05 握手
「決して悪い話ではないから、よく聞いてくれ。
きみは、わたしの内面世界に入り、人格改造を行うことになる。だが、人間の人格を根底から変えるには、それなりの技術力と時間の、両方が必要だ。深田くんの内面世界を、『幻惑の森』に塗り替えるには、わたしですら、丸一日は費やした。
そこで、問題となるのは、今のきみには、時間がない、ということだ。
そうだろう――?」
比留間は、類照の心を見透かすような眼差しをする。
類照は、答えなかった。
「なので、まずは、テストを受けることを、承諾してもらいたい。今から、一、二時間、きみに時間を与える。その短時間の間に、きみは、わたしの内面世界で、人格改造を目的とした、『埋め込み』に励むんだ。
もちろん、『埋め込み』のやり方は、きちんと教える。きみが、そのテストを終えたら、わたしは、麻酔が抜けた後、すみやかに東部センターに向かい、辻くんの内面世界を、元の状態に戻す作業に当たるよ――。
どうだい?」
「テストって、今から――、ですか?」
「決まってるじゃないか。どうせ、辻くんは、睡眠薬の静脈注射で、眠らせている、といった状態なんだろう? いつまで、それを続けるつもりなんだ。時間が経つにつれ、きみの立場は、加速度的に悪化していく。一分一秒が惜しいのは、きみのほうなのでは?」
類照は、言葉に詰まる。
しかし、テストといっても、類照が、真面目に取り組んだかどうかを、比留間は、どうやって知るつもりなのだろう。
「そのテストの結果が、及第点に値すると、わたしが感じたなら、次の段階に移ろう。わたしは、霊体医療の、プロ中のプロであり、『埋め込み』の技術に関しても、知悉している人間なのでね。
そう――、長くても半日もあれば、自分の内面世界に、どのような変化が起こったのか、判断できる自信がある。
けれど、心配はいらない。わたしが知りたいのは、きみの能力的な面というより、むしろ、人格改造に向けての、熱意があるかどうか、なんだ。
きみの熱意が伝わってきたなら、辻くんに続いて、わたしは、深田くんの心の状態を回復させよう」
類照の脳裏に、とりわけ、大学時代、魔術太極拳部で、深田に、言葉では言い尽くせないほど世話になった思い出が、走馬燈のように蘇る。
「そして、今度は、きみが、努力する番だ。
きみは、これまでどおりに、霊体外科医として働きながらも、しかし、患者さんたちの内面世界で、『埋め込み』技術の研鑽を積むんだ。室野さんや関根くんと同様に、な。
言うまでもないが、皆川さんには、気を付けろよ。彼女が、鋭い人間であることは、きみが、一番、よく知っているだろう?」
理瀬那の知らないところで、自分は、あの関根予壱と同類の人間になるというわけか。それは、理瀬那に対する、完全なる裏切りだ。いったい、これから、どんな顔をして、理瀬那と接していけばいいのだろう。
「最後が、室野さんの件だ。申し訳ないんだが、室野さんに、約束を反故にされた経験があるのでね。まず、わたしの望みを叶えてもらう。
きみが、わたしの人格を、根底から変えられるという、確固たる自信を持つに至ったなら、いつでも、わたしのところへ来てくれ。きみに、何時間でも、いや、何十時間でも、この身と心を委ねる。
その結果、わたしが、心からの満足感を得られたなら、わたしは、深田くんの内面世界に入り、室野さんの霊体を幽閉している創造物を、消滅させる。そのまま、室野さんは、実世界で寝ている、自分の身へと帰ることになるわけだ」
依織が、実世界で目を覚ます。そして、自宅マンションに帰ってくる。
それならば、もう、自分に、拒否するという選択肢は、ないように思う。
「あと、忘れてはいけないのは、室野さんの人格を、今一度、元に戻すことだな。あれは、失敗だったのだから。
せっかく、人生に、潤いを見いだした彼女には、少々、可哀相だが――。当然、その作業も、わたしが、責任を持って引き受ける」
もちろん、その作業は、行ってもらわねば困る。
愛しているからこそ、人格改造を施された状態の依織とは、とてもじゃないが一緒にいられない。
