距離を置こう? それって(物理的には)どれくらい離れればよいのかしら
「距離を置こう、フランソア」
本日めでたく王子妃教育を修了した私に、殿下がそう告げた。眼差しは真剣そのもので、意思は固いように見えた。
「わかりましたわ、殿下」
微笑みを浮かべながら頷く。そう言われる理由に心当たりがあったので、なぜかとは聞かなかった。他愛のない話をすると、私は帰路に就くのだった。
「ねぇ、レベッカ。距離を置こうって、どれくらい離れればいいのかしら」
外出から戻った私は鏡の前で、着替えたドレスを整えながら侍女のレベッカに尋ねた。
「フランソアお嬢様……それはどなたに言われたのですか?」
「殿下によ。“距離を置こう”と言われたの」
そう答えた私の名前は、フランソア・フロレンス。今年で二十歳になる。
グラスレティア王国フロレンス侯爵家の長女で、レオンハルト王太子殿下の婚約者候補の一人。
「距離を置こう、ですか……」
レベッカが呟きながら、私の髪をとかしていく。腰まであるピンクブロンドの髪は、フロレンス侯爵家の特徴とも言える髪色。可愛らしいよりも綺麗だと言われる顔立ちは母親譲りのもので、黄色の瞳は父親譲りだ。
レベッカの復唱に頷く。彼女は考え込んだものの、結局結論は出なかった。
「すみません。私は剣一筋で恋愛はからっきしなので」
「いいのよ、気にしないで」
侍女レベッカは騎士家出身の二十四歳で、護衛も兼任していた。
「私はね、隣国に行くのが良いと思うの」
「隣国、ですか?」
「えぇ。距離を置こうって、物理的に離れて欲しいってことでしょう。領地だと王城からそこまで距離が離れていないから、隣国のコーチェス国まで行くのがちょうどいいと思うの」
わざわざ“距離を置こう”と口にまで出されたのだ。中途半端な距離では、置いたとは言えない。だからこそ、馬車で一週間はかかる隣国のコーチェス国に行こうと考えていたのだ。
今私がいるのは、王都にあるフロレンス侯爵邸。ここから少し離れた土地がフロレンス領であり、現在は兄ウィランドが管理を行っている。
「コーチェス国ならルイーズ叔母様もいらっしゃるし、しばらくの間お世話になれると思って」
「なるほど。名案ですね」
「そうでしょう?」
自分の案が褒められたことが嬉しくて、ふふっと笑みをこぼす。
「それにしても、一体なぜレオンハルト殿下はお嬢様に距離を置いてほしいなど言われたのでしょう」
レオンハルト・グラスレティア王太子殿下。
王家の象徴でもある美しい金髪、海のように澄んだ瞳という王国一の美麗な顔立ちに加えて誰もが惹きつけられる雰囲気をお持ちのお方。私はこの方の幼馴染であり、婚約者候補でもある。
幼い頃からレオンハルト殿下の隣に立つことを夢見て、長年努力をし続けてきた。私の初恋であり、今でもお慕いしているお方。
婚約者候補はもう一人存在していて、それがイヴァンカ・ウッドベリー公爵令嬢。候補同士、対立関係にあるからか親交は少ない。
そもそもこの国には、王子妃選定制度というものが存在している。これは二人の婚約者候補を選出し、両名に王子妃教育を受けさせた後に試験や社交活動の総合的な結果をもって、最終的に国王陛下が王子妃を定めるというものだった。
この候補が、私とイヴァンカ様なのだ。
「イヴァンカ様に聞いたお話だと、最近王城が物騒らしいの」
「物騒?」
「えぇ。何でも暗殺者が出入りしているみたいで」
「それは確かに物騒ですね」
この話は王子妃教育で一緒になった日に教えてもらったものだった。
「ちょうど王子妃教育も終えたことだし、殿下は不用意に王城に近付くなという意味で仰ったのだと思うの」
「なるほど。確かに納得しました」
「それに、最近は根を詰め過ぎていたから。休養がてらコーチェス国に行くのが良いんじゃないかしら」
「そうですね。お嬢様に休養は必須かと」
お茶を淹れたレベッカが、カップをテーブルに置いてくれた。
「ありがとう、レベッカ。そうと決まれば、早速お父様にコーチェス国旅行を打診してみるわ」
温かい紅茶を口にしながら、コーチェス国に何を持って行こうと考えるのだった。
仕事を終えた父に話をしてみた。首をかしげていたものの「息抜きは大切だね。ゆっくり休んでおいで」とのことで、早速叔母様に連絡を取るために早馬を飛ばしてくれた。無事に承諾をもらえたので、すぐにレベッカと一緒に荷造りを始めた。
母と領地から戻って来ていた兄にも、コーチェス旅行についてざっくり伝えた。二人とも、ルイーズ叔母様達によろしくとのことだった。
出発したのは、殿下に距離を置こうと言われてから一週間後のことだった。念入りに準備したトランクを手に馬車に乗り込んだ。向かい側にはレベッカがおり、五名の護衛騎士と共にコーチェス国を目指すのだった。
「お嬢様、コーチェス国はどのような国なのですか?」
「レベッカは初めて行くのよね」
「はい」
「コーチェス国は、グラスレティア王国よりものどかで緑豊かな国よ。息抜きにぴったりの場所なんじゃないかしら」
「それは楽しみです」
さらに一週間後、私達はコーチェス国に到着した。
「いらっしゃい、フランソア」
「ご無沙汰しております、ルイーズ叔母様」
ルイーズ・ガルシア公爵夫人。
父の妹である叔母様は、コーチェス国ガルシア公爵に嫁がれた人。意外にも叔母様は恋愛婚だという。グラスレティア王国とコーチェス国の仲は良好で、平和協定も結んでいることから、それが可能なのかもしれない。
「ゆっくりしていって。今息子達が学園に行っていて屋敷が空いているの」
「あら、そうなんですね。お世話になります」
私の従弟にあたる、ガルシア公爵家の年子の息子は二人とも学園の寮生活中だという。お言葉に甘えながら、部屋に案内してもらった。そのまま荷解きを開始すると、レベッカから驚きの声が上がった。
