エピソード2:Friday/キミの戦場①
翌日、金曜日の朝6時。
普段よりも少し早めに起床した蓮(政宗)は、布団から体を起こすと……見慣れているはずのリビングを見渡した後、反射的に自身の顎に手を添えた。そして、思わず失笑してしまう。
あると思っていたものがないこと、同時に、少年へ対処法を伝え忘れていたことに気付いたからだ。
「やっべ、蓮君にひげの剃り方とか教えてねぇ……目立つようならマスクをするよう、後でメールしとくか……」
朝の手入れが不要な顎を何度となく確認しつつ、登校完了までの時間がよめないので早めに用意を始めることにした。学校の始業は8時25分、仁義とは8時に地下鉄の最寄り駅で待ち合わせだ。場所は分かっているが、遅刻するわけにはいかない。
とりあえず眼鏡をかけて視界を確保すると、布団一式を三つ折りにして部屋の隅に追いやり、ダイニングテーブルの方へ移動した。そして、椅子に置いてあるボストンバックから、大きなジップロックに入った着替え一式を取り出す。これは昨日、政宗(蓮)が、曜日ごとにセットで用意してくれたものだ。「僕のセンスが変わったと思われたくないんで」と、ぶつくさ言いながら。正直ありがたい。
中身を取り出して机上に並べてみれば、いつもとサイズ感の違う服装がズラリ。
「しかし蓮君、成長期にしては細すぎないか? まぁ、仕事もデスクワークばっかりだからなぁ……運動器具買うか……? いや、でも、急に筋肉がついたら片倉さんとの整合性が……」
見慣れない体の全体的な線の細さに驚愕しつつ、独り言と共にパジャマを脱いで襟付きのシャツに腕を通していると……廊下へ続く扉の方に、人の気配を感じた。
今、同じ空間にいる人物、それは――
「ケッカ?」
「うぇぇっ!? あ……」
刹那、扉の向こうのユカが素っ頓狂極まりない声を上げた。予想外の反応に蓮(政宗)が首をかしげていると、咳払いをした彼女がこちらへ問いかける。
「お、おはよう政宗。入ってもよか?」
「あー……悪い。今着替えてるんだ。あと5分くらい待っててくれないか? 終わったら声かけるよ」
「わ、分かった」
素直に遠ざかっていく足音。蓮(政宗)は、どうしてユカが動揺しているのか首をかしげつつ……気を取り直して手早く着替えを終わらせる。
ユカに、他の男のあられもない姿など、絶対に見せたくないのだから。
着替えを終えた蓮(政宗)に呼ばれたユカは、協力して朝食の用意を終わらせた。
朝食は、昨日のうちに購入しておいた惣菜パンと、いつも飲んでいるインスタントドリップのブラックコーヒー。
いつもの位置に香り立つカップを置いて、それぞれに選んだパン――ユカはハムサンドイッチ、蓮(政宗)はコロッケサンドとハンバーガー――を並べて。
そして、いつも通り、2人、向かい合って朝食を食べる。
……の、だが、やはり見た目が根本的に違うことで、謎の緊張感があった。
目の前にいるのは、外見こそ名波蓮なのだが、中身は佐藤政宗。ユカがよく知る人物のはずだ。
分かっている。分かっているけれど。
「あ、あのさ、政宗……」
「ん? どうした?」
口調は、仕草は、いつもの政宗なのに。
「そ、その……テスト、何とかなりそうなん?」
声が、見た目が、五感で感じる全ての情報が。
「ああ、多分。地理は俺も高校でとってたから。蓮君のノートも分かりやすくて、満点……は、難しいかもしれないけど、クラス平均くらいは取れると思う」
「そ、そっか……さ、さっすがぁ……」
ユカに、目の前の人物は『名波蓮』だと知覚させてしまう。
そのたびに打ち消しているけれど、脳内ではどうしても、すんなり納得してくれなくて。
正解だけと不正解、そんな違和感が募り続けていた。
自分を落ち着かせるために飲んだブラックコーヒーは、いつも以上に苦く感じる。
湯気を吹き飛ばす勢いで息を吐いたユカに、蓮(政宗)が、眼鏡越しに心配そうな眼差しを向けた。
「ケッカ、大丈夫か? どこか調子が悪いんじゃ……」
「へっ!? あ、いや、全然そんなんじゃなかけんが!! ちょ、ちょっと調子が狂って……」
「調子が狂う?」
「何と言うか……目の前におるの、見た目とか声とか全部名波君やけんが……脳が政宗だと思ってその声を聴くと、脳がバグるっていうか……」
