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I.E.whatever  作者: 星野明滅
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I.E.CREATE

 硝子細工は音を立て砕けた。チカチカと破片が光を反射し、そこかしこに虹色を落とす。それは、誰が見るもひたすらに美しい光景だった。

 世界が終わる時も、例えばこんな景色だったら嬉しいと思う。ふと湧き上がった最初の感想は、そんな的外れなものだった。終末思想だとか、破滅志向だとか、頭の片隅で馬鹿にする声も確かにあるのだ。事実、世界の終焉なんてものに一世紀そこらの短い時間を生きる俺達が遭遇する確率は非常に低い。もちろん、明日突然起こることかもしれないし、案外既に終わっていたのかもしれないが、地球が崩壊したり、人類が滅亡したりするなんていうのは冷静に考えてまだもう少し先だ。そう考えるのが普通だろう。

 砕けて崩壊した球体の破片をもう一度見やる。無生物の質感は失われ、それが持ち合わせている光の微生物の紛い物が息づく。これは確か、大学時代に研究で扱った神核の抜け殻の一つだったか。

 神様なんてものは本当にそこかしこにいる。彼ら彼女らは俺達人間の目の前に現れては、不作法に無遠慮に非道徳に全てを奪った上で守護する。肌で触れ合うこと、視認することのできる、超常的な能力を駆使する人ならざる生物、それらを神と呼ぶのだ。

「本日のニュースです。京都府祇園を中心に全国的な宴が主要都市で開かれました。その土地の有力な神々による催しや巫女による……」

 十四インチのタブレット・パソコンからニュース原稿を読む女性アナウンサーの声がする。ぼんやりと耳を傾けると、ああそうか、今日が八月三日なのを思い出した。一年に一度開かれる神々の宴に一般市民も参加し、騒ぎ立てる一日だ。画面を眺めていると、屈強な男性達に担がれた神輿に乗る神が次々に映し出される。満面の笑みを浮かべ、カメラにピースをする小太りの男体の神は九州のミモチ、黒髪を櫛で梳かし微笑んでいる女体の神は北陸のククリだ。彼らはみな土着の神で、何十年も前からその土地で信仰され続けている。神の血液は信仰で、人の上に立つ神は人々の信仰心ではじめて生きることができる。人に迎合しなければ、その神核が崩壊し、いずれ消し炭になって災いをもたらす――これが近年学会で主流になっている説だった。

 足元に散らばったままの破片を、大きいものを選んで集める。集めたものはプラスチックの容器に詰めた。なんてことはない、この行為に何も意味はないのだ。あるとすれば、硝子細工のように繊細で美しいものが、神々の命である神核そのものであるのだから保管をしておきたいと思ったからだろう。

 残りの小さな破片も手に収まる小さな箒で塵取に集めていく。丁寧に、漏れのないようにしっかりと掃ききったなら、それはごみ箱へと捨てた。埃もまじり煤っぽくなってしまったのは残念だ。

『いつもあなたのすぐそばに。神はいついかなる時もあなたを護ります』

 番組は一旦終わったのか、コマーシャルが始まった。一時間に一度は流れる神学協会のそれは、もう流石に飽きがくる。世界には先ほど映像に映っていた神の百倍はいると言われ、それぞれに多かれ少なかれ信仰心を持つ人間がつく。特定の神を礼賛し、その神の恩寵を受けた土地である神域に住まう。そうではない人間は、ほとんど身元不明か、人ならざる者だと世間では騒がれてしまう。

『無神論者は病気の疑いがあります! 至急、最寄りの神学協会へ!』

 無神論者は地球の癌らしい。争いを加速させ、神を憎む悪魔だそうだ。神学協会はその名の通り神学を志す五万人の学生と八千人の研究者から成り立つ利権団体だ。神に最も近く、最も資金力のある彼らは世界中のメディアや市場に参入している。

