03 シーナリー化
今、患者は、麻酔により、薄れゆく意識のなかで、ゴーグルの内側に映る映像を見ている。『新緑の森』の映像だ。
「意識レベル一、です」
麻酔科医の白井縁斗が、告げる。
患者の意識の明瞭度である。三段階あり、レベル一は、暗示が、もっともかかりやすい状態だ。
類照は、暗示のセリフを暗唱し始めた。
「今、あなたは、緑あふれる森の中にいる。木々のざわめきに包まれている。地面には、白い花が咲いている。耳を澄ますと、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。雑草に覆われた土の上を、あなたは歩いていく。太くて大きな木があるので、試しに触れてみると、手のひらに、柔らかい感触が伝わってきた。少し離れたところに、可愛らしい小さな動物がいる。リスだ。見回してみると、雑草の中や、木の枝の上など、あちこちに、リスの姿があった。どのリスも、穏やかに暮らしているように見える。ほかにも動物がいないかと探してみると、遠くに、シカが、二匹いるのを発見した。そばに、高さ三十センチほどの切り株がある。あなたは、そこに腰を下ろし、一度、休憩することにした。けれども、まだまだ探索を続けたい。そのため、あなたは、ふたたび、緑あふれる森の中を歩き始める――」
そして、この暗示のセリフを、初めから繰り返していく。
この作業は、医学用語で、患者の内面世界の『シーナリー化』と呼ばれている。
シーナリー(scenery)とは、英語で『風景』を意味する。当然ながら、その風景は、患者の内面状態を反映したものとなる。
言ってみれば、患者の内面状態を、心象風景として具象化するのである。
なぜ、このような作業が必要なのかについては、霊体医療学科の基礎系講座である、『暗示心理学』で最初に学ぶことだった。
五十代半ばと見られる男性講師は言った。
「もう時効だから言うんだけどね――」
彼は、研修医時代、興味本位から、ある実験を行ったのだという。
実験のためには、まず、実際の施術の時と同様の状況にするために、チームのメンバーを揃えなくてはならなかった。
霊体外科医師の免許を取得している彼は、当然、施術の担当医役だ。
あとは、麻酔科医と看護師に加わってもらった。
残りは、肝心の患者役が必要だったが、それは、親しい友人の霊体外科医に頼み込み、どうにか承諾を得た。
そうして、実験を始めた。
鎮静作用を持つ麻酔薬を注入し、患者役の友人の意識レベルを低下させたものの、しかし、あえてシーナリー化はしなかった。意識レベルが最低になったところで、施術の担当医役の彼は、体外離脱をして霊体となり、患者役の友人の内面世界に入った――。
その結果、大変なことになった。
宇宙空間を思わせる、漆黒の世界に浮かんだ、記憶の断片から断片へと、ジャンプしながら移動していくのだが、途中で、思考の塊や感情の渦などが、次々と襲いかかってくる。
まるで、アクションゲームの主人公になったかのような、生きた心地のしない体験だった。
最後には、記憶の断片から、足を滑らせ、どこまでもどこまでも落ちていくようにして、友人の内面世界から放り出された――、とのことだった。
男性講師は、最後に、こう付け加えた。
「だから、絶対に、同様のことはするな。最悪の場合、自分自身が、心の病に『感染』することになるぞ」と。
そのため、患者の内面世界における、文字通りの土台である大地を創り出すのが、このシーナリー化の最大の目的だった。
類照は、『新緑の森』でシーナリー化するが、霊体外科医のなかには、『砂漠のオアシス』や『山間の小川』などを用いている者もいる。
暗示のセリフが、三度目の半ばまできたところだった。
「意識レベルゼロ、です」と、白井縁斗。
類照は、ヘルメット型の機器を頭に装着した。右側頭部にあるボタンを押す。それにより、大脳の右半球の角回に、電気刺激を受けることになる。
五、六秒後、浮遊感を覚えた。
そこで、目をつぶり、ヨガのように腹式呼吸を繰り返しながら、意識状態を意図的に変容する。それから、上方に飛んでいる自分をイメージする。
次の瞬間には、霊体として肉体から飛び出していた。赤い蛍光塗料の塗られたテープの上を滑るような形で、患者の体へと向かう。その最中、黒い太極拳服を身にまとい、シューズを履いている、自分自身の姿を思い描く。
患者の体に激突するようにして、その中に吸い込まれた。