「お嬢様、パーティードレスを持ってこられたんですか?」
「えぇ。念のためにね。休養とは言え、社交活動が必要になるかもしれないでしょう?」
「社交活動をしたら息抜きとは言わないのでは?」
「でもね、例えば一か月、何もしないで過ごすことの方が息苦しく感じてしまう気がして」
「それは……否定できませんね」
苦笑いをするレベッカ。今までずっと王子妃教育およびに社交活動を盛んにしていたからこそ、一気に何もしなくなるというのは反動が大きすぎる気がしたのだ。
「安心してレベッカ。しっかりと休息も取るから」
「是非ともゆっくりお休みになられてください」
「えぇ。早速だけど、明日にでも街を観光しに行こうかと思って。たまにはお店で買い物をしたいもの」
「素晴らしい案ですね」
「そうでしょう?」
普段はフロレンス侯爵家に商人を呼んで、ドレスや装飾品を選ぶことが多い。叔母様に頼めばガルシア公爵家に呼ぶこともできるが、それでは旅行に来た意味が損なわれるというものだ。
荷解きを終え、叔母様とのお昼ご飯も終えると、ガルシア公爵邸に私への来訪者が現れた。
「ミリアナ姫」
「久しぶり、フランソア! 休養に来ていると聞いて来ちゃったの」
「まさかもうお耳に入っているとは」
「親友の話だもの、当然でしょう?」
にかっと朗らかに笑う女性は、ミリアナ・コーチェス王女殿下。
美しい青色の髪がなびいている。愛らしい顔立ちと低い背のせいで、二十歳と言われても少し幼く見える雰囲気の持ち主。
彼女とは長い付き合いがあり、親友と言える関係性だった。あるパーティーで出会った際に、意気投合してからは親しくなるのに時間がかからなかった。ミリアナ姫がグラスレティア王国にお忍びで来る時には、必ずフロレンス侯爵家を訪れてくれている。
活発でじゃじゃ馬とも呼ばれるミリアナ姫だが、実は頭が切れて国民思いの姫なのだ。
「明日伺おうと思っていましたのに」
「いいのよ。王城に来たら堅苦しい格好をしないといけないでしょう? それじゃ休養にならないわ。だから私から来たの」
「そうだったんですね。お心遣いありがとうございます」
深く頭を下げて挨拶を済ませると、ルイーズ叔母様に一部屋お借りすることにした。レベッカはお茶を淹れる準備をすると一度席を外した。向かい合って座ると、ミリアナ姫は少し体を乗り出して話を振った。
「それにしても珍しい。フランソアが休養だなんて」
「あら。私だって息抜きくらいしますよ?」
「そう? 王子妃教育をびしっとこなす上に、将来を見据えて社交活動に熱をいれてばかりだったから。休むことなんて頭になかったでしょ」
「それは……そうですね」
他国にいるミリアナ姫が私の近況に詳しいのは、月に一度文通をしているからだ。
「まぁ、熱心なのはそれだけレオンハルト殿下のことが好きということよね」
「……当然です」
いざ言われると恥ずかしくなるものの、私の気持ちは幼い頃から変わっていない。レオンハルト殿下一筋だ。
「まぁ私が言いたかったのは、レオンハルト殿下と何かあったんじゃないかと心配していたというだけよ。何もないならそれでよかった」
「何もないというか、レオンハルト殿下に“距離を置こう”と言われたので――」
「えっ、距離を置こう?」
「えぇ」
ミリアナ姫にとっては衝撃的な言葉なのか勢いよく声を重ねると、固まったまま動かなくなってしまった。その間にレベッカが入室して、紅茶を淹れてくれた。レベッカが退室すると、ミリアナ姫はゆっくりと動き出した
「私の知るレオンハルト王太子殿下は、フランソアのことを大切にする人だったと思うのだけど。私も時折殿下から話は聞いていたのに……」
「そうですね。殿下は婚約者候補には優しく接しておられるかと」
「そうよね……とても王太子殿下が言った言葉には思えないのだけど」
ぼそぼそと呟くように考え込むミリアナ姫。彼女の中で何か引っかかることがあったよだ。
「本当に距離を置こうと言われたのよね?」
「そうですよ。だからこうして距離を取ってコーチェス国に来ているじゃありませんか」
「それって……物理的に?」
「はい、物理的に」
「ん?」
今度はゆっくりと目をぱちぱちさせるミリアナ姫。紅茶の入ったカップに伸びかけた手は止まっていた。
「あら、やっぱりコーチェス国では近かったですかね? 困りましたわ。他の国となると伝手がなくて」
「いや! ……十分だと思う」
「それなら良かった」
「十分と言うか、必要ないというか……」
目を伏せて消え入るような声で発せられたかと思えば、ミリアナ姫はバッと顔を上げた。
「一つ確認させて、フランソア」
「なんでしょうか」
「フランソアが婚約者候補を下りたわけでも、下ろされたわけでもではないのよね?」
「えぇ、違いますよ」
その返事を聞くと、ミリアナ姫はしばらく考え込んでしまった。
「……私はどこまで介入すべきか考えていたのだけど、悪い方に転んだ時に対処できるようにすることみたい」
「そうですか?」
ミリアナ姫が何を見据えた発言かはわからなかったものの、彼女の頭の中ではいくつかの未来が見えているんだろう。さすが、切れ者だ。
「うん。取り敢えずフランソアは休養を楽しんで」
「ありがとうございます」
「明日は観光するのよね? それなら良いお店があるわ」
「それは気になります。是非とも教えてください」
その後、ミリアナ姫にいくつかおすすめのお店を教えてもらいながら、他愛のない話をして解散となるのだった。
コーチェス国に到着した翌日、私はレベッカと共に買い出し兼観光のために街に出ることした。
「本日の格好も素敵です」
「ふふ、ありがとうレベッカ。レベッカの髪の結い上げが上手だからよ」
「ありがたきお言葉です」
