07 心境の変化
半覚醒の状態でも、ずいぶんと眠りこけてしまったのが、体感としてわかった。
まぶたを開け、半目になると、最初に視覚情報として入ってきたのは、洋式の便器っぽいものだった。
一度、ぎゅっと目を閉じ、今度は、しっかりとまぶたを開ける。
それでも、そこには、便器がある。
類照は、違和感を抱き、むくりと起き上がった。
鉄格子の向こうに、比留間が立っていた。スラックスのポケットに、両手を突っ込み、こちらを見下ろしている。
「やあ。そろそろ、目が覚める頃だろうと思って、待っていたんだ」
比留間の目は、まるで、淡いブルーのレンズの奥に、眼球ではなく、ビー玉でも納まっているかのように、無機質っぽく見えた。
その視線を受け止めているうちに、類照は、いよいよ、この状況は、おかしいと感じ始めた。
第一に、自分は、どういうわけか、灰色のスウェットパジャマの上下という格好をしている。それに、洋式の便器と、今、自分が腰掛けている、折りたたみベッドと、鉄格子の嵌まった、四畳ほどの小部屋――。
これは、そう――、あの深田泰亜の境遇と、まったく同じなのだ。
いったい、なぜ、健常な人間である自分が、こんな小部屋に押し込められているのか、理解不能としか言い様がない。
ひょっとして、何かの悪趣味なジョークだろうか。それとも、自分は、死ぬほど怖ろしい体験をしたせいで、そのトラウマの影響により、このような奇っ怪な悪夢を見る体質に変わってしまったのだろうか。
そういえば。
怖ろしい体験――。
たしか、深田の内面世界で、依織の霊体を救出した後に、その出来事は起こった。
しかし、あの時、濃い霧の中を歩いていたのと同じように、その辺りの記憶は、曖昧模糊としており、どういった目に遭ったのか、すぐには思い出せそうにない。
というより、脳のなんらかの防衛機能が働いて、記憶の特定の部分を遮断しているような感すらある。
ただし――、小さな神殿とやらを、消滅させるのに失敗したのであろうことは、おおよそ予想が付く。
「あの、比留間院長……。わたしは、院長の言ったとおりに、行動したはずです。
けど、うまくいかなかった……。いったい、どういうことなんですか?」
「うむ――。実のところ、きみは、正しかったんだ」
「正しかった?」
「そう。強迫観念の象徴である、小さな神殿を消滅させるには、そのスイッチを切ればよかったんだ。
つまり、離れたところにある、人魚像を破壊すれば、作業は終わったということだ。
きみは、最初、それを試みようとしただろ?」
比留間は、表情ひとつ変えずに言う。
なにやら――、自分は、比留間にハメられたらしいことを、類照は悟った。
「あんたは、なんのつもりで、おれに、嘘を吹き込んだんだ――?
深田先輩の心の状態を回復させる作業を、どうして妨げた?」
ほどなくして、壁をどんどんと叩かれる。それから、薄い壁越しに、深田の喚く声が聞こえてきた。
「類照ぅ! お前も、そこにいるんだよなぁ? だーかーら、言ったろう? おれは、じんせー、思いっきし謳歌してる、真っただ中なのぉ! 心の治療とか、そういうものは、まったく必要ないのぉ! アァッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャァァッ!」
どうやら、深田の居住する右隣の小部屋に、自分は入れられているらしい。
比留間は、一瞬、微笑するように頬を動かしたが、しかし、
「こう言っている深田くんを、味も素っ気もない現実に、引き戻すというのは、さすがに酷な話だろう?」
と、真顔に戻った。
類照は、比留間の、人を愚弄するにもほどがある対応に、激しい憤りを覚える。
「比留間院長――。これでは、約束が違う。こちらからの、すべての要求に従ってくれないようでしたら、おれは、あなたの内面世界の回復施術を、お断りします。
わかってますよね――? あなたの人生から、どす黒い恐怖を取り除けるのは、おれだけだってこと」
すると、比留間は、「クックックッ」と笑い声を立てた。
「いやあ、きみって男は、本当に大したものだ。常日頃から、霊体医療の現場においては、さぞかし有能ぶりを発揮しているのだろうな。
しかし――、関根くんの一件で、劇的ともいえる成功体験を味わったがために、やはり、自信過剰になっているみたいだな――。
『埋め込み』は、初の経験だったというのに、人の心を、それほど簡単に、コントロールできると思ったのかい?」
比留間の目が、ぎらりと光った。顔全体が、相変わらず土気色っぽく見えるため、本能的恐怖に苛まれ、疲労が濃く表れた男の顔だと思っていたが、今、その表情からは、まったく別の印象を受ける。
ひょっとして、おれは、比留間の内面世界で、何かを見誤ったのか――?
