01 不潔恐怖症
第四施術室には、三人の医療スタッフと、患者が入っていた。
チームリーダーの工藤類照は、黒い革張りの肘掛け椅子に、腰を下ろした。机の上のモニターに目をやり、改めて患者の情報を確認する。
須原朱利。三十三歳。女性。不潔恐怖症。
これで、四度目の施術だ。
くるりと椅子を反転させる。
施術の担当医と同様、患者にも、黒い革張りの肘掛け椅子が用意されている。
カーテンの向こうから、着替えを終えた患者が戻ってきた。上は、青い施術着という格好だ。
「どうぞ、こちらへ」
類照は、自分の正面にある椅子を、右手で示した。
女性患者は、遠慮がちに歩いてきて、席に着いた。髪を綺麗に後ろで結んでいるが、やや、眉毛の目尻が下がった、いかにも神経質そうな雰囲気の患者だ。
「前回の施術から、一ヶ月半ですね。症状のほうは、どうですか?」
類照が尋ねると、彼女は、とつとつと話し始めた。
「ええっと、そうですね……。職場のコールセンターでは、社員で共用のヘッドセットを着けてるので、以前は、その……、帰宅したら、まず、お風呂に直行して、髪の毛と、あと、とくに耳を、最低でも……、一時間半はかけて洗わないと、気が済まなかったんですけど、今だと、十五分、いや、二十分くらいですかね、それくらいで、汚れは、完全に落ちてるんだと、頭で理解できるようになってきたというか――。
それでも、あれ? こんな短時間でいいの? みたいに感じて、落ち着かない気持ちは、あるんですけど、思い切って、お風呂を出ちゃうと、そのあとは、わりと気にせずに、掃除をしたり、子供たちに食事を作ったりしていて、自分でも、ちょっと驚いていますね」
類照は、話を聞きながらキーボードを叩き、電子カルテに要点を打ち込んでいく。
「なるほど――。治療の成果が出ている、ということを、それなりに実感できているわけですね?」
「ええ。そのことは嬉しいんですけど、ただ……」
「ただ?」
「あのっ、最近、夫の元気がないことが、心配で仕方なくて……」
「旦那さんですか。どんなふうに?」
「仕事が忙しくて、朝、出勤して、帰ってくるのが、夜、遅くになる生活は、ずっと当たり前だったんですが、やっぱり、夫も……、もう若くないですし、体力的に、かなりきつそうなのが、よくわかるんです。
疲れすぎて、食欲が湧かないのか、顔も、げっそりと痩けちゃって」
「旦那さん、お仕事は、何をされてるんでしたっけ?」
「証券会社の営業です。それで、収入は、わりと安定してるんですけど……、いかんせん、プライドの高い人なので、わたしの前では、弱音を口にしないだろうし、わたしのほうも、『仕事は、うまくいってるの?』とか訊けないし、だから、なおさら心配、というか――。
まあ……、もっと言うと、夫は、本当のところ、リストラされそうなんじゃないか、とか、夫が、リストラに遭ったら、今の生活は、とても維持できないので、どこに引っ越そう、とか、悪いほうにばかり考えるのを、やめられないんです」
「それは、つらい状態ですねえ」
「はい……。それに加えて、生活に不安を感じ始めると、あのっ……、メディアで目にする、スラム街に住んでる人たちとか、あと、いわゆる……、流浪者と呼ばれてる人たちのことも、全然、他人事とは思えないというか、どちらかというと、わたしたちの家庭にとって、かなり差し迫った問題だという意識が働きまして――」
「ははあ……」
「たぶん、そのせいなんでしょうけど、とくに困ってるのは、うちの、下の息子が、今、小学三年生なんですけど、よく、家に友達を連れてくるんですね。
で……、そのなかに、一人、いつも、ボロボロの服、というか、不潔っぽい格好をしてる子がいまして……。どうも、その子を見ると、わたし、流浪者の人たちを連想してしまうんです。
それで、その子が、タンスや椅子などの家具に触れたり、部屋の中を走り回ったりするのを見ると、わたし、ものすごい嫌な気持ちになって……、家が汚されてるっていう嫌悪感も、あるにはあるんですけど、単に、それだけじゃなくて――。
なんていうか……、説明するのが難しいんですが……、本来、わたしたちの家庭の生活と、流浪者の人たちの暮らしは、かけ離れているはずなのに、お互いが、だんだんと、境目がなくなってきて、同居し始めているような、耐え難い抵抗があるんです」
類照は、黙ってうなずきつつ、新たに知った情報として、話の趣旨を電子カルテに入力していった。
不潔恐怖症といっても、具体的な症状は、人それぞれだが、この患者の語る内容は、現代の社会情勢の縮図でもあると思う。
「ええ、ええ――。自分が、恐ろしく差別的な人間だという自覚は、ちゃんと持っています。それに何より、うちの息子と、仲良くしてくれてる、その子に、申し訳ない気持ちでいっぱいです……。
母親として、最低ですよね。わかっています。それは、わかっていますけど、どうしても、この性格は、自分で直せそうにありません……」
患者の目には、かすかに涙が滲んでいた。
「わかりました。まだ、大変、苦しい思いをされてるんですね。ですが、治療を続けていけば、きっと、その苦しみから、解放される時が来ますよ。そのために、わたしも、最大限、お力添えしていきますので――。
では、施術を始めます。楽にしてください」