長く下ろされた髪を、今日は後ろでまとめることにした。外出用ドレスは、華美になり過ぎない落ち着いた藍色の物を選んだ。準備を終えると、早速馬車に乗り込む。観光、と言うこともあって、護衛騎士にはわからない程度の距離で見守ってほしいと頼んだのだった。
目的地に到着した。着いた通りは貴族御用達のお店が並ぶこともあって、他にも他家の貴族がちらほらと見られた。まずは必要な物を購入しに装飾店へと入った。
「このお店は、昨日ミリアナ姫におすすめいただいた場所なの」
「そうでしたか」
ミリアナ姫が勧めるだけあってか、とても繊細で巧妙な装飾品ばかりが並んでいた。
「せっかくなら、持ってきたパーティードレスに合うものを買いましょう」
店頭に並んでいるものを吟味したり、店員さんにおすすめの物を紹介してもらったりした結果、二つだけ購入することに決めた。
「お二つだけでよろしかったのですか?」
「えぇ。散財しにきたわけでもないし、良いものは長く使えるから」
元々浪費をするような性格ではないので、本当に必要だと思ったものしか購入しないタイプなのだ。お店を出ると、その後もドレスや小物を見てパーティーに必要なものを揃えたり、ミリアナ姫お勧めの雑貨屋さん等を見て回った。
「だいたい買えたわね……そろそろお茶でもしましょう、レベッカ」
「かしこまりました。どこのお店にしましょう」
「そうね……」
通りに並ぶ店を見渡しながら考え始めると、横から突然話しかけられた。
「失礼します、とても麗しいお方ですね」
「あら、ありがとうございます」
声をかけてきたのは同年代くらいの男性で、爽やかな笑顔を浮かべていた。人のよさそうな雰囲気で、顔立ちは平凡なものだった。少し驚きながらも会話を試みた。
「こんな麗しい方とお茶をできれば、私はコーチェス国一の幸せ者になるでしょう」
「まぁ、お茶がお好きなのですか?」
「そうですね」
笑顔で答えるというのは、本心である証だろう。
「どんな種類のお茶が好きなのでしょうか」
「そうですね……アールグレイが好きです」
「あらごめんなさい。私アールグレイは苦手なんです」
「え」
お茶の好みが合わず、申し訳なくなってしまう。謝罪するものの、彼なら他の誰とでもお茶ができそうな気がした。
「せっかくのお茶は、茶葉の好みが合った方としないとつまらないですわよね」
「え」
「これを差し引いても、招待状のないお誘いは受けられないんです。ごめんなさいね」
「あ、あの」
「では私はこれで。行きましょう、レベッカ」
「はい、お嬢様」
レベッカに声をかけると、私達はそのまま近くにあったカフェに入店することにした。席に着くと、レベッカがくすりと笑っていた。
「お嬢様。危機回避能力の高さは相変わらずですね」
「あら、別に褒められたことではないわよ。むしろさっきの方に申し訳ないことをしてしまったわ」
「急に声をかけてくる方が失礼なんですから。お嬢様が非を感じる必要はありませんよ」
「そうね。お茶会への招待だったら受けられたのだけど。社交活動にもなるし」
「手順を踏んだお誘いなら、私も賛成です」
「ふふ、そうよね」
メニューを見て注文を終えると、運ばれてくるまでの間、気になることを聞いた。
「それにしてもレベッカ。危機回避能力ってなにかしら? グラスレティア王国でも何度か聞いた気がするわ」
「そもそもこの言葉が正しいかはわかりませんが……簡単に言うと、お嬢様が強運ということでしょうか」
「あら、私って強運なの? 知らなかったわ」
特に強運だと感じたことはないが、レベッカがそう言うのなら私にもいずれ実感できる日が来るかもしれない。注文した紅茶が運ばれてくると、軽く話をしながらお茶を楽しんでいた。すると、再び知らない人に声をかけられた。
「すみません。お隣いいですか?」
話しかけてきたのは、先程の方と違って落ち着いた様子の大人の雰囲気を持った男性だった。同い年に見えるような、見えないような風貌だが、整った顔立ちをしていた。
「あら、構いませんよ」
「ありがとうございます」
小さく微笑まれる。そこまでお礼を言われることでもないのに、と思いながら自分の飲み終わったカップを手に立ち上がった。
「ちょうど飲み終わりましたので。どうぞお使いください」
「え」
「さ、行きましょうレベッカ」
「はい、お嬢様」
すっと立ち上がって席を譲ると、自分達が飲んだカップを返却してお店を後にするのだった。お茶と休憩を終えた私達は、そのままガルシア公爵邸へと帰路に就いた。
◆◆◆
グラスレティア王国の王太子として、婚約者を決めなくてはいけない。候補が二人いるとはいえ、俺の気持ちは既に固まっていた。
「次の書類をよこせ、リュシアン」
「少しお休みになられてください殿下。いくら何でも働き過ぎですよ」
側近兼補佐にあたるリュシアンが首を横に振った。働き過ぎだという意見はわかるが、今休むことはできない。
「それでいい。俺は早くフランソアに会いたいんだ」
「お気持ちはわかりますが、この一週間出力を上げ過ぎです」
フランソア・フロレンス。幼い頃からずっと恋をしてきた、俺の最愛の女性。
当然会える機会はあったものの、増えていく仕事のせいで彼女に会える時間が段々と減ってきてしまったのだ。彼女が王子妃教育を無事に終わらせた日でさえ、ゆっくりとお茶することもできなかったのが悔やまれる。
「せっかく機会を設けても、途中で席を立つようではフランソアに失礼だ」
「それはそうですね」
今までは与えられた公務だけをこなしていたが、それだけでは不測の事態や緊急事態に対処しきれないということがよくわかった。運の悪いことに、フランソアに会う日に限って急ぎの仕事が重なるのだ。
だから俺は、彼女に一週間前「距離を置こう」と告げた。そうすることで、時間を確保し、一気に全ての仕事を片付けようと考えたのだ。
(次は絶対、フランソアとゆっくり時間を過ごす。誰にも仕事にも邪魔はさせない……)