「午後一時三十分となりました。ここで今週の天気をおさらいしましょう。明日の天気は一日中快晴が続き、夜には美しい星空が……」

 言えもしない暗い感情の波が襲ってきて、思わずタブレットの画面を消した。嬉々として原稿を読むアナウンサーも、コマーシャルも、壊れた御神体も、依頼の来ない我が研究室も、すべてすべてが俺の将来への不安を増幅させるに過ぎなかった。

 明日の無い身だ。神名学を日夜研究しているだけのしがない学者である。高校生から始まった名付け屋生活も、二年前からようやく独り立ちでき、思いの外好調で、収入も安定しはじめたところだ。

 名付け屋の主な仕事は「名を忘れた神にその名を思い出させること」にある。神は名を簡単に手放す。その原因は様々で、信仰心のある人間が極端に減ったりだとか、神々の命である神核を壊されたりだとか、とにかく外的なものがほとんどだ。そのため、こちらからそれに対する手伝いをすることで神は名を思い出すことができる。人間による神のためのささやかな医療行為、それが名付け。

 それにしても、依頼が先週からめっきりとなくなってしまった。生活に困ることはないが、研究が進まないのは難点だ。より正確で、より信憑性の高い結果を導くには試行回数が一定以上なければならない。

 俺の父は神を救うことが人間を守ることに繋がると信じていたし、それは死ぬまで変わらなかった。いつも神学研究の傍ら神のために、人のために、東奔西走していたと聞く。そんな父を、俺は信じているし、尊敬している。

 特別俺が神を信じたり愛したりしなくても、この仕事を続けていこうと思える理由はそこにあった。父を単に尊敬しているのである。

「神なんて救わなきゃいいじゃねえカ、その砕けた神核だっテ、ゴミ同然だゼェ?」

「……ザガン」

 黒いスーツを着た男の横槍だ。二人掛けのソファの片方が沈んだと思えば、俺の身体に取りついた悪神が実体化した。

 彼の名前はザガン。真っ当な神の道から外れたならず者だ。神の生命維持には人間の信仰心と記憶が頼りになるが、こいつのような悪い神は違う方法で生きている。

「神って生き物が死ぬとキ、名前が無くなるだけなんダ」

「でも、なぁ……」

「親父ガ、っていうんだロ? どうセ、神を知れば知るほど嫌いになル。今のうちにやめとけヨ。競馬やカジノ、麻雀とかヨ。やればいいんダ、好きなだケ。」

 なぜ、俺はこいつと共に生きているのか。それは、数十年前のある冬の日に遡るが、時間があるときにでも話したい。端的に述べると、利害の一致だ。俺は神への単純な好奇心を、ザガンは俺の寿命を、互いに物々交換しているのである。紆余曲折あってこの悪神は他人に危害を加えないし、良い話し相手になっている。一時期、全く口を聞かなかったこともあるし、高校生の時はよく意見の違いで衝突したものだ。

「博打は苦手だ。損したくないから」

「臆病者」

 臆病じゃないなら、俺はきっとここにいない。郊外に家を持ち、人や神から隠れながら生活し、自分に興味がいかないように害のない弱った神だけを相手にして、この世の派閥争いには参加しないようにしている。面倒だし、命の危険がある。大抵一世紀も生きられない人間が、穏やかに生きようとして何が悪い。それが俺の幸福なのだから。

「あーア、お前、不死身になレ」

「無茶言え」

「そうすりャ、俺様、悠々自適に暮らせるのニ」

「それはそれは。難儀な話だ」

「人間なんていなけりゃいいんダ、頼らなくて済ム」

「何かを得るには何かを失わなければいけない。お前たちが生きるために、人間の存在は不可欠で、人間が生きるためには、食物がなければいけない。そして食物には……って、有限のサイクルがだな」

