エピソード3:Saturday/ココロのソナー②
土曜日、時刻は間もなく11時。名杙統治は宮城県北、登米市にある透名総合病院のロビー内の長椅子に座っていた。土曜日なので外来はお休み、受付のカウンターにもブラインドがおろされており、長椅子に座っているのは私服姿の彼一人だけだ。医者や看護師が行ったり来たりする様子を見ながら、背もたれに体重を預けて……ため息を1つ。足を組むと、伸縮性のない黒い綿のパンツが引きつったような感覚になり……静かに足をおろした。
今まで、この病院に入院している祖母を見舞っていた。体調も以前より安定しており、本格的な冬になる前に自宅への一時帰宅も許可できるかもしれない、とのこと。
祖母の容態に統治は胸をなでおろしつつ……とはいえ、別の懸念事項があるため、心にもやがかかったまま。
まさか、まさかまさかまさか。
「……水族館、だと」
自分で口に出した言葉を認識して、眉間にシワがよる。いかんいかん、今からこんなことでどーするんだと頭を振るが、どうしても、どうしても気になってしまって。
「……」
『縁故』の一人として、『仙台支局』の一員として、この問題を早急に解決しなければならない。そのためには明日、心愛と蓮が2人で出かけることは必要だ。心愛だって全てを分かった上でこのような提案をしているし、彼女には彼女の考えがある。それを信じて、困っていたら助ければいい。自分の役割はそれだ。
そんなこと分かっている。分かっているけれど……割り切れない『何か』が、胸の中をモヤモヤさせている。
一人で延々と考えても、何の解決にもならない。そんな口をへの字に曲げている統治の方へ、軽やかな足音が近づいた。
「統治さん、お待たせしました」
鈴のように軽やかな声に導かれるように顔をあげると、視線の先にはこの病院の院長の娘であり統治の恋人であり理解者の一人でもある女性・透名櫻子の姿があった。
今日の彼女は午前中に小児病棟で仕事があり、この時間に落ち合う約束をしていた。先日、統治自身が彼女の行動に助けられたこともあり、お礼をさせてほしいという名目で。
今日の彼女は長い黒髪を首の後ろで1つに結い、白いシャツの上から黒いジャケットを羽織っている。ベージュのパンツに同系色のパンプスというビジネスカジュアルだ。
「すいません、着替えてくる時間が勿体なくて……」
「いや、俺の方こそ忙しい時に……櫻子さん?」
カバンを持って立ち上がった統治は、自分をじぃっと見つめる櫻子に首を傾げる。彼女の大きな瞳が何かを見透かすように統治を見つめるから……逸したいけれど逸らせない、そんな状況になっていた。
「……俺の顔に何か?」
「心愛さんと何かありましたか?」
「っ!? ど、どうしてそれを……まさか、山本から何か……?」
開口一番に言い当てられて狼狽える統治に、櫻子は笑いながら首を横に振った。
「いいえ。だって私、統治さんのそんなお顔を見るの、2回目ですから」
「に、2回目? あ……」
櫻子に指摘されて思い出すのは、5月、彼女と初めて二人きりで会った時のこと。
喫茶店で相対して十数分、統治が「妹と仲間のことが気になる(要約)」と白状してその日はお開きとなり、妹から「お兄様、本当にサイッテー(要約)」となじられた時の記憶だ。
人の機微な変化を見逃さない彼女に、同じ内容の隠し事はできそうにない。統治は観念して肩をすくめた。
「君に隠し事はできそうにないな」
「すいません。もしも、私にお話出来ない内容であれば無理に伺ったりはしませんが……」
櫻子が軽く頭を下げると、統治は「いや」と首を振る。
「正直、事情が事情だから、隠し通したかったことは否定しない。ただ……」
「ただ?」
『縁故』ではない櫻子にどこまで話をしていいのか、自分の裁量で決めなければならない。ただ、今回のことは……どこかを伏せたままにしてしまうと、絶対に正しく通じない。櫻子には全てを正確に伝えた上で、忌憚のない意見を聞かせてほしいと思うから。
刹那、統治は本日何度目なのか分からないため息をついて、口をへの字に曲げた。そして。
「……心愛が佐藤の姿をした名波君と出かけることになって、俺は、どんな対応をすればいいのか分からないままなんだ」
「……へ?」
統治の話を聞いた櫻子もまた、大きな目を更に丸くして……小首をかしげる。
次の瞬間、ロビーにあった大時計が、11時を告げた。
その後、統治が運転する車で、2人は大崎市古川にあるイタリアンレストランを訪れていた。
市役所の近くにある酒造店を改装した建物の中には、イタリアンや肉バル、麺類など、様々な飲食店が軒を連ねている。外観は蔵としての趣を強く残しているので、フォトスポットとしても人気のある場所だ。
予約をしていたので、すんなりと席に通される。奥まった位置にあるので個室のような空間になっており、小声で話せば周囲に漏れ聞こえることもないだろう。そう判断した櫻子は、料理が届くまでの間、少し身を乗り出して……車の中で聞いた内容を確認するように問いかけた。
「その……つまり、今は佐藤さんの中に名波さん、名波さんの中に佐藤さんの人格がある。そして、佐藤さんの姿をした名波さんと心愛さんが明日、水族館に出かける……と、いう認識でよろしいですか?」
彼女の言葉に、目の前の統治が顔をしかめて頷いた。
「ああ。正直、自分でも何を言っているのか分からない自覚はあるが……他言無用でお願いしたい」
「も、勿論です!! というかすいません、私のような部外者にお話させてしまって……」
「櫻子さんのことは信用しているし、俺が自分で決めて話したことだ。むしろ巻き込んでしまうことになってしまって申し訳ないのは……」