「……ああ、確かに」
動揺の理由を察した蓮(政宗)は、そんな彼女を見て……口元に笑みを浮かべる。そして、
「じゃあ、これからは丁寧口調で喋った方がいいですか? 山本さん」
「あぁーっ!! ますます脳みそがバグるーっ!!」
頭を抱えるユカに笑いを噛み殺しながら、蓮(政宗)はコーヒーをすすった。そして、普段以上に苦く感じたので顔をしかめつつ……コロッケサンドのゴミを片付け、2つ目を手に取る。
「あのですね、山本さん。先輩から一つ、助言をさせていただきますと」
「だからその口調やめて……って、助言?」
予想外の言葉に、ユカは顔をしかめて首を傾げた。そんな彼女に彼が伝えたいのは、たった1つ。
あの時、『政宗』がもがき苦しんで掴み取った、確固たる答えだ。
「見た目や声が違っても、ここにいる俺が『佐藤政宗』だから。ケッカはそれを信じて欲しい」
姿や声が変わっても、例え、記憶の一部が失われているとしても。
ここにいるのは『山本結果』であり、『佐藤政宗』であること。
この事実を信じ続ければ、きっと――
――そうじゃないわけないだろ? 『山本結果』は一人なんだ。姿が変わっても、記憶が一部あやふやでも……ユカはここにいる1人だけだ。
先月、彼に言われた言葉が胸をよぎる。
あの時、彼の顔は見えなかったけれど、間違いなく……。
「……そういえば、福岡でもそげなこと言いよったね」
博多駅の屋上で言われたことを思い出し、ユカは苦笑いを浮かべた。
そして、あることを確信する。
あの時……ユカの後ろからそう言っていた彼の表情は、きっと、今と同じような優しい笑顔だったのだろう。
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同時刻、塩竈市某所にある名杙本家敷地内にて。
「あれ、佐藤支局長?」
「あ……」
朝一番、縁側に続く大きな窓のカーテンを開けたところで心愛とバッチリ目が合ってしまった政宗(蓮)は、動揺を盛大に顔面に貼り付けたまま固まってしまった。
普段はベランダしか窓がないワンルームに住んでいるので、電気の節約も兼ねて、朝起きて窓のカーテンを開けることが日課になってしまっていた。時間も早いし、そもそもここは滅多に近づかない、名杙でも辺鄙な場所だ。
窓ガラスという物理的な遮蔽物があるので、こちらの声ははっきりと届いていないはず。ただ、ここで変に口を開けばボロが出ると過去の経験と直感から悟った政宗(蓮)は、寝起きの頭をフル回転させて……営業中の政宗(本人)の表情を必死に必死に思い出すと、光ファイバーより高速に顔面へとインストールする。
その、政宗としては満点の笑顔で軽く会釈をすると、心愛もペコリと頭を下げてその場から立ち去った。その手にごみ袋のようなものを持っていたので、家族から用足しを頼まれていた途中だろう。本人に確認することは出来ないけれど。
心愛がいなくなったことを確認した政宗(蓮)は、静かにカーテンを閉めると、部屋の電気をつけた。そして、スマートフォンの電源を入れると……この秘密をしっているメンバーにあてて、指示を仰ぐ。
『心愛さんに見つかりました。まだバレていないと思いますが、どうすればいいですか?』
とりあえず疑問はぶん投げた。まもなく統治が朝食を持ってきてくれるはずなので、詳しい作戦会議はその時でいいだろう。
「着替える前に顔でも洗おうかな……」
いつもより重たい体と、少し苦手な低い声。予想以上の気だるさと共に立ち上がり、政宗(蓮)は洗面台を目指す。
そして、鏡に映る姿にため息をついて……蛇口をひねる。
心愛を見て、思い出してしまった。
もしも政宗だったら、こんなことでは悩まないのだろうけど。
名波蓮は、あの日からずっと――
「……いい加減、何とかしないとな……」
ひとりごちった言葉は、蛇口からの水音にかき消される。
分かってはいたけれど……長い一日になりそうだ。
「心愛のことだが」
その後、着替えを含めた身支度を終わらせた政宗(蓮)のところに、統治が二人分の朝食を持ってやってきた。
聞けば、統治もここで一緒に食べるのだという。監視されている気もするが、作戦会議をする時間が持てるのはありがたい。
