03 人格崩壊を起こした男
看護師長の佐久間芹栖と、麻酔科医の沢村響。
深田の内面世界に入る時は、常に、この二人とチームを組むと決まっていた。深田泰亜の現状については、ほかの職員に、可能な限り漏れないようにしたい、という上層部の意向のためである。
「すぐ、あいつを連れてきますから」
類照は、二人に言い残し、警備員と共に、廊下を奥へと向かった。
そのまま狭い廊下を進むと、左右両側に、四畳ほどの小部屋が、五室ずつ並んでいる。廊下と小部屋を隔てているのは、鉄格子なので、中の様子が確認できる。
さっそく、奇声が聞こえてきた。男とも女とも聞き分けられない声だった。
ここは、精神病棟にさえ入れられないような、恐ろしく訳ありの者たちが、寝起きする場である。現在は、六、七人が収容されているはずだった。
そして、右手側の奥から二番目の部屋に、深田泰亜はいるのだ。その部屋の前まで来ると、警備員が、鍵穴に鍵を差し込み、鉄格子のドアを開けた。
あるのは、折りたたみベッドと小さな丸テーブル、それに洋式の便器だけという部屋だ。
類照は、その中に足を踏み入れた。普段の生活では、決して嗅ぐことのないような臭いが、鼻腔に流れ込んできた。
深田泰亜は、折りたたみベッドに横たわっていた。
岩のように角張った顔の輪郭は、ほとんど真四角に近い。それに加え、眉間には、年齢不相応にも、深いしわが刻まれているので、その顔立ちは、いかにも犯罪に手を染めた男っぽい。
もっとも、その人相の悪さは、昔からのことなので、本人が、まともな社会生活を送っていた頃は、ひょっとすると、コンプレックスを持っていたかもしれない。
大学時代と違うのは、元から、ごわごわとしていた髪が、今では、ろくに散髪もしてないために、ライオンみたいに、そこらじゅうハネていて、近寄りたくないくらい不潔に見えることだ。
さらに、灰色のスウェットパジャマの上下という格好が、何もかもを失った男として、やたら似つかわしく思え、本人の惨めな境遇が、一層、浮き彫りにされているように感じられてしまう。
そんな男が、どんよりと淀んだ目で、こちらを見上げてくるのだ。
「深田先輩」
類照は、素っ気なく声をかける。
「おお、類照じゃないか……。なんだあ? 落ちぶれた、おれの姿を笑うために、わざわざ、こーんなところまで来たのかぁ? いかんぜえ、そういうサディスティックな趣味はっ。この変態野郎めぇぇぇぇっ」
深田は、「ちょちょちょっ」と口にしながら、右手の指先を、下から突き上げるようにして、類照の腹を小突いてきた。
「別に、あんたの今の姿になんか、興味はないよ。でも、仕方がないだろ」
「ああ、なーんだ。依織ちゃんに会いたいのかっ。
けどよお……、おまえには、言ったはずだよなあ? 依織ちゃんが、本当に好きなのは、おれであって、おまえじゃない。
なにしろぉ!? 依織ちゃんは、おれの中に、無理やり入り込んできたんだ。つまりぃ、おれの中に、好きで住み着いてるわけよお。
それなのに、おまえときたら……。完全にストーカーじゃね――」
「うるさい。とにかく、来てくれ」
類照は、深田を無理やり立たせ、鉄格子の外に連れ出した。引きずるようにして、施術室まで歩かせる。
施術室に、類照と深田が入った後、警備員は、外で足を止めたまま引き戸を閉めた。
この室内にも、黒い革張りの肘掛け椅子が、二脚、向き合えるような位置に置かれている。
類照は、患者側の椅子に、深田の身を押し込んだ。
看護師長の佐久間芹栖が、その深田に、青い施術着を手渡す。
「あーあーあー。おれは、病気を治療してほしいわけでもないってぇのに、なんだって、麻酔で眠らされないといけないんだよぉ――?
おい、類照! おれに、人権なんて、ねえってかあ? あれ? 人権って、なんだっけぇ!? ヒャッヒャッヒャッヒャァッ!」
深田は、その後も、ぶつぶつと文句を口にしながら、スウェットパジャマの上を脱ぎ始める。
類照は、机の上に備え付けられた本棚から、『新緑の森』のディスクケースを抜き出した。中のディスクを、装置にセットする。ステンレスの台から、ヘルメット型の機器を手に取り、施術者側の椅子に座った。
これで、深田の意識レベルが低下するのを待つのみとなった。
麻酔科医の沢村響の作業スピードは、ごく平凡という感じだが、一方、佐久間芹栖は、さすが看護師長らしく、手慣れた動きで、全身麻酔の準備を行う。
赤いテープの片側の端が、類照の右手首に巻かれ、マジックテープで留められた。
すでに、麻酔薬の注入は始まっている。
まもなく、沢村響が、「意識レベル、一」と口にした。
類照は、暗示のセリフを暗唱し始める。
「今、あなたは、緑あふれる森の中にいる。木々のざわめきに包まれている。地面には、白い花が咲いている。耳を澄ますと、小鳥の鳴き声が聞こえてきた。雑草に覆われた土の上を、あなたは歩いていく。太くて大きな木があるので、試しに触れてみると、手のひらに、柔らかい感触が伝わってきた。少し離れたところに、可愛らしい小さな動物がいる。リスだ。見回してみると、雑草の中や、木の枝の上など、あちこちに、リスの姿があった。どのリスも、穏やかに暮らしているように見える。ほかにも動物がいないかと探してみると、遠くに、シカが、二匹いるのを発見した。そばに、高さ三十センチほどの切り株がある。あなたは、そこに腰を下ろし、一度、休憩することにした。けれども、まだまだ探索を続けたい。そのため、あなたは、ふたたび、緑あふれる森の中を歩き始める――」
その後、暗示のセリフが、三度目に入ってすぐのところで、
「意識レベル、ゼロ」
と、沢村響に告げられる。
類照は、ヘルメット型の機器を頭に装着し、右側頭部にあるボタンを押す。
体外離脱をすると、霊体として、深田の体に向かっていき、激突するようにして、その中に吸い込まれた。