「い、いえっ!! 光栄ですっ!!」
ため息をつく統治に櫻子は慌てて両手を振った。そして。
「そう、光栄なことです。統治さんからお話してもらえるなんて」
「櫻子さん……」
「私は……その、名波さんが心愛さんに何をしたのか、間接的にしか知りませんが……9月、ご自身のことを多くの人の前で話してくださった名波さんからは、もう戻らない、そんな覚悟のようなものを感じました」
「戻らない覚悟……」
思い返すのは、9月。櫻子が主催したワークショップで、蓮が、自分自身のことを語った時のことだ。
「どうか……どうか、ここにいる皆さんは、姉さんのことを覚えていてください。名波華という女性が、本当はあの日、1人で多くの人を助けようと一生懸命だったことを……」
彼はそう言って。
「どうか……忘れないでください」
穏やかな笑顔と共に、一筋の涙を流していた。
初めて、彼があそこまで感情をあらわにしている様子を見た。
そして、問題が一段落した後、統治は蓮を呼び止め、華の母親にあたる女性の墓参りに誘っている。
そこで彼から言われた言葉もまた、統治を驚かせるのには十分すぎる『覚悟』があった。
「その……心愛さんに今の僕を見てもらえるように、名波蓮として何か出来ることを探したいんです。そのために……彼女と話をする機会を作ることを、許して欲しいんです」
彼自身も過去から脱却して、変わろうとしている。
立ち止まりたくなる衝動を振り切って、彼なりにもがきながら。
心愛に誕生日プレゼントを渡したい気持ちと、失敗したくない気持ち、これらが複雑に絡み合って悪影響を及ぼすほど……彼は真剣に、物事と向き合っているのだろう。
「名波さんにとって、華さんのことをお話することは、とても……とても、勇気が必要なことだったと思うんです。どんな形であれ、誹謗中傷は忘れられません。私が今担当している患者さんでも、学校に通えなかったり、病気で出来ないことがあると、周囲から陰口を言われるから余計に塞ぎ込んでしまう……なんて、悲しい思いをしている方もいますから。名波さんもきっと、そうだったと思うんです。少なくとも私には、名波さんのその言葉に裏があるとは思えません」
櫻子の言葉に、統治は静かに首肯した。
そう、そんなことは統治自身も分かっている。分かっている、けれど。
「分かっているんだ。でも、彼は……」
思わず漏れ出た言葉に、櫻子はどこか嬉しそうに「ただ、」と前置きをする。
「それはあくまでも私が名波さんを見た印象の話であって……もしも私が統治さんの立場だったら、妹を誘拐した男とデートなんてお姉ちゃんは許しませんよ、くらいの気持ちになっていたと思います。それでいいんです」
「櫻子さん……」
「物事には色々な側面がありますから。統治さんは統治さんの立場があります。だから今回、『仙台支局』としての立場はユカちゃんや佐藤さんにお任せして、統治さんは「妹を心配するお兄ちゃん」の立場でいると、物事を多角的に見ることが出来て、良い結果につながるのではないでしょうか」
「心配……」
客観的に言われて、改めて気がついた。
統治の中にあった釈然としない思い、それは単純に、妹のことが心配だから。
今まではずっと、自分自身と、目の前のことしか見えなくて……後ろにいる妹のことなど、振り返る余裕もなかったけれど。
心愛が統治の隣に並び立とうとしている今、見えなかったこと、気づかなかったことに気付かされる。
思わず目を丸くしている統治を、櫻子は笑顔で見つめた。
「家族ですから心配するのは当たり前なんですよ、統治さん。それを心愛ちゃんに伝えてあげると、心愛ちゃん自身も改めて気をつけるきっかけになるかもしれませんね」
「ハードルが高いな……」
運ばれてきた前菜にフォークを伸ばしながら、統治は再び渋い表情になる。
そんな彼を楽しそうに眺める櫻子は、慣れた手付きてフォークを動かして前菜を口へ運び「美味しいです」と頬をほころばせた。
「それにしても……佐藤さんも高校生なんて大変そうですね。そういえば、お二人の高校時代はどんな学生だったんですか?」
「俺たちの高校時代……」
櫻子から話をふられた統治は、しばし考えた後……。
「佐藤は学生寮で生活をしていたし、3年間同じクラスにならなかったから……正直、あまり共通の思い出がないんだ」
「そうだったんですね。お二人はずっと一緒にいらっしゃったのかと思っていました」
「勿論、『縁故』としての修練は共に続けていたし、すれ違えば話をしていた。そういえば、佐藤に無茶なことを頼まれたこともある。そうだな……」
統治はふと手を止めると、少しだけ、口元をほころばせた。
そう、高校時代の彼は……今よりも後ろ盾がなくて、今よりも向こう見ずで。『縁故』としての能力を確立させるために無茶なことをして実績を増やしたり、部活動の助っ人として様々なところに顔を出し、あろうことか練習試合のダブルブッキングをして統治に泣きついたり。
そして。
――なあ統治、ケッカが『上級縁故』の試験に合格したって連絡が来たんだ。俺たちも負けてられないな。
そう言って笑う、彼の姿は――
「統治さん?」
「……佐藤はあの頃から、ほとんど変わっていないな」
統治はそう言って、浅く息を吐いた。
ユカのことを話す彼の顔は、とても嬉しそうで。
その顔を見せつけられる度、他人を原動力に出来る彼が心底羨ましいと思ったものだ。
「統治さんがおっしゃっていること、分かる気がします」
そう言って、2人で笑い合う。こんな時間が何よりも愛しい。
運ばれてくる料理と会話を楽しみつつ、統治は自分自身の変化を前向きに捉えたいと……そう、強く思うようになっていた。