渡世銭
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おー、つぶつぶもカードのたぐいを使うようになったんだ。あんた、いつまでたってもアナログ人間だから、いつデジタルになるのかと少し気になっていたのよ。
はじめてICカードが出た時は、ハイテクの香りがプンプンしたのよね。こう、カードをかざしただけでお金を払ったことになる、なんて。知らない人が見たら、魔法か何かのように思えるんじゃないかしら。
切符を買う手間がなくなれば、お客の回転率もあがる。お客側もお金を取り出して切符を買うロスがなくなる。win-winな関係といえるかもね。
どうして現ナマを持たない方向へ社会が進んでいるのか、考えたことがある?
現金を持たない気楽さに加え、ポイントがたまる。支払いが楽……このあたりは、ぱっと思いつくんじゃないかしら。
でも私は、昔に不思議な体験をしたことがあってね。ひょっとすると、理由のひとつにそれもあるかもしれない、と思うことがあったのよ。
その時のこと、聞いてみない?
お正月とか、親戚の家に行くと子供がもらうもの、なんでしょう?
そう、お年玉ね。もともとはお餅を渡していたというこのお年玉は、現在だと大人が子供へ現金を渡す形になっている。
子供にとっては目の飛び出そうな金額を手にすることもあるでしょう。でも、直後に十中八九、付け足されることがある。
「お金をもらったなら、お母さんに預けなさい」とね。
私にとって、この言葉はうっとおしいこと、このうえなかった。
大切にとっておくなど嘘っぱちで、ドラマとかでやっているように、子供の目につかないところで勝手に使い込んで、知らん顔をする気なんだ。
そう思いこむ私は、その年の祖父母の家でもらったお年玉を、くすねることにしたの。
親が席を外したタイミングで、祖父が渡してくれたお年玉。その中には1万円札が3枚も入っていたの。
複数枚あれば、カモフラージュできる。そう踏んだ私は、ポチ袋の中にあった3枚のうち、1枚だけを残して親に預ける。そして残り2枚を今日履いている、ジーンズのポケットへ潜り込ませたの。
まさか祖父母に「お年玉いくら入れましたか?」なんて、聞く親はいないだろう、と私は踏んでいる。
事実、その通りであり、ポチ袋を渡したあとで親が裏を取ってくることもなく、私は祖父母の家でのひとときを過ごした。
そしていよいよ帰る時間。あいさつをして、私は車へ乗り込みながら心の中でほくそ笑む。
これで2万円を労せずゲット。いったい何に散在してやろうかと、車に揺られながら皮算用をしていたの。
私たちが数十分のドライブののち、自宅の玄関をくぐったところで。
両親が驚きの声をあげたわ。
父は帽子、母はネックレス。それが靴入れのうえ、いつも飾っている花瓶の横に、並んで置かれていることに。
話によると、これらは二人が以前に手元を離れてしまい、失くしたと思っていたものらしい。
それがこうして、あたかも作為的に置かれている状況。誰かが見つけ出してくれたのかと、二人はうれしさよりも得体の知れなさの勝った、困惑した表情をしている。
でも、当時の私には関係ないこと。いぶかしげな二人をよそに、ルンルン気分で階段をあがっていく。
自分の部屋に潜りこめさえすれば、こちらのもの。そう思って、ごろりと部屋のフローリングに転がって、ポケットに手をやって事態に気づいてしまう。
2万円がない。
まさかと思って、ポケットを何度叩いても、ここまで来る家のそこかしこを見ても、どうしても見つからない。車に乗り込んだ時には、確かにポケットに入っているのを確かめたのに。
さっと、自分の顔が青ざめるのを覚えたわ。親に聞くわけにはいかないもの。お年玉をくすねたことがばれてしまう。
へたにうろついて、とがめられるのもまずい。私は親の目を盗むように家じゅうを探ったけど、ついに2万円のゆくえは分からず。
車の中に置いていったのならまずい。お金のことを明かせないのに、車のカギを開けてもらう理由が思い浮かばなかった。
明日にはもう、父親は仕事で車を出してしまう。そうなれば気づかれる可能性が高いと、私はなかばあきらめ顔。
けれど予想に反し、何日経っても親があの2万円を手に、私の前に立つことはなかった。
私自身、その1年で何度か乗車の機会を得た際に、極力さりげなく探ってはみたけれど、やはり見つからずじまい。
ぐずぐず引きずったまま、ついには新年も通り過ぎ。再び私たちは祖父母の家へあいさつに行く。
変わらず元気でいてくれる祖父。ゆいいつ、このことを打ち明けられる相手に会え、私はたまらずこのことを報告したの。
「……ははあ、そいつは『渡世銭』だな」
話を聞いた祖父は、そう答えたわ。
渡世銭は若者が多くの現金を持っているとき、まれに見られる不思議なこと。特に古い通貨の場合だと起こりやすいのだとか。
若造に持たれるのをよしとしない、昔かたぎのお金たちは、もっと使われがいのある仕事を探し、手元を離れていくのだと。
今回は、父母の失せものが出てくるという形で、仕事を果たしたのだろうと祖父は語る。
どのように彼らが仕事を果たすかは、およそ人の知るところじゃない。ことによると、持ち主の手を離れ、捨て置かれたものを届けるために、己が身を券売機にすらくぐらせて、切符を用意させることもあるかもしれない。
幼かったこともあり、私はこの渡世銭の話をよく覚えていた。
しばらくは身の丈に合わない額を持たないようにしていたけれど、進学するにつれて、お札が財布の中を多く占めるようになっても、なんともないから油断していたのかもしれない。
短大を出てから、数年間務めた小さな会社があるの。従業員が少ないこともあって、給与は封筒に入れた現金で、はじめてもらうお給料の重さにウキウキしていたの。
けれど、当時のひとり暮らしをしていた部屋へ戻り、中を確かめてみると半分ほどがなくなっている。
すぐ渡世銭のことを思い出して、うろたえる私の耳にドアポストが鳴る音が。
チラシがいっぱいの、手紙受けのてっぺん。そこにはすっかり黒ずんだ紙切れが2枚。
一万円札が2枚。触れれば破れてしまいそうなほどくたびれていたそれを、届けてくれた誰かのことは、いまも分からない。
けれどひょっとしたら、あの時に仕事へ出た2枚の一万円札ではないかと、私は思うの。
とはいえ、このようなことがまかり通り続けたら大変。だから現金を持ち歩く以外の選択肢が増えているんじゃないかと思うのよ。