「つまリ?」

「つべこべ言ってないで部屋の掃除、洗濯、庭の手入れをしろ。こっち命で支払ってんだ。役に立て、悪神」

「平和主義なこっテ!」

 俺様嫌いだネ、そーいうノ! などと言いながら、黒い霧を立てて空気に溶けた。黒いスーツ姿は見えなくなり、二階からどたばたと物音がし始めた。しっかり掃除をしているようだ。ザガンのことだから、魔法の力でぱぱっと整理整頓、箒や雑巾がけができるはずなのだが、最近は人間のように手で行うことが増えたように思う。生活に飽きたのだろう。

 まどろみが暖かくて、俺はふと全てがどうでもいい気分になった。人の上には神がいて、彼らは俺たちを管理して生きている。

俺には大それた研究理念はない。父の背中を追いかけてここまで来た。神々に媚び諂い、情報を貰い、研究してきた。そんなことに何か意味はあるのだろうか。俺はザガンのように自由に生きて、神なんか半ば忘れたほうが幸せになれるのではないか。

そもそも神ってなんだ。誰がそんな名前をつけた。下等な人と同じ形状をした知能もさほど変わらない生物に人間が支配されているんだ。思えば生まれてこの方、情報量が極端に少ない社会の中で育った。大学に入っても、数千冊の本と数千の論文だけで一体なにが学べた? 人類史は体系化されているのに、神の歴史は体系化されていない?

「……考えても無意味、」

涙が出る話だ。いつも人は不条理の中で生きている。己の実存を認められないのに、社会の中で立ち位置を求めてしまう。

「掃除終わったゼ! そういヤァ、お前の部屋にこんなのあったけどいいのカ?」

「? なんだ?」

「シンセイ祭だト」

「あ」

 完っ全に忘れていた! ニュースでもやっていた八月三日の祭典は、俺の地域でも一応行われる。ザガンから手渡された無色透明の細長い棒には、『2024/8/3 神政祭 17時開催』と金色の文字が刻まれていた。十五センチほどのそれは、その神域内に住む人々に参加証明として配られたものだ。これを持って祭りに参加しなければ、住民権を取り上げられることもある。俺みたいに不安定で所帯を持たない男は、強制参加だ。

「ザガン、祭りに行くぞ。準備しろ」

「はー、ヤだネ! あのクソ女神に会うとか血反吐もんダ!」

「安心しろ、お前のほうが強い。凄い。あと、えーと、……偉い!」

「よぉシ! そこまで言うなら仕方ねえナ! 行ってやるゼ!」

 ちょろいという言葉はこういう時に使うのだろう。ザガンは褒められたり好かれたりするのに慣れていないタイプだから、愛されてなんぼの神様業は合わなかったのではないか。そうだとしたら面白い。

 ザガンの姿が黒い霧になって、俺の右手の甲に集まり、印を作った。黒い単眼のシルエットが完全に手に定着した。ザガンは身体を霧にして、ボディペイントのように俺の身体に貼りつくことができる。便利すぎる能力だと思う。……印化したということは、今回の祭りには偵察だけ行く気でいるのだろう。

 それでもいい。友人や親族は遠く離れた場所にいる今、心細い生活を埋める話し相手の存在は自然な精神療法だ。

 腕時計を見て、ああ今出発すれば丁度午後の二時半には到着するはずだ。ダイニングテーブルの椅子にかけてあったジャケットをとり、財布を左胸の内ポケットに、その表にはネイビーのハンカチを、連絡手段である携帯電話も忘れない。

 窓が施錠済みなことを確認したら、玄関に向かう。玄関には壁に収納可能な姿見があり、そこで見た目のチェックも済ませてしまおう。

 ブラウンで統一したジャケットとベスト、パンツはほんのり薄い水色のシャツに映えたし、ネクタイは深緑だ。靴下は無難に黒を合わせ、革靴はもちろん茶色。俺の最近の流行りだった。

