エピソード3:Saturday/ココロのソナー①
土曜日、時刻は午前10時過ぎ。
名杙心愛はブレザータイプの制服に身を包み、校内を移動していた。学校は休みなのだが、部活動をしている生徒達の声が少し遠くに聞こえる。そして心愛も生徒会の一員として、来月の文化祭に向けた準備を進めるために登校していた。
11月下旬に、秀麗中学校の文化祭が開催される。それが、現メンバーで行う最後の大型行事だ。文化祭が終われば、生徒会長の阿部倫子と副会長の島田勝利は引退し、心愛達の世代に交代することになる。秀麗中学の生徒会長は、一応、全校生徒から立候補を募る。ただし候補者がいない場合は、現生徒会メンバーの中から会長が選ばれ、信任投票を経て選出される。そこから副会長等の四役を決める話し合いがあり、新しい体制が確定するのだ。
ただ……強い部活での実績を求めて入学する生徒が多いこの学校で、生徒会活動はあまり人気がないのが現状だ。一応、生徒会内にも1年生はいるものの……どう考えても次の会長には選出出来ない。万が一、心愛達と同学年で立候補する人物が出てくるかもしれないけれど、心愛が知る限りでは前例がないので、あまり期待はしないでおこう。
そうなると、消去法で、次期会長を頼まれそうなのは……。
「……まぁ、いいけどね……生きた人間相手だし……」
心愛の独り言は誰にも届かず、階段を登る足音にかき消される。以降は無言で階段を登りきり、生徒会室の扉に手をかける。
「おはようございまーす」
挨拶とともに引き戸を開くと、室内には生徒会長の阿部倫子がパソコンの前で作業をしていた。
肩につく程度の髪の毛を耳にかけて、落ち着いた印象。彼女自身も受験生として、日々の模擬テストや勉強に追われているはずだが、そんな疲れや不安はおくびにも出さない。同学年の島田勝利はしょっちゅう愚痴を言っているけれど。
「おはよう、名杙さん」
穏やかな挨拶に会釈をしつつ、心愛は人が少なすぎることに首を傾げた。
「あれ、阿部会長お一人ですか?」
「島田君は前田君と一緒に、事務室までコピー用紙を取りに行ってくれているの。森君は陸上の大会があるから今日は欠席、千葉さんは土日ダイヤでバスの本数が少ないから、30分遅れてくるそうよ」
「そうだったんですね。とりあえず、何をすればいいですか?」
「名杙さんには……じゃあ、その箱の中にステージ使用希望の申請書が入っているのだけど、1日目と2日目に分けて、更に、第一希望の時間が早い順に整理してもらえるかしら。同じ時間帯を第一希望にしている場合は、クリップに止めてまとめてもらえると助かるわ」
「分かりました」
頷いた心愛は、長机の上に置いてあるA4サイズの箱まで近づいた。そして、中に入っている書類を指示通りに整理しながら……昨日のことを思い返す。
名波蓮、彼の心に引っかかっていたのは……1ヶ月以上前の自分の誕生日に、プレゼントを渡しそこねたこと。
勿論、原因がそれ1つではないにしても、彼の心の大きなしこりになっていることに違いはない。正直なところ、本人から直接聞いても信じがたい話だったりする。
今日も彼は政宗の姿で、名杙家敷地内の離れで過ごしているはず。心愛の生活スペースではないので今日は顔を合わせていないし、そもそも、自分から会いに行くことも出来ない。
明日は心愛が『縁切り』を終えた後、水族館を一緒に回る予定だ。ここである程度の決着をつけなければ、事態は更に混迷を極めてしまうため、蓮自身が納得、満足できるような時間の過ごし方をする必要がある。予定を決める際、兄の統治は何か言いたそうにしていたが、結局何も言わないまま。言いたいことがあるならはっきり言ってくれればいいのに……統治はそういうところがある。
そう、心愛が水族館を指定したのには……ちょっとした理由があった。
時は戻り、金曜日の18時過ぎ。
「なるほど。デートやね」
「ち、ちちちち違うわよケッカ!! 変なこと言わないでよねっ!! 心愛、仕事があるのっ!!」
一人で納得するユカに心愛の大声が重なる。その言葉を聞いた蓮(政宗)が、「ああ」と何かを思い出したように口を開いた。
「そうだ。日曜日の朝イチで、心愛ちゃんは水族館近くで1件仕事だね」