そう決意したからこそ、彼女に待っていて欲しいという気持ちを込めて告げたのだった。
コンコンコンコンと部屋のドアを叩く音がした。
「入れ」
「失礼しまーす」
入室したのは、もう一人の側近デリックだった。ちらりと確認すると、そのままリュシアンから追加の仕事を受け取り、書類に目を通し始めた。
「殿下、今日もいらっしゃいましたよ」
「追い返せ」
手を止めることなく、ただ一言そう言い放つ。誰が来訪しているのかは容易に想像できた。
「できたらしてます……残念なことに、また今日も婚約者候補の権利を盾に居座られるおつもりかと」
「ちっ」
「舌打ちは駄目です殿下」
リュシアンに制されるものの、本心で出たのだから仕方ない。
婚約者候補の権利。
その一つが、王子妃教育を終えた後に王子と共に過ごす時間が設けられるというものだった。しかしこれは、あくまでも定期的に王子と会える権利であって、毎日のように会うための権利ではない。
「全く、ウッドベリー様にも困ったものですね。」
ため息を吐くリュシアンに同意する。
イヴァンカ・ウッドベリー。
俺の悩みの種であり、仕事が増えた原因の一部。婚約者候補の一人ではあるものの、本来候補にすら上がらなかった令嬢だ。なぜなら俺は最初からフランソア一択で、候補を作るつもりがなかった。それをウッドベリー公爵に泣きついて懇願した結果、王太子妃選定制度を持ち出さされ、婚約者候補に収まったのだ。
(……元はと言えば、グラスレティアに残る王太子妃候補制度がおかしい。候補にする必要など、どこにもない)
苛立ちが増してくる中、リュシアンに諭される。
「殿下。こうしていても仕方ありません。しきたりでもありますから」
「そのしきたりを破っているのはウッドベリー嬢の方だ」
「……王子妃教育の後に王子に会うという項目の解釈は人による。そう判断されている以上、しきたりを破っていることにはなりません」
ぐっと手のひらに力が入っていく。
今まで、王子と定期的に会うという項目は、王子側が日程を指定するのが基本だった。王子妃教育をしている以上、令嬢を無下に扱わないために「王子妃教育の後に会える」と表記をされているにすぎないのだ。
しかし、ウッドベリー嬢はこれを姑息に悪用し、王子妃教育を必要以上に励むことになった。その結果、毎日のように王城に通いながら俺に会おうとする厄介者となっていた。
苛立ちを呑み込みながら席を立った。そのままデリックに近付く。
「わかった、これで最後だ」
「それ前にも聞きましたよ」
「デリック、余計な口を挟んではいけませんよ」
しきたりを破った者が悪とされる以上、ウッドベリー嬢は権利を正当に主張しているだけに過ぎないというのが現状だった。
(あの女に会うくらいなら、仕事を片付けてフランソアに会う時間の方が比べる間もなく意味があるのに)
悪態をつきながら、デリックと共にウッドベリー嬢の元へ向かうのだった。
部屋に入れば、煌びやかなドレスに身を包んだ令嬢が座っており、後ろに従者の男が控えていた。
「殿下! お待ちしておりましたわ」
「座ったままで結構です、ウッドベリー嬢」
張り付けた笑顔で対応を始める。ウッドベリー嬢の前で素を見せたことなど一度もない。そのまま自分もソファーに座ると、デリックに背後で待機させた。
「お会いできて光栄です。殿下、今日はですね――」
「申し訳ありません。公務に追われているので、今後は婚約者候補様にこのように会うことはできなくなります」
ウッドベリー嬢の言葉を遮りながら、こちらの用件だけを伝える。普段も彼女の話は全く聞いていないが、遮るまではしていなかった。
わざわざ婚約者候補という言葉を選んだのは、フランソアには伝達済みで容認されていることを暗に伝える為だった。
「そ、そうなのですね。では頻度を下げた方がいいですよね。次はいつがご都合よろしいでしょうか」
「三か月ほど先です」
「えっ」
「失礼ながらレオンハルト殿下。それはあまりにも、イヴァンカお嬢様に礼節を欠いています」
さっと出てきたのは、ウッドベリー嬢に従えるトリスタンだ。彼はウッドベリー公爵の補佐メント子爵の息子で、ウッドベリー嬢とは古い付き合いらしい。忠誠を誓っているからか、ウッドベリー嬢が上手くいくように悪知恵を吹き込んでいるのもこいつだと予想している。
(今日もいつも通り出てきたな)
内心ではうっとうしさで負の感情がこみ上げてくるが、相手にしないのが一番だ。顔には一切出さずにウッドベリー嬢だけを見て真実と本心を告げた。
「申し訳ありません。毎日仕事を中断しているからか、不要な問題に追われてしまい仕事がはかどらない日々です。少しまとまった時間をいただければ、溜まった仕事を即座に片付けて、またご令嬢にも会えるかと思います」
「ですが、三か月は――」
「では、次のお約束は一か月後にしましょう」
二か月も譲歩する形を取れば、これ以上文句は言えない。笑顔で圧を作るものの、空気が読めないウッドベリー嬢は目に涙を浮かばせた。
「一か月も、殿下にお会いできないのですか……?」
心底悲しいと言わんばかりの表情をされた。しかし、今この言葉が出るということは自分が仕事の邪魔だとは微塵も思っていないようだ。
(こういう相手にははっきりと言わなければ伝わらない。だが、ここでウッドベリー嬢に本当に泣かれでもすれば、それさえもトリスタンに利用される)
泣かせたことを脅迫材料に、会うよう迫られては元も子もない。
「ウッドベリー嬢。私は三か月から一か月と時間を短縮する努力を伝えました。私の考えを、貴女なら理解してくれると思ったのですが……」
あくまでも傷ついた様子を演出する。心の中では、いい加減わかってくれないかと呆れのため息をついていた。そうすれば、ウッドベリー嬢は焦った様子で笑みを浮かべ直した。