 髪の毛のハネがないか、髭の剃り残しはないかなどの身だしなみを見て、このまま外に出れると決まればあとは早い。ウォールラックのフックに掛けられた鍵を一すくいし、扉を開け外へ出た。外はまだ日照りが強く、これならジャケットも必要なさそうだ。しかし、夜は冷えるから念のため持っていくことにした。

 家のすぐ真正面にはコンクリート打ちされただけの簡易的な駐車場があるが、俺の愛車もそこに停まっている。『消えない輝き』をコンセプトにしたunFADE社のU〇〇一―S型は、燃費、性能ともに抜群だ。車の鍵を開け、運転席に入る。流れ作業でブレーキを踏み、エンジンをかけ、ドライブにして発進した。ここから会場である公神館までざっと一時間はかかるのだ。

 八月の初週だというのに、外気温は二十八℃を指しており、比較的今年は涼しい夏のようだ。日光を直接浴びる運転席にいると汗はどうしても出るため、車内のクーラーはつけなければいけないが、着替えが必要なほどでもない。

 日が暮れかかるころには、儀式も始まり、夜二十一時までには帰してもらえるだろう。俺は車に内蔵されたタブレット・パソコンで音楽をかけ、無心を決め込んだ。

 それから、会場に漸く着いた頃には三時になっていた。それもこれも、道中の渋滞のせいだ。この神域内だけで数万人の住民が一か所に集まるのだから無理もない。

 俺は早速、入場案内所へ足を運んだ。棒状の参加証明を係員に見せ、印字された文字の色を抜くのだ。具体的にどう抜くかというと、係員が正方形の箱の中に棒を見えないように置き、数秒待つのである。すると、再び箱から出した棒からは文字は消え、単なる透明な棒になるというわけだ。この謎の装置については解明されておらず、……というより調査は禁忌とされているため、まったくその全貌は明かされていない。

 もやもやとした疑問は残るが、俺はとりあえず入場検査を無事に終え、場内に入ることができた。公神館と言っても、何か巨大な建物があるわけではなく、移動式の屋外会場だ。屋根はないし、床もない。唯一あるのは土地神から許可を受けた露店と休憩スペースだけ。さらに、会場の中央部分には高さ五十mはあるだろう、白と青の塔一つ。

 異様な光景ではない、正常な光景だ。生まれてすぐに毎年八月三日に行われるこの全国的な祭典に出席させられ、疑うことなく参加するのだ。

 いよいよ溜息が出そうだったが、俺はとりあえず会場の端の端まで行き、なんとかベンチに座り込んだ。人が多すぎて気分が悪くなりそうだった。

 夏の暑さを感じさせないのは、この公神館が避暑地と呼ばれる場所にあるのと同時に、この土地の守護神の存在が考えられる。俺の住むここの神域内を統括する神の名をヨツユ。水の神様として崇められ、天候や水害を意のままに操るのだ。

「鍛冶場さんっ、お久しぶりです。なつめです、覚えていますか?」

 よく手入れされた日本人形のような黒く長い髪を揺らし、ローズピンクの口紅と、クロッカス色の大きな瞳を携えた女性に声をかけられた。落ち着いていて儚い声調だ。俺は彼女を知っている。青白い血管が今にも太陽によって溶けてしまいそうなこの女性を。

「ああ、勿論です。昨年はお世話になりました」

「いっ、いいぇえ! 鍛冶場さんも元気そうでなによりですっ」

 にこりと笑っても表情筋があまり動かない彼女は、水原棗みはらなつめ。ここの神域の主ヨツユの寵児にして、水の祝福を受けた人だ。昨年だけでなく、こちらに引っ越してきた三年前からなにかとお世話になっている。性格は面倒見が良く真面目で、神学に対して非常に勉強熱心な現在二十歳の少女だ。