「そ、そうよ……ですよ!! さ、佐藤支局長? ま、まで、忘れてたわけじゃないですよね!?」
見た目が蓮の政宗へ向けて疑問符を交えながら言い返す心愛に、彼は「ちゃんと共有スケジュールの中には入れてあるよ」と答えつつ、その視線を、スマホを拾い上げた統治へ向ける。
彼女に仕事を頼んだ水族館は、『名杙』という名前がある程度通用する場所。万が一何かあっても、もみ消すことはできそうだ。
蓮(政宗)は視線で統治にそう伝えると、日曜日の流れを提案する。
「心愛ちゃんの立会いは、予定通りケッカでいく予定だ。あと、万が一『関係縁』が元に戻った時のために、俺も出来るだけ名波君の近くにいようと思ってる。んで、俺が車の運転が出来ないから、統治、日曜日の運転手を頼んでいいか?」
「……分かった」
統治は相変わらず釈然としない表情で頷きつつ、その視線を、いたたまれない様子の政宗(蓮)へ向ける。そして。
「……名波君」
「な、何でしょうか?」
統治の改まった物言いに、政宗(蓮)は思わず萎縮して眉をひそめる。
全員の注目を集めている統治は、必死に、それはもう必死に言葉を選びつつ……。
「……こ、心愛が……」
「……心愛さんが……何でしょうか?」
「心愛が……その……補導されないように節度ある対応をして欲しい」
「はぁっ!?」
と、大声を上げたのは心愛本人だ。
「お兄様何言ってるのよ!! 心愛のこと何だと思ってんの!?」
「か、仮にも立ち姿は佐藤のままだろう!? 未成年者略取として目をつけられる可能性も決してゼロではないと思って……!!」
刹那、思わず事故に巻き込まれた蓮(政宗)が、聞き捨てならないと言わんばかりの声で場に乱入する。
「ちょいマテ統治!! お前、俺の外見が中学生を誑かすような不審者だって言いたいのか!?」
「いや、そういうわけでは……」
「じゃあどういうわけだよ!! 俺も心愛ちゃんのお兄ちゃんでーす、とかいう設定でいいだろうが!!」
「いや、それはちょっと……」
「何でだよ!!」
……どうしてこうなった。
ユカはすっかり混乱した場を諫めるべく、ため息をとともに声を張り上げる。
「あーもーとにかく!! えっと、心愛ちゃんの仕事は朝9時半からやったよね? それが終わったら名波君と水族館で遊ぶ、あたしと政宗と統治はそれを楽しくウォッチングする!! これでよか!!」
「だからケッカ!! ウォッチングが余計なのよ!!」
……なんてやり取りを経て、心愛は週末、水族館に行くこととなった。
今回の『縁切り』を行う『遺痕』については、既に『生前調書』を確認済みだ。対象は、近くの道路で交通事故により亡くなった女子高生。役1年前、クラスメイトと仙台港付近のアウトレットに買い物に来た際、飲酒運転の車に跳ね飛ばされたとのこと。
現場付近では横断歩道を渡ろうとすると足が重くなったり、息苦しくなったりして、歩行者が時間内に渡りきれずに車との接触事故が発生しているという。この件を心愛が任され、ユカが見守ることになっている。
『縁故』としての経験を積むことを決めて、半年が経過した。最初は何も出来なかったけれど、段々、出来ないことが出来るようになって。
そういえば、4月、彼のことをまだ女性だと信じて疑わなかった頃、一緒に『縁切り』へ向かったことがあった。その時は直前で尻込みしてしまい、結局、ユカが対処したけれど……。
見てもらえるだろうか。
半年で、自分がどこまで出来るようになったのか。
もう、あの頃とは違うと……証明出来るだろうか。
体が、硬直して。
心がキュッと、縮み上がる。
――締め付けられた時の苦しさ、絶望感……全て、忘却出来るわけではない。
怖くない、そう思っていたはずなのに。
やはりまだ慣れないことも、紛れもない事実。
だから、『彼ら』の目の前で頑張ることができれば、きっと――
「……心愛だって出来るもん」
『誰か』を否定するために呟いた言葉は、書類を揃える音でかき消した。
そして、折角ならば楽しもうと気持ちを切り替えたいけれど……どこをどう楽しめばいいのか、さっぱりだ。
そもそも、自分が指定した場所で蓮は本当に良かったのだろうか? 彼はどうすれば……満足してくれる?
