09 女友達
ここ枢聖院大学附属東部医療センターは、それなりの規模を誇る病院である。一般的な診療科は、ほぼすべて入っているし、内科病棟と外科病棟、精神病棟を備えている。一階フロアには、飲食店やコンビニや美容院、それに、売店の並ぶ、広々としたラウンジなどがあった。
類照は、ラウンジの椅子に腰を下ろし、腕時計を見た。あまり時間は取れないな、と思った。
それから四、五分後、皆川理瀬那が、トレーを持って現れた。
トレーには、売店で買った、コーヒーの紙コップが二つと、あと、モンブランとコンビーフのサンドイッチが載っていた。
類照と恋人の依織、それに、深田泰亜と同じく、皆川理瀬那もまた、枢聖院大学の出身で、大学時代は、魔術太極拳部に所属しており、卒業後は、霊体外科医としてのキャリアをスタートさせた。
類照にとっては、同じ部活の同期として、大学一年の時から、長らく付き合いを続けてきた女友達だ。
明るい茶色に染めた髪には、まるで専属のスタイリストが手がけたようなウェーブをかけている。
やや肉厚の、ふっくらとした唇を、どうやら、本人は、自分の一番のチャームポイントだと思っているフシがある。たしかに、その口もとが、にんまりとした笑いの形に変わった時など、ただの女友達の顔ながら、魔性っぽさが増して見えるなと思わされる。
また、胸もとが深く切れ込んだ薄手のニットと、締め上げるようにタイトなデニムパンツが、その曲線美に富んだボディラインを強調していた。
根は真面目なのだが、派手な女を気取りたがるところは、大学時代から変わっていない。先月、三十歳を迎えたが、美貌という点では、ますます磨きがかかっており、ようやく、女盛りの入り口に立ったばかりという印象だ。
理瀬那は、コーヒーの片方と、コンビーフのサンドイッチを、テーブルに置いた。
「お待たせ。ほいっ」
「悪いな」
類照のほうからは、ほとんど誘うことがないので、理瀬那には、こうして奢ってもらってばかりいた。そうしているうちに、類照が、軽食類では何を好むかまで、彼女は把握してしまったらしい。
理瀬那からは、柑橘系の香水の匂いがした。
類照の向かいの椅子に、理瀬那は、どっかりと腰を下ろす。
「ああっ、もう、関根の奴、ウッザ! 聞いてたでしょ? なーにが、ビッグインパクトよっ――。
ついこの間まで、患者さんの内面世界じゃあ、オアシスを飛び回るハゲワシを見ただけで、へっぴり腰になって、あたしを盾にしようとする体たらくだったくせに。
まったく、今や、教授にでも就任したかのように付け上がっちゃって」
だいぶ、ご立腹みたいだなと思い、類照は、とりあえず宥めることにする。
「あいつなりに、自分の限界を超えるための、何かコツみたいなものをつかんだんだろう。あいつの指導に当たっていた、おれたちとしては、むしろ、喜ばしいことじゃないのか」
だが、理瀬那は、なに言ってんのよ、とばかりに眉根を寄せた。
「ねえ、聞いてよ。関根の奴、昨日なんて、『皆川先生、ぼくに変な対抗意識を持ち続けるのは、いい加減、やめてもらえませんかね』とか言ってきたのよっ。いやーな薄笑いを浮かべながらね」
「そいつは、ずいぶんな言い様だな」
類照は、くくっと笑った。
予想はしていたが、やはり、理瀬那は、関根についての愚痴を吐き出したいがために、類照を呼んだらしい。そのことを思いながら、遠慮なく、コーヒーに口を付け、サンドイッチをかじり始めた。
「ねえ、類照は、何も思ってないわけ?」
「ん? 何が?」
「何が、って……。あたしたちを、思いっ切り見下してるような、関根の態度のことよ」
「まあ――、多少、天狗になってるところは、目に付くけどさ、だからって、理瀬那みたいに、いちいち噛みつくつもりはないな。
今さっき、速見先生にも言われたんだ。関根に頭を下げて、施術のやり方について、学ばせてもらったらどうだ、ってな――。長い目で、霊体外科医としての成長を考えるなら、それも全然アリだと思ってる」
「あら、すっかり毒気の抜かれた男になっちゃって。魔術太極拳部の主将を務めてた頃とは、まるで別人みたいね」
「そうかな――。でも、毎日毎日、患者さんたちの内面世界に入って、疾患の象徴と接してるんだぜ。人格に影響が出てきても、さほど不思議じゃないだろ」
「職業病ってわけ――? やだやだ、そんな悲しい話、しないでよ。あんた、自分でも知らないうちに、かなり病んでるんじゃないの?
