04 不思議な夜
その後、緊迫した空気のなかで、計、六人の医療スタッフは、在誓の意識が、はっきりとした状態に戻るのを待った。
重たすぎる沈黙が続く。
二十分以上が経過したところで、白井縁斗と坂上蘭音が、それまで、在誓に取り付けられていた機器を取り外し始めた。その椅子の背もたれが、ゆっくりと起こされる。
在誓は、ぱちぱちと目をしばたたいている。やはり、自身の置かれている状況が、まったくもって呑み込めないようだ。
類照は、施術者側の椅子に、腰を下ろし、
「気分は、どうだい?」
と、優しい笑みを意識して作りながら尋ねた。
「……えっと、とくに、何もない、というか。でも、今まで何をしてたのか、全然、思い出せないんですが……」
「いや、いいんだ。ただ、何か、怖いこととかは、ないかい?」
「あっ、そういえば――。さっきまで、ぼくの頭の上には、おかしな神様がいて、ぼくは、その神様を怒らせちゃったせいで、そのうち、死んじゃうんじゃないかって、ずっと思ってたような……」
「何もかも気のせいだ。よく考えてごらん。本当に、そんな神様が、いると思うかい?」
「いる――、はずないですね。あれっ? なんだか、おかしいな……」
高校生の少年は、首を傾げ、それから宙を見上げた。
類照は、安堵感を得ると共に、勝利の叫びを上げたい心地になった。ふうっ、と吐息をついて立ち上がり、比留間のほうに歩み寄った。
「いちおう、感謝いたします、比留間院長」
「そうか。けれど、当然のことをしたまでだ」
「それにしても、ずいぶん、あっさりと、人の心の状態を、回復させられるものなんですね。
やはり、あれですか――? 比留間院長が、つい最近、おっしゃっていた、『ロック』とやらの解除が必要な症例だったのですか?
だとしたら、わたしも、いつ何時、そうした症例の患者さんを受け持つことになるか、わからないので、せめて、一度くらいは、その実地研修を受けたいと、切に願います。
なので、厚かましいお願いですが、次、邪神にまつわる問題の象徴である、小さな神殿やら――、そのスイッチの役目をする像やら、あるいは――、人が閉じ込められている、檻やら、そういったものの『ロック』を解除することになりましたら、ぜひ、わたしも、その内面世界に同行させてくださらないでしょうか?
呼んでいただけるなら、わたしは、いつでも、中央センターにすっ飛んでいくつもりです。
――なんだったら、今夜にでも」
これだけ言えば、こちらの要求は、ちゃんと伝わったはずだ。
どうやら、比留間は、形勢を逆転させられたことを、ようやく、身に染みて悟ったらしい。怒りに燃えているのか、その鼻から口もとにかけて、深いしわが寄っている。
ほどなくして、比留間たち三人が退出した。
類照は、残っている二人のほうを向いた。
「まったく、災難な日でしたが、どうにか丸く収まって、ほっとしてますよ――。
今日は、これで解散です。お疲れ様でした。辻くんは、おれが、病室まで送っていきますので、白井先生も、坂上さんも、どうぞ、お帰りください」
「えっ、でも……」
蘭音は、ためらいがちな表情で、こちらを見る。
「いいんです。ご両親が待ってますんで。きっと、施術の担当医である、おれ一人のほうが、本音をぶつけてもらえると思うから」
類照は、今一度、在誓の様子を観察した。
もう、不気味な神の名を口にしそうな気配は、まったく感じない。
なので、在誓に、着替えるよう指示する。
その後、白井縁斗と坂上蘭音は、最低限の片付けをし、それぞれ、施術室を出て行った。
類照は、在誓と共に、エレベーターで五階に上がり、五○二号室に向かった。
この日の最後の仕事だった。
在誓の両親、とくに、父親から、ぐちぐちと文句を言われるに違いない――。
そう覚悟していたが、それは杞憂に終わった。
両親は、息子の様子が、普段どおりであるのを確認すると、類照に、ささやかながらも感謝の意を示した。
そして、類照としては、慚愧の念に堪えなかったものの、自己防衛のために、どうしても、両親に言っておかなくてはならないことがあった。
「心の膿を出し切りましたので、もう、息子さんが、邪神的なものへの興味から、精神的に蝕まれていくことは、ないはずです。
ただし、今回の件について、息子さんを叱ったりすることは、決してしないでください。変に、問い詰めたりすると、そういう、怪しげなものを求める思考回路が刺激され、また、症状がぶり返してしまう可能性も、なきにしもあらず、なので。できれば、そっとしておいてあげてほしいんです」
父親も母親も、控えめな態度で承諾した。
ベッドに腰掛けている在誓は、きょとんとした顔で、類照の話を聞いていた。
すまんな、きみ……。きみは、一度として、そんな邪悪なものに、強く惹かれたことはないだろうに……。許してくれ……。
それから、類照は、念のため、一泊の入院が決まったことを告げ、その上で、霊体医療研究センターの比留間院長は、多忙な人間のため、予約を入れにくいこと、距離的な問題を考慮すると、断然、こちらのほうが通院しやすいことの、二点を理由に挙げ、当センターにおいて治療を継続すべきと強く勧めて、五○二号室を後にした。
類照は、廊下を歩きながらも、前方に、ほとんど意識を向けていなかった。病室で最後に見た、辻在誓少年の顔が、まぶたの裏に焼き付いている。
無垢な少年。その言葉がぴったりなくらい、高校二年生にしては幼い顔立ちだと、つくづく思う。
そんな彼と、初めて顔を合わせた時から、たった今、病室で別れるまでの、自分の言動を振り返らずにはいられない。自分は、徹頭徹尾、彼の身を案ずるより、自己保身に比重を置いてきたな、という気がする。
霊体外科医、失格。
今ほど、そう思ったことはない。
自分を恥じ、なんとはなしに宙を見上げもする。
しかし、今夜というのは不思議なもので、色んな思いが錯綜するせいか、更衣室まで来た時、胸の内を占めているのは、焦燥感にも似た、自分でも理解できない感情だった。