分からない、そんな気持ちばかりが積み重なっていく。
「何なのよ、もう……」
「名杙さん?」
「っ!?」
突然至近距離で聞こえた声に、心愛は慌てて我に返る。そして、いつの間にか自分の隣りにいた倫子に気づき、反射的に目を見開いた。
「あ、阿部会長っ!? す、すいません、ちゃんと仕事はしてますっ……!!」
「驚かせてしまってごめんなさい。名杙さん、体調でも悪いのかと思って……大丈夫?」
「だ、大丈夫です!! 大丈夫、で……」
大丈夫、連続でそう言いそうになった彼女は、開いた口で苦笑いを漏らす。そして、静かに頭を振った。
こんな気持ちのままで明日を迎えてしまったら……それこそ、どんな表情で隣に立てばいいのか分からない。
「……体調は問題ないんですけど、ちょっと、考えがまとまらないことがあって……」
「そうだったのね。私で良ければ話を聞くことくらいは出来るけれど……どうかしら?」
そう言って心愛を覗き込む倫子に、心愛は少し思案した後……。
「阿部会長は、水族館に男の人と2人で行ったら……何をしますか?」
「え!? えぇっと……そ、そうね……す、水族館はあの、仙台港の水族館でいいのかしら?」
全くもって予想外すぎた質問に、倫子がうろたえつつ確認すると、心愛が静かにコクリと頷いたから。
倫子は己の中にある知識を総動員して、こんな提案をする。
「そ、そうね……相手の方との関係性にもよるけれど、身内ではない男性だったら……とりあえず館内を散策しつつ、時間ごとのイベントに参加するかもしれないわ」
「イベント……?」
「あの水族館はイルカショー以外にも、ペンギンへの餌やり体験とか、水族館の裏側を案内してくれるツアーとか、その日によって色々なイベントを行っていたと思うの。有料のイベントもあったけれど、館内を見て回るだけよりも思い出として残るし、その後の会話も続きやすくなるんじゃないかしら」
「なるほど……!!」
「こ、こんな答えで良かったかしら。というか名杙さん、明日……」
「そうなんです。実は、1ヶ月遅れの誕生日プレゼントは何がいいかって聞かれて、咄嗟に思いついたのが水族館だったんですけど……何も考えずに言ってしまったので、どうしようかなって。ありがとうございます」
「そうだったのね。そういえば……水族館の近くで最近、歩行者の事故が多いらしいの。名杙さん達も気をつけてね」
「分かりました。すいません、こんなこと聞いちゃって……」
「いいのよ。明日のデートが楽しい時間になるといいわね」
「でっ!? ち、違いますそんなんじゃないですっ!!」
慌てて釈明する心愛に、倫子がウフフと穏やかな笑みを浮かべていると……扉の向こうから、複数の足音が近づいてきた。音と声で正体を察した倫子が、「さてと」と息を吐いて場を仕切り直す。
「じゃあ、今日の活動をしっかり終わらせて、名杙さんが心置きなくデートを楽しめるようにしないといけないわね」
「だ、だから違いますって!! 心愛と名波君はそんなんじゃ……!!」
「あら、お相手は名波さんだったの。週明けの報告を楽しみにしているわね」
「阿部会長!!」
心愛が大きな声で倫子を諌めた次の瞬間、事務室から帰還した勝利達が扉を開いた。