「今日はお早いご到着なんですねぇ。我がヨツユ様もさぞお喜びになられるでしょう」

 口元の前に両手を出して話すのが癖なようで、今もこうして細い指を口の前で揃えて喋っている。控えめな女性と言えば、彼女のような人を思い浮かぶのではないだろうか。

「それならこちらも早く来た甲斐がある。ヨツユ様の身の回りの御世話はさぞ充実しているんだろう」

「そっ、そうですねっ! ヨツユ様はいつもお美しくて、私がお隣にいて良いのかと寿命が縮む思いです……それに、最近は不埒な噂も聞きますし」

「不埒な?」

 棗さんが唇を少し噛みながら、眉を寄せている。血が出そうなほどに嚙み締められた唇の赤は、だんだんと白くなり始めていた。しかし、目にはこれっぽっちの感情も見られない。ただ、その言動と口調だけで怒っているのが分かるのみだ。

「ええっ、ヨツユ様の命を狙う不届きものがいるそうでしてっ……私っ、ヨツユ様がこの世から消えてしまったら鬼になって世界を滅ぼす予定ですっ……!」

「気が早いな……」

 ヒステリックな声でも、声量は小さい。これでも彼女の精一杯なのだろう。

 ヨツユは健在だ。そんな命を狙われているとしても、大方神の魔法とやらでその相手を斬首刑に処すことだろう。

「でも、ヨツユ様と出会って私は感情というものを知りました。彼女がいなかった以前の私なんて、今ではもう思い出せませんもんっ」

 そう言った彼女の表情はなにも変わっていなかった。口元も、目尻も、ほんのわずかに微笑むだけで、澄みきった冬の小川のような空気感だ。

「棗様~、ヨツユ様がお呼びです」

 ヨツユの使いの者が、彼女の名前を呼び、こちらに手を振っている。流石はヨツユが最も愛しているとされる寵児だ。

「今行きますっ! ……っと、今思い出したっ、鍛冶場さん、今日はザガン様はいらっしゃいますか?」

「あ、ああ」

「謁見の義務がありますので、一緒に塔までご一緒しましょう?」

 ヨツユはザガンが嫌いだ。だからなのか、俺が来るたびにわざわざヨツユの元にまで呼び寄せ、小言やペナルティを言い渡すのである。

 右手の甲が途端にずきずき痛み出した。ザガンのやつ、嫌だからって俺の皮膚を荒らす必要ないだろうに。

 ここは渋々ついていくしかない。神には逆らわないほうがいいのだ。

 ここから塔に行くまでにおよそ一〇分はかかることだろう。公神館の端の端にいるのだ。無理もない。人混みの中、棗さんを見失わないようについていった。




 暗闇の中を走り続け、時には身を隠し、涙を流しながらも息をした。その少年はただ我武者羅にたったの二日を生きた。食料は適当なところから盗み出し、何者かも知らない人間たちから逃げ惑った。そして、最後に行き着いたのは、ヨツユの公神館だった。

 その少年の髪も目も、服装すら漆黒で統一されていた。短く切り揃えられた髪は、本来の艶やかさを失くし、ぼさついている

 その少年の脳内は、いつも穏やかなさざ波がたっていた。その波は行き着く陸を失くし、ただ凪いでいるだけだ。

 少年は年齢も、生まれも育ちも、名前と言語以外のあらゆる情報が欠落していた。頭の中で常にぐるぐると回るのは、コガネという単純な名前だ。

 気づくと少年、いや、コガネは公神館の巨大な塔に辿り着いていた。人と人の間を縫って、無理矢理人混みを切り抜けたのだ。追手はいないようで、コガネは安心してその謎の塔へと入り込んだ。正面から突入するのは流石に馬鹿げていることは理解していたため、塔の一番低い小窓から侵入する。

 公神館は、信者を持つ神々が信者との交流を行うための移動式施設を指す。公神館の中心部にはその神の象徴たる建物が置かれ、ヨツユの場合は青と白の美しい塔だった。この塔は神の居住地ともされ、普段は空や山頂、深海や地中に隠されている。そのため、地上に普通の建物として顕現する際は強力な警備がなされているわけである。……が、今回の塔はそれを逆手にとり、ヨツユを殺そうとしている謎の刺客を捕まえてやろうとたった一つだけ窓を開けたのだ。それが、先ほどコガネが侵入した小窓だった。