「も、もちろんです殿下! 一か月後ですよね。わかりました」
(さっきの涙はやはり演技か)
本当に泣くのならあんなにも素早く涙が引っ込むはずがない。
盛大に溜め息をつきたいのを我慢して、ウッドベリー嬢との次の約束を確約させると、急いで見送りをする形で退場してもらうのだった。
「……はぁ」
「お疲れ様です、殿下」
全てを見届けたデリックが同情的な目で俺を労わってくれた。不要な用事が済むと、そのまま二人で執務室に戻り始めた。
「それにしてもおめでとうございます。これで一か月は面会謝絶できますね」
「もっと長くてもいい。フランソアはいつまでも待つと言ってくれた」
「さすがフロレンス様。女神ですね」
対極にいる婚約者候補。ウッドベリー嬢も、少しはフランソアを見習って欲しいものだ。
「それにしてもあの言葉は言わなかったんですね」
「あの言葉?」
「以前聞かれたじゃないですか。相手を不快にさせないように、離れる旨を端的に伝える方法って」
「あぁ、“距離を置いてほしい”だろう。言ったぞ」
それは、俺がフランソアにどうやって言えば傷つけないか悩んでいる時に、偶然顔を出したデリックに教わった言葉だった。
「え? さっき言ってませんでしたよね」
「それはそうだろう。フランソアに言ったんだから」
その瞬間、デリックは固まって足を止めた。何だと思って振り返れば、そこには青ざめていく男がいた。
「じょ、冗談ですよね……?」
「冗談なわけあるか。何をそんなに青ざめてるんだ」
「俺はあの言葉、ウッドベリー様に言うと思って伝えたんです……」
デリックの主張から、すれ違いが起きていたことがわかった。
「そうか。だが問題ないだろう?」
「大ありです。距離を置いてほしいっていうのは、別れの言葉と同義なんですよ……‼」
「…………何だと?」
別れの言葉と同義? 俺がそれをフランソアに伝えたのか?
さっと血の気が引いていくのがわかった。背筋が凍っていくのを感じながら、絶望に覆われていった。
自分が硬直するほど固まったのがわかった。
「で、殿下! 殿下!」
「……あぁ、デリック」
「ひとまず執務室に戻りましょう、話はそれからです」
そう言われると、デリックに引きずられながら執務室に戻るのだった。
「で、殿下⁉ デリック、何があったのですか」
「じ、実は――」
俺が固まっている間、デリックがリュシアンに事の経緯を話した。その間俺は、ソファーに座りながらどうすべきか考え込んでいた。
「そんなことが……大変なことになりましたね」
話を聞き終えたリュシアンが、こちらに近付く。それと同時に、俺は立ち上がった。
「フロレンス侯爵家に行ってくる」
「お待ちください殿下。一度話を整理しましょう。それに、フロレンス侯爵家に向かうとしても一報入れるべきです」
「……そう、だな。すまない」
リュシアンの言葉に冷静さを取り戻して座り直した。すると、デリックがあの日について尋ね始めた。
「殿下、フロレンス様からは何と返されたのですか」
「わかりましたと」
「……別れの言葉にしてはすんなりと受け入れ過ぎですね。フロレンス様は別れと認識していないのでは? もし別れだと認識していれば婚約者候補を下りる話になるはずですし」
リュシアンの考察に、俺は一気に胸が救われる思いだった。筋の通った意見に、正しくあれとすがりたくなってしまう。
「殿下、まずはフロレンス様に内密に手紙を送るべきではないでしょうか」
「そうだな……まずは発生しているかもしれない誤解を解かなくては」
「それでは準備しますね」
「あぁ、ありがとう」
ウッドベリー嬢に一か月会わないと言った手前、フランソアに安易に接触することもできない。こうなれば、情報が決して漏れないように内密に動くべきだろう。
落ち込んでいる暇などないとわかると、急いで手紙を送ることにするのだった。
フロレンス侯爵家宛に手紙を送った翌日。
早く返事が来て欲しい気持ちに集中力をそがれながらも、仕事をこなすしかなかった。
執務室に重苦しい空気が流れていたが、午後になると扉がノックされた。
「……ウッドベリー嬢じゃないよな」
「さすがに問題ないと思いますが……」
リュシアンと顔を合わせながら扉に注目した。まず入室したのはデリックだった。
「殿下、こっちに通して問題ないと思ったのですが」
「デリックがそう判断したのなら構わない」
「良かった。どうぞ、お入りください」
「失礼します」
「「‼」」
柔らかい声色とフランソアと同じピンクブロンドの髪が目に入った。
現れたのは、ウィランド・フロレンス。フランソアの兄君だった。
「お久しぶりです。レオンハルト殿下、リュシアン君」
「お久しぶりです、ウィランド様」
リュシアンが勢いよく立ち上がって、一礼する。俺もそれに続きながら立ち上がると、ウィランド卿に近付いた。
「ウィランド卿。お越しいただきありがとうございます。どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます。殿下もお忙しいと思いますので早速本題に入りますね」
「はい」
ソファーに向かいあって座ると、ウィランド卿は服の内側から手紙を取り出した。
「それは」
「殿下にいただいた手紙です。中は読んでおりません。手紙に関して、一点確認したいことがあるのと、どう処理するかのご相談に参りました」
「確認したいこと、ですか」
「はい、まずはそちらから。今フランソアはコーチェス国にいるのですが」
「フランソアが⁉」
「あれ?」
驚きのあまり思考が停止してしまうが、その反応にウィランド卿も不思議そうな表情を見せた。
「フランソアが殿下に“距離を置こう”と言われたから、安全確保のためにコーチェス国に行くと言っていたのですが……ご存じではないんですか?」