統治が持参した四角い重箱に入っていたのは、おにぎりと卵焼き、焼鯖。保温マグには味噌汁も入っている。茶筒と急須、ティファール的なポットまであるので、お茶はこの場で入れるつもりらしい。正直、いつもの蓮ならば朝食はパンやシリアルなどで済ませてしまうのだが、政宗の体を維持するために、どれだけのエネルギーが必要なのかさっぱり分からない。現に今は空腹なので、とりあえず、食欲が満たされるまで食べることにした。
向い合せの位置に座っている統治は、先程のメールで既に朝のトラブルを把握している。ポットのコンセントをさして、テキパキとテーブルをセッティングしながら、彼は政宗(蓮)へ今後の方針を伝えた。
「心愛には後ほど、事実を話そうと思う」
それは、実にあっさりと告げられた今後の方針だった。内心予想外だった彼は、紙皿を受け取りながら聞き返す。
「いいんですか?」
「隠し通せるに越したことはないが、万が一バレてしまった場合の方が厄介事になりそうだ。このトラブルが今日中に解決する確証もないし、未解決の場合は今晩もここで過ごすことになる。心愛は山本が月末に佐藤の部屋へ引っ越すことを知っているから、この週末に佐藤がここにいることに対して、疑問を抱く可能性が高いんだ」
「そうですか……山本さん引っ越しをするんですね。じゃああの部屋は……」
ユカが住んでいる部屋は、『仙台支局』が社宅的な位置づけで借り上げているウィークリーマンションだ。値引き率を上げるために半年か年単位で家賃を払っていたのでは、と、事務的な疑問が脳裏をかすめるが……彼は頭を振って息を吐いた。それは今日、必要な書類を閲覧して確認すればいい。おそらく、時間はたっぷりあるはずだ。
統治が「部屋?」と首を傾げるので、「後ほど事務所で確認します」とこの話を終わらせた政宗(蓮)は、改めて、今日の動き方を確認する。
「では、心愛さんにはいつ伝えますか?」
「今日の放課後、『仙台支局』に来るよう伝えてある。その時に話をするつもりだ。タイミングを見て声をかける」
「分かりました」
この件に関しては全てイエスマンになるしかない。『縁故』ではない蓮にはどうすることも出来ないのだ。
……いや、今の体は政宗なのだから、もしかして……。
ふって湧いた疑問に、もう一度頭を振る。そして、統治からお茶を受け取った後、重箱に並ぶおにぎりを見落とした。
そういえば1つ、聞き忘れていたことがある。
「佐藤支局長に食物アレルギーはありますか?」
蓮の問いかけに、統治は手を止めて軽く目を開いた。そして、しばし考え込み……。
「聞いたことがないので特に気にする必要はないと思う。律儀だな」
「それで人が死ぬところ見てるんで……流石に」
そう言って目を伏せる政宗(蓮)に、統治は思わず目を開き、自身の実態を悟った。
これは本来、大人であり名杙本家の人間である自分が、真っ先に確認しなければならなかったことだ。
つい2ヶ月前、アレルギーが原因で人が死ぬところを……彼は、目の当たりにしているのだから。
「そこまで気を回せずに申し訳ない。俺の知る限り、佐藤にアレルギーの傾向はなかったはずだ。後で本人も念のために確認しておくが……名波君の体は問題ないだろうか」
「あ、僕も大丈夫です。ただ、朝から揚げ物だと胃がもたれるかもしれませんが……」
「流石にそれはないだろう。そういえば、佐藤は仕事前にコーヒーを飲むと頭がスッキリすると言っていた。抵抗がなければ試してみてくれ」
「分かりました」
政宗(蓮)はコクリと頷いた後、おにぎりを1つと玉切焼きを1つ取り出した。
そして、静かに眼前で手を合わせると、一言。
「いただきます」
食べる時に挨拶をする、これは、大切な人の真似。
無駄のない所作で朝食を食べ始める政宗(蓮)にならい、統治も手を動かし始める。
「あ……名杙さんすいません、洗面台のT字カミソリとリムーバー、お借りしました」
「カミソリ……ああ、問題ない。しかし……その、短時間で手際がいいんだな」
「片倉華蓮にヒゲはありませんから」
「……そうか」
言外に「女装に必要な技術だから手際が良いのはお前らのせいだ」という嫌味をにじませる政宗(蓮)に、統治は最低限度の返事で味噌汁をすすった。