厳重なセキュリティはもちろん水面下で反応し、異端の来訪者を追撃しろと辺りの親衛隊員らに連絡を入れる。次第に拳銃やナイフを隠し持った親衛隊員らが駆け付け、集まっていく。そんなことも知らないコガネは、薄暗い塔の物置部屋の小さな穴に身体を通していた。煤や埃のような湿っぽい空気はなく、清流の如く澄んだ空気が上方から流れている。神の居住地に不浄はご法度だ。その穴の壁にはご丁寧に打ち付けられた梯子が用意されているではないか。コガネはその金属製の梯子に手をかけると、息を飲んでゆっくり上へと向かった。

その穴は真っ直ぐ、時にくねりながらヨツユの寝室のタンスに繋がっている。その道中に抜け穴はない。このまま進んでしまえば、間違いなくこの少年は殺されてしまう。たとえ、ヨツユという神を殺そうとせずとも、不法侵入者には命をもって罪を償わせなければ気が済まない。

長い長い梯子を通り抜けた先にあるのは死だ。名前だけが確かな少年には、残酷な運命だと言えるだろう。

塔の高さを考えれば、すでに数分上り続けて半分といったところか。コガネはいよいよ飽きて、手の痺れを休ませるために丁度いい窪みへ腰を据えた。その窪みは、コガネくらいの背丈の子が身体を折り畳めば入るほどの大きさで、塔の構造上できてしまうものらしかった。

一息吐きながら、コガネは治療をしてくれたとある科学者から教えられたことをさらった。第一に、神々を疑わないこと。第二に、神々に逆らわないこと。第三に、普通の人間として生きること。この三つが最重要事項だと言っていた。

人の歴史をいつしか乗っ取り、全世界を掌握した神々。魔術や超能力と呼ばれる不可思議な力を操る彼らに、コガネ自身が追われていることも知っていた。

 神を殺す方法なんて知らない。知らないけれど、なんとなくそうしなければいけないような気がした。理論や直感も何もない。無意識下で、神の存在を「おかしなもの」だと思い込んでいた。

 ――しかし、急転直下、コガネの運命は流転した。出会いは常に突拍子もない。


002


 呼ばれるままに塔の中へ入った。なにやら辺りが慌ただしいようで、ヨツユの親衛隊を示す水色のチョーカーをつけた人たちが塔の周りを警備している。

 棗さんの後ろ姿を追っていけば、階段を何十段と上がり、艶のある黒髪の向こうに、銀色の大きな扉が見えた。横幅3m、縦幅5mほどのものだ。調光の良い建物の構造上、その扉はきらきらと輝いている。その扉の前で立ち止まった彼女は、こちらに目配せをやって室内にいるであろうヨツユの耳に入るように言った。

「ヨツユ様、棗です。ろくろさんをお連れしましたっ~!」

 静かに扉が開く。音もなく、重さも感じないその動きで、涼しげな風が吹いた。

 棗さんがすたすたと室内に入り、部屋の右側の隅のほうへ寄った。俺もそれに続いたが、そこで漸く神の姿を見た。

「ご無沙汰しております。ヨツユ様」

 部屋の中央、窓際に近い位置にある玉座。その上にちょこんと座る水色の乙女。太陽の光を受けて黄金に光るアクアブルーのウェーブがかった長い髪を玉座から落とし、白い肌に、綿の白と青のドレスを着ている。ドレスは前面は膝丈、背面は足首ほどの丈で、胸元から足元に向けて青から白へグラデーションが織りなされていた。デザイン自体は非常にシンプルだ。靴は履いておらず、トーリングのついた金のアンクレットをつけている。

