03 遠いところ
院長室を辞してから十数分後、類照は、地下の施術室にいた。
看護師長の佐久間芹栖と、麻酔科医の沢村響が、深田の全身麻酔の準備に取りかかる。
類照が、事の進展を、依織に、どうしても話したいと懇願したところ、比留間院長は、しぶしぶ許可を出してくれたのだった。
佐久間芹栖も沢村響も、突然の要望に、嫌な虫を見るかのように疎ましがったが、類照としては、もはや、気にかけている場合ではなかった。
深田の意識レベルが低下したところで、いつもの通り、『新緑の森』で内面世界をシーナリー化する。
それから、体外離脱により、霊体として、深田の中に飛び込んだ。
ふっと地面に降り立つ。
相も変わらず、秩序の欠片もない、混沌の極みというべき森だ。
ぐねぐねと曲がりくねった木々の樹冠に咲いている、極彩色の花々と、イルミネーションのような、色とりどりのキノコの群生。
着目すべきリスたちは、あたかも、恐慌を来したかのように、せわしなく動き回り続けている。
棲息数からすると、この森は、カメレオンたちの天国だと感じさせられるのも、毎度のことだ。
以前までと、やや異なる点といえば、上空を飛び交う、カラスの数が、やたらと多いことが気になる。その事象は、いい傾向ではない。
ひょっとすると、深田の心には、また新たに、暗い影が落ちたのかもしれない、とも思う。
だが、こんな、救いようのないほど狂気に染まった男の、心の状態を、今さら心配しても仕方がないだろう。
類照は、それ以上、現在の森の有様を観察するのを止め、自分にかかる重力を制御し、上空にジャンプした。
それから、自分の両腕、両脚に、翼のイメージを重ね、水平移動を開始する。
すると、今回は、幸運にも、体感で五分と経っていないようなうちに、霧が立ち込めているところを発見した。その中に突っ込んでいき、スピードを落として着地する。
目を凝らして周囲を見回すと、四、五メートル先に、目的の場である、真っ直ぐ上に伸びた巨木が視認できた。
類照は、そこに行き着くと、逸る気持ちに駆られるまま、木の板で造られた螺旋状の階段を、一段一段、上っていく。
枝や葉といった樹冠のない、切り株のように平らな状態の頂上では、いばらの檻の中で、依織が、実に安楽そうに眠っていた。
「イオちゃん、起きてくれ! なあ、起きてくれ!」
類照は、声を張り上げて呼びかける。
「ん? ああ、ルイくん……」
依織は、まだまだ寝かせてくれ、と言わんばかりの目で、こちらを見る。
「おはよう。さっそくなんだけど、外の世界では、けっこう大変なことが起きててさ」
「大変なこと……? あっ、待って。まだ眠くて、頭が、ぼーっとしてる」
「とにかく聞いてくれよ。一から話すと、長くなるんだけどさ、なんと、東部センターに、患者さんの人格改造を行っていた、霊体外科医がいたんだ」
すると、依織は、たちまち脳が覚醒したかのように、むくりと起き上がった。
「……人格改造?」
「そう」
類照は、事の経緯を語り始めた。
理瀬那が、散々、怪しいと言っていた、関根が施術を担当している患者たちの、心理検査の数値表を見て、自分も、禍々しいものを感じたこと。
関根の不正行為を暴けば、依織の霊体を救出するための、糸口をつかめるはずだと考えたこと。
だから、十六歳の少年の内面世界に、内密に入り込み、結果、人格改造を行っている、その証拠となる光景を、目にすることになった――。
「びっくり――。ルイくんが、外の世界で、あたしのために、そんな、綱渡りの日々を送るみたいに、奮闘してくれてたなんて。あたしのほうは、想像すらせずに眠り続けてた。なんか、申し訳ない気持ちでいっぱいよ――。
それで――、その、関根っていう霊体外科医の人は、どうなったの?」
「消えたんだ。だから、警察に、捜索願が出されたはずだ」
依織は、なにやら、考え込むような表情をした。
「だけど、何も成果が得られなかったわけじゃない」
類照は、さらに続きを語る。
この、いばらの檻は、『ロック』という技術で保護されているらしいこと。
その『ロック』を外すには、裏社会専用のディスクが必要であることを、比留間院長が突き止めたこと。
比留間院長は、そのディスクを入手するために、現在、交渉中――。
「それじゃあ、比留間院長は、あたしの霊体を、元の体に戻すと、約束してくれたのね?」
依織は、一転、目を輝かせていた。
「ああ。だから、はっきりとしたことは言えないけど、そうだな――、そう遠くないうちに、イオちゃんは、実世界で、目を覚ますことになるはずだよ」
「そっかあ――。
あのね、あたし、正直、思ってたんだ。あと、二ヶ月くらいかな、それくらい経つと、実世界の自分は、三十歳の誕生日を迎える。こんなところで、その時を過ごすなんて、いやだなぁーって」
やはり、それを気にしていたのか。
類照は、胸を締め付けられるような思いを抱いた。
「――きっと、そんなことにはならない。
おれは、もう、今から、イオちゃんの誕生日プレゼントを、何にしようか考えてるよ。ただ、イオちゃんは、ブランドもののバッグとか、そういうものに、まったく興味ないだろ?
で、一つの案なんだけどさ、イオちゃん、こんな場所に、七、八ヶ月も閉じ込められてたんだから、どこかで、思いっ切り羽を伸ばしたいと思わない? いっそ、地方都市にでも行ってみないか?」
「地方都市? なんか、ちょっとした冒険旅行みたいね」
「冒険とは、大げさな。単に、目的地まで、新幹線で向かうだけだから、ハラハラするような要素は、どこにもないぜ。まあ、お望みとあらば、舗装された道もない荒野を、車で突っ切っていくけど」
「命をかけるハメになるのは、ごめんだわ。でも、遠くに行くっていうことには、魅力を感じる」
「だろ? それじゃあ、どこがいいだろう? 京都とか、あるいは、ずっと遠くのほう、九州の、博多辺りとか――」
「うーん、そうねえ……。だったら、こういうのは、どう?
もう二度と、当たり前の日常には、引き返せないし、引き返したくもなくなるような、遠い、遠いところ……。刺激的で、素敵でしょ?」
依織は、いたずらっぽく笑い、いばらの蔓のほうに、唇を突き出してくる。
相変わらずの、変人ちゃん――。
類照は、心の中で、そうつぶやきながら、そちらに顔を寄せた。
いばらの蔓と蔓の間で、唇を重ね、その感触を味わっていると、依織のほうから、舌を入れてきたので、少々、驚かされる。希望が持てたことで、よほど感情が昂ぶっているのだろうか。やはり、無理を押して、事の進展を伝えに来てよかったと思う。
実世界でも経験したことのないくらい、官能的なキスとなった。