この、才気あふれる女医さまが、一度、診てあげようか? あたしに、身も心も委ねるっていう気分になったのなら、いつでも言ってちょうだい。ものの十数分もあれば、あんたを、大学時代のような、ぎらぎらとした男に、蘇らせる自信があるわ」
性的意味合いを、多分に匂わせるセリフだった。
理瀬那は、にったりと口もとを歪めている。
その顔つきだけで、いったい、どれだけの男を落としてきたのだろうと、類照は想像する。
ビッチめ――。心の中で、そう毒突いてやった。
「いや、遠慮しておくよ」
「あらそうっ――。それはそうと、関根が担当してる患者さんたちの、心理検査の数値表、見てくれた?」
「いや、まだだ」
すると、理瀬那は、白目を剥くようにして残念そうな表情をした。
「とにかく見てよ。おかしいんだから」
「どんなふうに?」
「口で説明するより、見てもらったほうが早いわ。なんなら、これからでも――」
「いや、申し訳ないんだが、実は、あまり時間が取れないんだ」
「なに? これから、何か予定が?」
「ああ、中央センターに行く日なんだ」
「はーん。王子さまは、お姫さまのことで、頭がいっぱいだっていうのね?」
理瀬那は、からかうように言う。
大学時代、魔術太極拳部の部員同士というつながりで、依織と理瀬那は顔見知りだ。
そして、依織が、深田泰亜の内面世界から出られなくなり、三ヶ月ほどが過ぎた頃のことである。
さしたる理由はなかったが、一度だけ、類照は、理瀬那も同伴で、深田泰亜の内面世界に入ったことがあった。二人で、依織に会いにいったのだ。
その際も、『新緑の森』でシーナリー化していたため、依織は、いばらの檻に幽閉された状態で、すやすやと寝息を立てていた。
理瀬那は、その様を、童話の『眠り姫』になぞらえているのだ。
「それにしても、比留間院長が、よく許可したわね」
「前から、ずっと頼み込んでたからな」
「ふーん。ただ、どうなのよ?
類照、あんたは、たしかに、霊体外科医として、有能な部類に入るのかもしれない。だけど、経験の少なさというのは、どんな能力をもってしても補えない弱点だってこと、自覚してる? あたしもそうだけど、類照だって、こと危機管理という点では、まだまだ未熟者の身でしょう?
深田先輩の中の世界では、何が起きてもおかしくないのよ――?」
「もちろん、慎重の上にも慎重を期して行動するさ」
「行動? はい、じゃあ、依織ちゃんが幽閉されてる、いばらの檻のところまで辿り着きました。で、そのいばらの檻は、どんな魔術を使おうが、びくともしません。
だから、眠ってる依織ちゃんを叩き起こして、ひとしきり慰め合いをして、最後に、愛してるって、チューして帰ってくるだけでしょう?」
理瀬那の言い方は悪いが、今回も、それ以上に得るものはなく、終わるのだろうなと、類照自身も思っている。
「とはいえさ、イオちゃんは、もう半年以上も、あんな男の中に入ったままなんだ……。
すでに、絶望に取り付かれていても、なんら不思議じゃない。おれだって、顔を見たいし、イオちゃんが、少しでも前向きな気持ちになってくれるのなら、それだけで、充分に意義のあることだろ」
「あんな男、か……。それにしても、深田先輩、どうして、あんなふうになっちゃったんだろうね?」
「それついては、正直、どうでもいい。おれとしては、イオちゃんの霊体が救出されたら、あの男がどうなろうと、知ったことではないからな」
どうもしっくりこない間が空いた。
「とにかく、気をつけてね。深田先輩の中の世界が、危険に満ちた場所であることは、動かしようのない事実なんだから」
理瀬那は、しゅんとした様子で言った。
第一章の終わりです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
作風が肌に合いましたら、第二章以降もお付き合いいただければ幸いです。