「お久しぶりです、鍛冶場ろくろ。まだそんなものを連れているのですね」

 耳に心地の良い声がした。幼少期から聞くそれは慣れたもので、未だ声が濁ることはない。板についた敬語は、神様相手の処世術として身に着けた。

「うるせェ、このクソ女!」

 ……ここに一柱、処世術を知らないバカがいた。俺は思わず、喋る右手のザガンを抓った。俺の皮膚なのだから俺が痛いのは当然として、ザガンも同じように痛みを訴えている。心なしか、瞳の模様から涙を一粒浮かべている。

「すみません、行儀がなっていなくて。……ところでヨツユ様。何かお話でも?」

「ええ。近頃、神殺しが流行っているようでして」

「神殺し?」

 ヨツユは神妙な面持ちで言った。ザガンのことなど、まるで気にかけているないようだ。

 それにしても、「神殺し」とはまた厄介な単語が出てきたものだ。神を殺す方法について、知っている人間はほとんどおらず、それこそ気が狂っていなければ遂行できることではない。

十年以上連れているザガンすら、神の殺し方については一度たりとも口を割ったことはなかった。どうやら、ザガンを殺す方法と、他の神を殺す方法は違っていて、神同士もお互いの弱点を知らないまま生きているらしい。俺の見立てで言えば、神が死んだあとに遺される御神体をどうにか破壊すれば殺せるはずだが、問題はそれがどこに隠されているか、である。

「ここ一週間で八柱が息絶えました。一か月以内によくないことが立て続けに起こるでしょう。……もちろん、私も狙われています」

「なぜ、それを俺に?」

「神学を志す者で、神の生き死にを学ぶ者は少ないですから。それに、あなたと私の仲じゃないですか」

 それは、俺の父との話だろう。ヨツユの相談役として十年以上関わり、窮地を救ったのは父だと聞いた。彼女とこれといったエピソードを持ち合わせていない俺には、雲の上の話だった。常に父と対等に語り合い、その絶対的信頼関係を築いていた目の前の女神を、容易に裏切ることなどできない。だからこそ、ひどく困惑した。

「しかし、」

「いずれ知られることです。神が死ぬとどうなるかお判りでしょう?」

 後ろを向いて、窓の外を眺め始めたヨツユの表情はわからない。わからないが、青色の長い髪がきらりと光った。

 神が人から忘れ去られた時、世の中では災厄が多かれ少なかれ引き起こされる。原理はまだよくわからないが、神の最後の怒りとも一部では語り継がれているのだ。

「神殺しがこのまま公然と行われてしまえば、世界は人類で溢れ、秩序が乱れてしまう。あなたのお力を、お借りしたいのです」

「……俺では力不足だと。」

「自分のことを卑下する癖、あなたの悪いところです」

 こちらをちらりと振り返り、何かを思い出したかのように笑った。瞳の奥に、俺ではない誰か――父だろうか? とにかく、ここにいない誰かを、俺を通して透かし見ているようだ。

 しかし、そんな哀愁はすぐに消えた。緊迫した空気が流れ、真面目な声でこちらを見据えた。次は人を射抜き、磔にするような勢いの鋭い目だ。

「半年以内に、大きな戦争が起こるでしょう」

 神は確定事項しか喋らない。嘘を吐く神は、ザガンのように大衆とのコネクションを切られ、孤立化する。それは、誰が決めているでもない。世界の自明の真理だった。

 ヨツユは神々の中でも素直で情に厚いタイプであるから、十中八九戦争が起こるのだろう。俺が生まれて一度も経験をしたことがない、戦争が始まるというのか。

「神域戦争ですか? 前回は一九三九年だから、……通常の周期よりも早いのでは?」

「ええ。二〇〇年周期でしたからね」

 神域戦争について文献上では、「二百年周期で神々の順位を決める世界大戦」と説明されている。神域を拡大するチャンスであるから、熱狂的信者を中心に陣地取り合戦を本気で行い、最終的に主要六地点を奪取した上位六柱の決定で幕を閉じる。ルールは無用だが、神が主導である以上、今後のことも踏まえて無暗な殺生はしない暗黙の了解がある。……とはいうものの、前回の一九三九年戦争では、一億人近くが戦死し、消えた神は六十二柱と、その被害は甚大である。