「もっとも、今となっては、どうでもいいことだがね。
きみが目覚めるのを、こうして待っていたのは、わたしが、自分の口から、感謝と惜別の思いを伝えたかったからなんだ」
「――惜別? それじゃあ、あなたは、これから、どこに?」
「決まってるだろう。裏社会の組織の連中を、殺しに行くのさ――」
比留間は、廊下の先に視線を向け、遠くを眺めるような眼差しをした。
「――わたしの妻たちを、誰が手に掛けたのか。その際、誰が周りにいたのか。おおよその見当は、すでに付いている。
だから、妻たちの殺害に、関与したと思われる人物を、片っ端から殺していくつもりだ。その過程で、きっと、わたしも、命を落とすことになるだろう。
けれど、それで構わない。まともな男だったら、無間地獄のような人生に耐え続けるでもなく、はたまた、偽りの楽園などに逃れるでもなく、衝動のままに、復讐を決意すべきだったんだ」
そのように話す比留間の口もとは、頬の引きつれを起こしたように歪んでいた。
明らかに、その顔に表れた感情は、恐怖ではなく――。
それから、比留間は、ふたたび、こちらに視線を移した。
「と、いう心境の変化が生じたから、それで、昨夜、きみに言ったんだ。初めっから、きみに、仕事を依頼すればよかった――、と。
しかし、遅くはなかった。きみが、大事なことに気づかせてくれた。これで、心置きなく、人生の幕引きができる――。
感謝するよ。そして――、さようならだ」
類照は、巨大なクエスチョンマークを、眼前に見ているような境地に至った。
「さっ、さよならって、なんですか!? さよならって! 院長! あなたの心境の変化については、なんとなく理解できました。
ただ、勝手に話を進められたら、困りますよ! そもそも! なんで、おれは、こんなところに押し込められてるんですか!? 今すぐ出してくださいよっ!」
なりふり構わず鉄格子につかみかかるのを、人としての矜持が、ぎりぎりのところで抑え込んでいた。
「いやいや、きみには、治療が必要なはずだぞ――。まだ、何も感じないかい?」
比留間は、一目で皮肉とわかる笑いを浮かべる。
だが、言われてみれば――、と類照は思う。
いるのかもしれない……。いるのかもしれない……。いるのではないだろうか……。いるのではないだろうか……。いや、いるような気がする……。
その考えは、どんどん強固になっていく。
そして、まもなくのことだった。
いる――、と確信した。
超自然的な存在が。
頭上で、自分を見下ろしている――。
瞬く間に、血の気が引いていくのを感じる。
「きみは、もう、薬を服用し続けなければ、とてもじゃないが、正気を保っていられない体質になったんだ。だから、今後のことを考えると、そこで寝起きしたほうが、きみにとっても、むしろ好都合だろう?
さて――、わたしは、一刻も早く、復讐に取りかかりたいと、気持ちが急いているので、そろそろ行くよ」
比留間は、本当に立ち去ろうとする素振りを見せた。