「距離を置こう……は言いましたけど、どうしてコーチェス国に」
「私もよくわかってはいなかったのですが……フランソアは、現在王城が物騒という話を聞いていたので、距離を置こうというのは殿下からのお願いなんだと言っていました」
フランソアの話を聞けると思っていたが、どう反応していいか困るとは考えていなかった。
「でも今考えればおかしな話でしたね。王城の方に聞いたら、物騒だなんてことはないと教えていただいたので。コーチェス国行きは、単純にフランソアは休息をとるべきだという父の判断ですが……なるほど、フランソアの捉え間違えのようですね」
「……そ、そんな捉え方あるんですね」
ウィランド卿の言葉に、デリックが戸惑いの声色を見せていた。気持ちはわからなくない。遠回しの別れの言葉として発したものが、まさかそのまま受け止められるとは思いもしない。
「今の話が確認です。それでご相談したいことが、手紙をどうするかというお話なんです。コーチェス国にそのまま転送することも可能ですが、もし殿下とフランソアの間ですれ違いが発生しているのなら手紙を書き直すことも視野に入ると思いまして……どうしましょうか」
自分も状況を理解できていないはずなのに、当事者を最優先してくれるウィランド卿の優しさがとても温かかった。相談を聞いて一つ決めたことがあった。
「……手紙ではなく、直接会いに行きます」
「殿下!」
勢いよく制するリュシアンの方を振り向いて、表情を崩さず続ける。
「この誤解こそ、直接解きたいんだ。もう逃げるのをやめる」
今までずっと、逃げていた。
フランソアに好意を伝えるのが怖くて、聞くこともできなかった。彼女を前にすると、緊張して言葉が上手くだせないからこそ、デリックに簡単な言葉を尋ねたのだ。全てはこの怠慢が引き起こしたにすぎない。
今こそフランソアに気持ちを伝えるべきだ。すれ違いが起きないように。
しかし、リュシアンは俺の発言に難色を示した。
「ですが殿下、ウッドベリー嬢との約束がある以上会いに行かれれば、一か月という約束も消えてしまいます」
「リュシアン、言いたいことはわかる。ただ、コーチェス国への視察も俺の公務だ。前々から父上に打診されていたことではあったんだ。公務をこなす上で、フランソアとは偶然会ったに過ぎない。その一件のみで、詰めさせはしないさ」
「……なるほど、手はあるということですね」
リュシアンに対して頷くと、デリックが手を挙げた。
「それなら俺はここに残って代わりに仕事をこなしますよ」
「デリック」
「今回のすれ違いの原因は俺なので」
「大丈夫なのか」
「問題ないとは言い切れませんが、俺だって殿下の側近で補佐ですよ。ただ、視察を含むのなら側近として選ぶべきはリュシアンだと思います」
任せてほしいと言わんばかりに、デリックは胸を叩いた。
「すみません。ウィランド卿、手紙の件は私が届ける形で問題ないでしょうか」
「私は問題ありませんよ。これは殿下とフランソア二人の話だと思いますので」
「ありがとうございます。ちなみにフランソアはいつ出発しましたか」
「ちょうど一週間前ですね。今はもう到着して、観光でもしている頃だと思います」
一週間も経ってしまっている。フランソアが馬車で行ったのなら、俺は馬を飛ばそう。
万が一でもフランソアが休暇中に別れの言葉と認識して、傷ついてしまうことだってある。それを避けるためにも、急ぐことに価値はあった。
「フランソアに会いに行くのなら、滞在している場所を書きますね」
「何から何までありがとうございます、ウィランド卿」
「頭を上げてください殿下。私はただ、妹の幸せを心から願っているだけですので」
謙遜されるものの、俺個人としては感謝を伝えきれていなかった。この件はいつか必ず恩返しをしようと決めるのだった。
こうして俺も、フランソアを追ってコーチェス国に向かうことにした。
◆◆◆
買い物をしてからは、一日中屋敷でゆっくりと過ごすことにした。王子妃教育の日々だったからか、段々と何もしない時間が落ち着かなくなっていた。
「何をなさっているのですか、お嬢様」
「じっとしていられないから、何かしようと思うのだけど」
「お休みになってください」
「もう十分休んだのよ?」
「まだ今日は半日も休んでおりませんよ」
レベッカの指摘通りだ。ゆっくりし始めてから、まだ半日も経っていなかった。
「読書をしたり、体を休めたり……休息の取り方は様々ですよ」
「読書……コーチェス国の歴史でも学ぼうかしら」
「それは休息ではありませんね」
「あら、本当だわ。……どうしましょうか。」
右頬に手を当てながら、ため息を吐いた。
だらだらとすることに慣れていないからか、ソファーに座って紅茶を飲んでもすぐ何か次にやりたいと思考してしまう。息抜きになるものがないか考えていた。
「……そうだ、記録をしましょう」
「記録、ですか?」
「ええ。ミリアナ姫に退屈になったら日記でも書くと良いと言われたことを思い出したの。先日せっかく観光もしたのだから、実際見て感じたことを書き留めておくべきね」
「日記……確かに日記なら息抜き、ですかね」
首を傾げながらも、レベッカは同意してくれた。そしてそのまま、ガルシア公爵家の侍女にお願いして紙とペンを用意してもらえるよう頼んでくれた。
「お嬢様、今聞いたお話なのですが」
「えぇ」
「明日、もう一度ミリアナ王女殿下が来訪されるそうです。今回は正式に手順を踏んだとのことで」
「まぁ! 明日の予定が決まったわね」
パンッと手を叩きながら笑みを浮かべる。明日は親友とのお茶会ができるようだ。
胸を躍らせながら、記録を進めるのだった。
そして翌日、約束通りミリアナ姫はお茶をしに来てくれた。
今日は前回と違って、ガルシア公爵邸の庭園でお茶会をすることにした。晴天の下、テーブルに美味しそうなスイーツが並ぶ。
