝じゃな。」
………………………俺は
思い出した…………毎日忘れ、毎日思い出す。
俺が今、あの少女の口の中で転がる目玉ひとつしか無い事を━━━━━━
終