「今現在、きみが抱えている問題のすべてが、ほぼ完璧な形で片づくんだ。人生の軌道を修正した、きみは、ふたたび、輝かしい未来へと歩んでいくといい」
その言葉に、類照は、抵抗力を失った。
「はい……。わかりました」
自分の意思とは無関係に返事をしてしまった気がするが、もはや遅かった。
「ありがとう」
比留間は、すっと立ち上がった。右手を差し出してくる。こうなることを、最初っから確信していたような、ごく紳士的な動作だった。
類照も、腰を上げた。比留間の右手を握り返す。陶器のように冷たい手だ。その手を離す。
「とにかく、時間がない。さっそく、施術の準備に入ろう」
比留間は、そう言って、机の上にある受話器を取った。
この院長室には、霊体医療の施術用の設備が整っている。黒い革張りの肘掛け椅子が、向かい合う形で置かれている場所だ。
類照は、先に、そこに移動した。そばの本棚から、『新緑の森』のディスクケースを探す。それは、あっさりと見つかった。中のディスクを、装置にセットする。
ステンレスの台に載っている、ヘルメット型の機器を持ち、黒い革張りの肘掛け椅子の、一方に腰を下ろした。
比留間は、電話を終えると、こちらに歩いてきた。そうして、カーテンの向こうに移動する。
患者たちと同様、上は、青い施術着に着替えた比留間が、向かいの席に着く。
ちょうど、その時、院長室のドアが開き、看護師長の佐久間芹栖と、麻酔科医の沢村響が入ってきた。
おそらく、比留間の指示で、二人は待機していたのだろう。
それにしても、と類照は訝しむ。
院長である比留間に、類照が、施術を行うという状況を、佐久間芹栖と沢村響は、どう思うのだろうか――?
その疑問を投げかけるように、比留間と、その二人とを、交互に見やる。
比留間は、類照の心中を読み取ったようだった。
「ああ、心配は、要らない。佐久間さんも、沢村先生も、すべての事情を理解している」
すべての事情――。
つまり、二人は、比留間とグルだったというわけか。
佐久間芹栖は、唇をへの字に曲げて、傲然と構えている。類照を騙し続けてきたことに関しては、完全に開き直っているような様子だ。
沢村響に至っては、へらへらと野卑な笑いすら見せている。元から心証の悪い男だったが、今や、視界に入っているだけで、虫酸が走る。きっと、依織の霊体を救出するために奔走してきた、これまでの類照の行動を、腹の中で嘲笑っていたに違いない。
こんな二人に、今から、自分の霊体と肉体の安全を委ねるのかと思うと、類照は、暗澹たる気持ちになった。
「では、『埋め込み』のやり方を説明しよう――。
まずは、埋め込むものを決める。それが決まったら、頭の中で、その形状や色、大きさまで、具体的に思い描く。
続いて、その像が、自分の利き腕の手のひらに、映し出されている様をイメージするんだ。すると、その手のひらに、自然と、エネルギーが集中しているのを感じるはずだ。
そうなったら、像を埋め込みたい部分に、その手の、人差し指と中指を向ける。そのまま、二本の指で、像の輪郭を、空間に、実物大で縁取っていく。
縁取りが完成すると、その部分と、エネルギーの溜まっている手のひらとの間に、引力が働き始める感覚が生じるはずだ。まさに、内面世界ならではの現象だな。
そして、最後に、縁取りした空間に、手のひらの像を、拡大しながら押しやっていくようにして、融合させる。それで、『埋め込み』は完了だ。不明な点は、あるかい?」
「いえ、なんとなく、やることは理解できましたが、うまくやれるかどうか、まったく自信がないのですが」
類照は、率直に言った。
「なーに。最初は、失敗が続くだろうが、コツさえつかめば、なんてことはない作業だ。
あとは、きみの熱意次第だ。もう一度、言うが、熱意を示してくれ。言いたいことは、それだけだ。それじゃあ、そろそろ、シーナリー化を、お願いしようか」
佐久間芹栖と沢村響が、全身麻酔の準備に取りかかる。
まもなく、赤いテープの片方の端が、類照の右手首に巻かれた。
比留間の意識レベルが低下したところで、類照は、暗示のセリフを暗唱し始めた。
「意識レベル、ゼロ」と沢村響。
類照は、体外離脱をし、霊体として、比留間の内面世界に飛び込んだ。