「元気にしてた?フランソア」
「はい、ミリアナ姫」
「それは良かった。連日押しかけたり、頻繁に顔を出したりしたらガルシア公爵夫妻に悪いと思っていたのだけど、ガルシア夫人がフランソアのためにいらしてくださいと仰ってくれたから来ちゃったわ」
「叔母様が」
私が退屈するのをわかっていたのかもしれない。叔母様に後で感謝を伝えることにした。
「しっかり休めてる?」
「それが……私には休息は向いていないようで」
「休息に向き不向きってあるの?」
「私もないと思っていたんですよ。でも休もうと思っても、何かしなくてはと思考が働いてしまうんです。王子妃教育の影響だと思うのですが」
「あー……なんとなく理解できたかも」
これはあくまでも自分の感覚だけど、息抜きはできても長期的な休養は向いてない気がする。
「それなら明日、王城のパーティーに来る?」
「まぁ、パーティーがあるのですか?」
「うん、王家主催のね。社交活動もしに来たのなら、ちょうどいいと思って」
「せっかくならしたいと思ってたんです。……あ。ですが明日のパーティー、パートナーは必須ですか?」
「いや、必須じゃないよ」
首を振りながら否定するミリアナ姫に、私はほっと安堵のため息をつく。
今は単身で休養に来ていることもあって、パートナーを頼める人がいなかった。
(従弟二人は学生寮だし、他にコーチェス国に知り合いがいないから良かったわ)
王家主催のパーティーともなれば、社交活動として十分すぎる場所になる。
「フランソア、明日は着飾ってね」
「え? えぇ、もちろん。王家主催ですからある程度は」
「ううん。これ以上ないくらい気合入れておいで。コーチェス国のご令嬢方は、見た目をよく観察するから」
「そうなんですか?」
「第一印象が大事だからね。下に見られないように、最大限綺麗にするんだよ」
「わ、わかりましたわ」
ミリアナ姫の謎の圧に頷いた。国の姫である彼女が言うのだから、気合を入れるべきなのだろう。これ以上ないほどに、綺麗に着飾る。これを目標に、レベッカにお願いしよう。
王家主催のパーティーは夜会のようで、入場は夕方から可能とのことだった。ガルシア公爵夫妻が参加予定なので、叔母様と話し合いながら向かい方を考えよう。
その後も、ミリアナ姫はコーチェス国の社交界に関して覚えておくべき話を教えてくれた。
「そうだ、フランソア。もし万が一にでも、参加したくない気分だったら来なくて大丈夫だからね」
「どうしたんですか急に」
「ほら、フランソアは一応休養の身でしょう? 休みたくなったりしたら、私のことは気にず欠席していいから」
「わかりました……覚えておきますわ」
ミリアナ姫の気遣いだろうと思い、そっと胸にしまうことにするのだった。
王家主催の夜会当日。
午後になると、早速パーティーに向かう準備をし始めていた。
「レベッカ。これ以上ないほどに気合を入れて、綺麗に着飾ることはできるかしら?」
「もちろんですお嬢様。今回はガルシア公爵家の侍女の皆様にもお手伝いいただけるようなので」
「それはよかった」
部屋の中を侍女たちが行き来し始める。
ドレスは、フロレンス侯爵家から持ってきたものを着ることにした。実家のドレスルームから選んだ一着なだけあって、文句なしの綺麗なドレスだった。
ドレスの着替えをレベッカと公爵家の侍女に手伝ってもらうと、後はレベッカにお願いした。
「髪型は下ろしましょうか」
「えぇ、そうするわ」
全て終えると、姿鏡の前に立ってみる。
「気合入れ過ぎかしら」
「そんなことはありません。お嬢様の美しさ輝いているだけですから」
「ありがとう。ふふ、レベッカのおかげね」
クリーム色のドレスは、一見地味に見えるものの、各所に施された繊細なレースと程よいフリルが上品さを際立たせている。コーチェス国で購入した青色のイヤリングをつけると、無事に完成した。
「うん、完璧ね」
気合十分、少なくともこれでご令嬢方に侮られることは無いはずだ。ほっと一息を吐きながら準備を終えて待機をしていると、私に来客者がいるという。
「ミリアナ姫かしら?」
何か伝え忘れたことでもあるのだろうかと思いながら、ガルシア公爵邸の玄関ホールへと向かった。
「フランソア……!」
「えっ……レオンハルト殿下?」
来客の正体は、驚くべきことにレオンハルト殿下だった。急いで近寄ろうとすれば、レオンハルト殿下の方から歩み寄ってくれた。手の届く距離まで近付くと、殿下はそっと視線をドレスに移した。
「フランソア、その姿は……パーティーに向かうのか?」
「その予定ですが、殿下はどうしてここに……もしかして私、距離が足りませんでしたか?」
「違うんだフランソア。実はそのことで話があって来たんだ。明日でも構わない」
準備を終えたとはいえ、もう少しで出発する時刻だった。
コーチェス国の社交活動とレオンハルト殿下の話出あれば、私の気持ちは後者を優先する気持ちが強かった。
(ミリアナ姫はこれを見抜いていたのかしら)
思い出されたのは、欠席しても構わないというミリアナ姫の言葉。私はありがたくもその話を実行することにした。
「いいえ、問題ありませんわ。大切なお話ですよね?」
「い、いいのか? パーティーに行かなくて」
「私にとってはレオンハルト殿下とのお話の方が重要ですので」
「!」
本心を告げながら微笑めば、殿下は一瞬目を見開いてから嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、フランソア」
私は叔母様にパーティーに行かない旨えると、殿下とのお話で使える部屋を一室貸してもらうことにした。二人でだけで話すことすると移動した。
「フランソア、手を」
「ありがとうございます、殿下」
