01 無能だった男
類照は、マイカーのワゴンを運転し、都心環状線を走っていた。
高層ビルの建ち並ぶ夕景を横目に、ふと、今日の最後に施術を行った、不潔恐怖症の患者の言葉が思い起こされた。
『――どうも、その子を見ると、わたし、流浪者の人たちを連想してしまうんです』
この日本においても、最後のセーフティネットさえ崩壊してから、かなりの月日が経過した。地方とは比較にならぬ繁栄ぶりを誇る、東京に限っても、貧困問題は、日に日に深刻化している状況だ。
勤め人の多くは、都内に増え続けるスラム街の情報を、メディアで見聞きし、明日は我が身だという不安を抱えながら、生活を送っている。さらには、そのスラム街でも生きていけなくなった者の行き着く先は、大きく二つに分かれるという。
裏社会で暗躍する組織の末端構成員となるか、あるいは、弾き出されるように都外へと追いやられ、荒野をさまよう流浪者の集団に、カーストの底辺として取り入れられるか。
つまり、ごく一部の例外を除いて、都内でまっとうな社会生活を営む者たちは、みな、自分の築き上げた地位に、懸命にしがみついている、という現状なのだ。
そういえば、あの関根予壱が、その典型的な人物だったなと思う。
関根予壱は、別の病院で研修医期間を終え、枢聖院大学附属東部医療センターに、ひとりの霊体外科医として勤務することになった。
第一印象からして、妙に頼りなかった。外見、表情、喋り方などからして、まったくもって優秀な人材とは思えない。
系列病院の霊体医療研究センターには劣るが、東部医療センターも、日本屈指の霊体医療を受けられると評される医療機関なのだ。
よく、ここに採用されたな、というのが率直な感想だった。そもそも、霊体外科医としての最低限の資質すら、備えていないような気がした。
事実、その推測は正しかった。
関根予壱を指導する立場として、類照は、最初に患者の施術に付き添った時のことを、よく憶えている。
患者の内面世界をシーナリー化する際は、『新緑の森』を用いる霊体外科医が圧倒的に多い。患者の内面状態を、一番、見極めやすいとされているからだ。
だが、関根は、それを嫌がった。
「森の中って、虫だらけでしょう? ぼく、虫が苦手で苦手で……。とくに、巨大なクモなんて、見ただけで、全身に鳥肌が立っちゃいますよ」
その関根がシーナリー化に選んだのは、『砂漠のオアシス』だった。
患者の内面世界に降り立ち、関根の格好を見た瞬間、類照は、つい顔をしかめた。
チェックの赤いポロシャツに、変にぴっちりとしたジーパン。普段の服装なのか。オタクっぽい。
だが、それ以上に、内面世界とはいえ、砂漠の砂の上を移動するのだから、もうちょっと動きやすい服装を選べないのか、という言葉が、喉もとまで出かかった。
そして、予想通りというか、むしろ、想像以上の無能ぶりに、類照は驚き呆れた。
まず、オアシスを、一通り見て回ることにしたのだが、患者の疾患の象徴が、どこにあるのか、ろくに見定められないのだ。
しかも、関根は、重大な過ちを犯したのである。
ヤシの木の間を歩いている最中のことだった。
そばに、小さな竜巻が発生したのを見たとたん、関根は、ひどい狼狽ぶりを示した。
「あ、やばいやばい、竜巻だ! 工藤先生、どうしましょうか? いったん、遠くに避難するべきですよね!?」
「落ち着け、落ち着けっ。突風を放って、向こうに吹き飛ばすんだ」
類照は、そう指示した。
関根は、竜巻に向かって、右手を突き出す。
「うおおおおぉぉっ!」
その直後、凄まじい暴風が吹いた。あっという間に竜巻が消滅していく。が、その勢いのあまり、そばにある数本のヤシの木までもが、大きく傾いていた。
「ストップ!」
類照は制止したが、すでに遅かった。
三本のヤシの木が、めりめりと音を立て、さらに傾いていく。ほどなくして、どすんと音を立てて倒れた。
どうやら、関根は、ここが内面世界であることを計算に入れず、全エネルギーを突風として放ったらしい。そのせいか、両手を膝につき、肩で息をしていた。
倒れた三本のヤシの木を見る。おそらく、患者の人格に、なんらかの悪影響が出るのは避けられないと思われた。
類照も、口にせずにはいられなかった。
「おまえさあ――、研修医期間に、いったい、何を学んできたんだよ」
すると、関根は、卑屈な笑い顔を、こちらに向けた。
また、皆川理瀬那も、指導のために、しばしば、関根と共に患者の内面世界に入ることがあった。理瀬那は、類照より、よっぽどものをはっきり言う性格なので、関根を、かなりこっぴどく叱責していたらしかった。
当然、関根予壱は、先輩の霊体外科医たちに怒られてばかりで、相当、ストレスを抱えていたらしく、日を追うごとに覇気がなくなっていった。
いや、それだけではない。
どうやら、患者の内面世界で、たびたび砂嵐に巻き込まれたり、悪い時には、ハイエナの襲撃により、怪我を負わされたりしたようだった。
その結果、患者の疾患を移され始めた模様で、四、五ヶ月も経つ頃には、明らかに神経症の症状を呈していた。それゆえ、治す側であるはずが、逆に、患者として、ほかの霊体外科医による施術を受ける身にまでなる、という始末だった。
しかし、それでも関根は、職を辞することはしなかった。
ただ、それもそのはず。関根から、霊体外科医という肩書きを取り上げたら、果たしてどうなるだろう。肉体労働には向いていなさそうだし、スラム街に追いやられた関根が、したたかに生き抜いていく姿など、想像も付かなかった。
そう考えていくと、関根予壱は、まさに命拾いしたものだと、つくづく思う。
霊体外科医としての資質を備えていないと、誰の目にも明らかだったのだが、その関根が、半年ほど前から、別人のように力を発揮し始めたのだ。
それは、客観的なデータとして現れた。
患者には、心理検査を行い、心の状態を数値化するのだが、その結果が、めざましく改善され始めた。とくに、患者が、今現在の生活で、どの程度の幸福感を得ているかを示す数値は、劇的な上昇ぶりを見せていたのである。
関根先生の腕がいいらしい――。
患者たちの間でも、そんな声がささやかれ始めた。
そうした状況に伴い、関根予壱は、誰の前でも、尊大な態度を取るようになった。とりわけ、類照や理瀬那に対しては、ずいぶん逆恨みしていたらしく、もう、あなたたちから教わることは何もない、と言わんばかりの言動を繰り返す有様だった。
理瀬那は、そんな関根に、めらめらと敵愾心を燃やしている。だからなのだろうが、関根の担当している患者たちの、心理検査の数値がおかしいと、しきりに類照に訴えてくるのだ。
一方で、類照はというと、関根に対する不快感がない、といえば嘘になるが、今は、どうしても、些末な事柄としか思えなかった。
なぜなら、類照の頭の半分以上は、これから、霊体同士で顔を合わせる、最愛の恋人のことで、常に占められていたからだ。