04 鏡越しに
学業と部活の両立は、体力的にタフな類照にとっても、目が回るほどの忙しさであり、気づけば、四年生になっていた。
魔術太極拳部の主将を努めていた深田は、六年の夏に引退する際に、後継者を決めた。当時、五年生だった副主将を、主将に昇格させた。そして、まだ四年生の類照を、副主将に指名したのである。
類照の夢想が、現実のものとなったのは、副主将に選ばれてから、数日後のことだった。
その日は、配属先の研究室で行われる実習に、丸一日、かかりっきりだった。それが終わった時には、すでに、午後九時を過ぎていた。
今日は、部活には出られない、という旨を、主将には、あらかじめ伝えてあった。だから、そのまま、自宅マンションに帰宅してもよかったのだが、何とはなしに、魔術太極拳部の道場に向かった。
誰も残っていないと思っていたが、しかし、まだ明かりが点っていたのである。
こんな時間まで、いったい、誰だ――?
類照は、訝しく思いながら、道場に足を踏み入れた。
一人の部員が残っていた。
黒い太極拳服を着た、室野依織の後ろ姿を見て、どきっとした。
どうやら、依織は、演武の練習をしている最中のようだった。壁に備え付けられた鏡を見ながら、自身の技の一つ一つを確認している。同期の部員である類照に、後ろから見られていることは、当然、鏡越しにわかっているはずだった。だが、そんなことは、気にも留めていない様子で、技を繰り出す。
副主将に選ばれた類照からすれば、その技量自体は、さして注目に値するほどのものではなかった。
しかし、一心不乱に静と動を織りなす、依織の姿は、仙人のように神秘的で、同時に、踊り子のように情熱的だった。
やがて、依織は、地面から、二メートルほど、ふわりと浮き上がり、右脚を突き上げると、その体勢のまま、猛烈なスピードで回転し始めた。それに伴い、依織の周囲に、何本かの小さな火柱が上がり、竜巻のように渦を巻く。日本においては、炎のコマと呼ばれる技だった。
ひとしきり、その回転運動を続けた後、すっと地面に降りた依織は、鏡に向かって立ち、流れるように自然な動作で、左の手のひらに、右の拳を当て、静止した。周囲の火柱が霧消する。
その時になって、ようやく、鏡越しに依織と目が合った。
「あ、室野さん、邪魔してすまなかった……。だけど、もう九時過ぎだぜ。そろそろ、切り上げたほうがいいんじゃない?」
気の利いたセリフは、まったく出てこなかった。
「じゃ、おさき」
類照は、後ろ髪を引かれる思いを抱えつつも、道場の出入り口に、足を向けた。
しかし、次の瞬間だった。
「工藤くん」
依織に呼ばれたこと自体に、まず驚いた。
そちらを向くと、ふたたび、鏡越しに目が合った。
「副主将就任、おめでとう」
鏡の中の依織は、不可思議な表情を浮かべた。鼻の付け根に、しわを寄せている。
が、一拍遅れて、それは、笑顔なのだとわかった。まるで、大人が、無理に子供の真似をして、いたずらっぽく歯を見せているような、ひどくぎこちない笑みだ。
類照は、ぱちぱちと目をしばたたいた。それから、苦し紛れみたいに、ふっと笑いを漏らす。
「ありがとう」
これ以上、留まっていることに耐えられず、そそくさと道場を出ていく。
その夜――、類照は、ベッドの上で、道場での出来事を延々と思い返していた。
とくに、鏡の中の依織が見せた、あの表情は、今、目にしているかのように蘇る。
いったい、どういう意味での笑いだったのか――?
そう考え続けるも、答えが出るはずもなかった。
だが、直感が、あれは、特別な相手にだけ見せる表情だ、と訴えてくる。
いずれにせよ、他人を、とりわけ、男子学生を寄せ付けないオーラを、常時まとっていた依織が、類照を祝福してくれたのだ。
それは、紛れもない事実だ。
どきどきと胸が鼓動を打っていた。
ひょっとすると、依織は、最初っから、つまり、一年生の時から、類照のことを、将来性が期待できる男、という目で見ていたのではないか――?
そして、今回、副主将に選ばれた類照は、一年後、自ずと主将に昇格する。
枢聖院大学の、魔術太極拳部の主将という肩書きを持つ学生は、卒業後の研修先を選ぶ際、どの病院からも、三顧の礼で迎えられるという話だ。
類照が、そんな輝かしい未来への一歩を踏み出すのを、依織は、ずっと待ち望んでいたのではないか――?
考えれば考えるほど、それが、真実であると思われてならなくなってくる。
全身の毛が逆立つ感覚に包まれた。
ついに、行動に移す時が来たのだ。
女を寄ってこさせて、男はなんぼ。それが、類照の持論だった。
だから、これまで、女の子を、あの手この手で必死に口説く男どもを、類照は、侮蔑の眼差しで眺めてきた。情けない。ああいう奴らには、プライドというものがないのか、と。だが、ようやく、彼らの気持ちに共感できる心境に至った。
翌日から、そうして、類照は、室野依織を狙う、獰猛なる肉食系男子と化した。
わずかな隙を見逃さず、依織に近づく。ろくに喋ったこともないのに、恥も外聞もかなぐり捨てて、近場のレストランに誘った。
すると、依織は、あっさりとオーケーしてくれた。
食事の席での会話は、決して盛り上がったわけではなかった。
しかし、類照は、その帰り道、依織に交際を申し込んだのだった。惚れた女に、好意を伝えるのが、これほどの恐怖を伴うことだとは、想像もしなかった。自分が、何を口にしているのかわからない心地だったし、膝が震えるのを自覚した。
「こんなわたしで、よろしければ、ぜひ、お願いします」
依織は、しおらしく頭を下げたのだった。
一瞬、聞き間違いではないかとすら疑ったものだ。
その約二ヶ月後、類照は、依織の体を抱いた。案の定、依織は処女だった。
入学直後のオリエンテーションで、依織に、初めて目を奪われた、あの日から、ここまで来るのに、実に、四年近くも歳月がかかった。
しかし、なんにせよ、あの室野依織を、自分のものにしたのだ。
自分が、その気になれば、欲しいものは、なんでも手に入れられる。これまでもそうだったし、きっと、これから先もそうだ。自分は、そういう人間として、この世に生を受けたのだ――。