すっと出された手に、少し緊張しながら手を伸ばした。そのまま優しく手を引いて支えてくれる。
婚約者候補である以上、まだ婚約者ではないので、殿下にエスコートされた回数はそう多くなかった。それもあって、今この状況が嬉しくて幸せで胸がいっぱいだった。殿下に会えたのなら、着飾った意味が大いにあった。
「先程は言いそびれたが……今日のフランソアは一段と輝いていて、凄く綺麗だ」
「あ、ありがとうございます、殿下」
部屋に到着すると、立ち止まってそう褒めてくださった。面と向かって微笑まれると、その笑顔の破壊力に胸が高鳴ってしまう。
「……どうしてそんなに」
何か聞かれたい様子の殿下だったが、迷った様子で呑み込まれた。そのまま入室すると、向かい合って座った。
殿下の言いたいことがなんとなくわかった私は、しっかりと瞳を見つめて事情を話した。
「休養には来ましたが、せっかくの機会なのでコーチェス国でも社交活動をしようと思いまして。ミリアナ姫に、今日のパーティーは着飾らないと見くびられると助言をいただいたのです。なので、気合を入れて準備をしたのですが」
「……そうだったのか。それなのにすまない、引き止めてしまって」
「いえ。私は殿下に褒めていただけて満足しております。むしろ着飾っておいてよかったかと」
上手く伝えられたかわからないが、殿下は少し頬を赤くさせていた。
「それで、お話とは?」
「君に謝罪をしたくて」
「謝罪、ですか?」
こくりと頷く殿下の眼差しは、真剣そのものだった。
「距離を置こうと言っただろう?」
「えぇ、ですのでこうしてコーチェス国に」
「ち、違うんだ。そもそもの解釈も、意図も」
「あら、そうなのですか?」
違う。どうやら距離を置こうという言葉において、私は受け取り方を間違えたようだった。驚きながらも、少し不安を覚えていく。全く違う捉え違いをしていたとして、もしかしたら婚約者候補にかかわる話だったのかもしれないという推測が頭の中を駆け巡った。
「フランソア。距離を置こうというのは、会う回数を減らそうという意味だったんだ」
「会う回数を、ですか?」
「あぁ。……最近、せっかく君との時間を取れても俺が席を立つことが多かっただろう? その原因は俺にある。もっと言えば、想定外の公務や仕事が入るからだったんだ。……それが不甲斐なくて、一度まとまった時間をもらって片付けようと思って。そしたら、フランソアともっとゆっくり時間が取れるはずだから」
殿下の口から語られたのは、私への思いやり以外の何物でもなかった。その気持ちが嬉しくて口角が自然と上がってしまう。
「だが、距離を置こうというのは、元々は別れの言葉らしいんだ」
「別れの言葉」
「そんなつもりは一切ないんだ。別れるだなんて、絶対にあり得ない」
「よかった、私はまだ婚約者候補で良いのですね」
「……あぁ」
心のどこかに生まれた不安も、ようやく全て取り除くことができた。ほっと胸をなでおろすと、殿下は深く頭を下げた。
「すまない、何も知らずに使ってしまって。フランソアに直接謝りたくて会いに来たんだ」
わざわざコーチェス国にまで来てくれた、この行動一つが私には舞い上がるほど嬉しいものだった。
「ありがとうございます、会いに来てくださって。しっかりと伝わっております」
「フランソア……」
ぎゅっとその優しさと思いを受け止めた。嬉しさを噛み締めていれば、殿下がもう一度私の名前を呼んだ。
「フランソア、違うんだ」
「違う……?」
幸せな私とは対極にいるかのように、緊張した面持ちで殿下はじっと私を見つめていた、
「俺がこんなに焦ってすれ違いを失くしたのは、婚約者候補でいいからじゃない」
「えっ」
殿下の発言に背筋がひやりと冷気が走る。もしや、下ろされるのだろうかと懸念が生まれかけた時だった。
「婚約者になってほしいからだ。フランソア。俺は婚約者候補になる前から、フランソア一択だった」
「え……それは」
ウッドベリー様は。そう浮かんだ言葉を言おうかどうか悩んでいると、殿下は立ち上がって私の方へと近付いてきた。そして、隣へ座ると、私の手を取った。
「フランソアが好きだ。俺はフランソアしか興味がない」
「‼」
それは、私が声に出そうとした疑問の答えだったのかもしれない。
頬に熱が一気に集中したのがわかった。その熱は頬だけに収まらず、顔全体を覆っていった。
「で、殿下」
「この気持ちを伝えたくて……今日はここまで来たんだ」
誤解を解くだけじゃなく、想いを伝えたかったから。
殿下の言葉は、突然すぎて、理解できるのに時間がかかった。でも嬉しいことに変わりはなくて。でも恥ずかしくなって下を向いてしまう。
(婚約者候補になった時は、候補なのだから殿下のお気持ちはわからないと思っていたけれど)
どこか一歩引いて考えていた自分がいたのも確かだ。あらゆる不安や心配事を抱えて、気持ちを口に出すのを怖がっていた自分がいた。けれど、今ならもう何も怖くない。顔を上げると、殿下の青い瞳をじっと見つめた。
「……私も、殿下をずっと……ずっとお慕いしております。婚約者として隣に立てるよう、努力を怠らずに参りました。今回の社交活動も、少しでもウッドベリー様より有利に働けばいいかなと思って」
「フランソア……」
殿下の頬も、赤くなっていくのがわかった。すれ違い、その根幹にはお互いに気持ちを伝えていないことがあった。
「私を……選んでくださいますか?」
「……あぁ。俺は昔からフランソア一筋だ」
微笑み合うと、殿下はそっと抱き寄せてくれるのだった。
◆◆◆
こうしてすれ違いは無事解消され、想いも通じ合った甲斐もあり、レオンハルト・グラスレティア王太子殿下の婚約者にはフランソア・フロレンスが選ばれるのであった。
―終―
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