「ただ……どうも、神域戦争のように、世界中を巻き込む壮大な戦争には発展しないかもしれません……未だ、前回の戦争の傷は、癒えていませんから」

「それは……。では、どのような戦争が?」

「神殺しを起こしているのは、悲しいことに我が子、人類です。しかも、その背後に強大な神の姿があります」

「つまり、」

「ええ。人と神の戦争が、始まろうとしているのです」



 コガネは悩んでいた。ただ、息を殺してここにいるべきか、はたまたこの塔から出るべきなのか。

 直感が、「ここにいろ」と騒ぐ。コガネには神の記憶などなかったが、信じるものはあった。己の直感だ。獣のように息をして、腹をすかし、睡眠を貪る。このように、生物が求める原初の行動理由こそ、コガネにとっては紛れもない「神様」だった。

 足を長い時間抱え込み、額を膝に押し付けていたせいか、次第に身体中が痛み出す。筋肉へ血液が回らないような気がして、無意識にさっきまで登っていた梯子の空間へ手足を出してしまう。だからといって、煤っぽい場所であることには変わりがなく、心の中で泣きながら、短く息を吐くだけだ。

 この世に神がいるのなら、なぜ自分はこんなところで怖い人から逃げているのか。神は、人を守るんじゃなかったのか。

 だが、名前と言葉以外ろくに覚えていないのだ。この寂しさや孤独は、行き場のない怒りを生むだけで、コガネにとって何一つ良いことはない。

 あとどれくらい、この暗闇で蹲っていればいいのかと自問する。しかし、答えは突如失われた。

 破裂する音と謎の空気が押し上がり、焦げた匂いが鼻腔を擽る。そうかと思えば、白い煙幕と共に、甘く砂っぽい刺激が瞳にまでおよび、咳と涙が止まらなくなる。こんな経験ははじめてで、あまり吸い込んではよくないことはわかっていたが、もうどうにもならなかった。

 息苦しさで霞む脳に突き動かされ、コガネは己の右側にある壁を叩く。叩いても助けが来るわけではないことはわかっても、止められない。この苦しさから逃れるためならば、なんでもしたい。

 何回も何回も、拳の形や強さを変えて壁を叩く。時に拳を握りこんで叩き、時に平手で叩いた。どれだけ力強く叩いても、向こう側から反応はない。しかし、この壁はどうやらどこかの部屋に繋がっているらしい。音が他の壁と違うのだ。

 だいぶ下のほうから微かな振動と足音がする。コガネは体感で、脳裏に追手の姿が浮かんだ。軍人のような格好をしていて、背中に黒い銃を背負った四人。

 早くここから逃げなければと思うものの、壁に阻まれて逃げ道はない。コガネは最早どうにでもなれという気持ちで、身体の向きを変え、靴裏が壁にくるようにした。この狭い抜け道の中だ、銃を撃つにしてもそう自由は効かない。思いっきり壁を蹴り抜くしかない。意を消して頭を少し窪みから出し、両手で踏ん張りながら勢いのまま蹴った。

 鈍い音が鳴り、下にいた追手が焦り始めたらしい。梯子を登る音が速くなった。

「おねがい、っひらけ……!」

 小さな小さな声で言う。壁が言うことを聞くはずがないのに、正気を失ったコガネにはわからないことだった。ひたすらに壁を蹴り、蹴り続ける。焦りで息が詰まり、吐き気を遠くに感じながら、手の汗を握りしめる。

 三回ほど蹴ったところで、四回目に足の感覚が消えた。痛いほどの衝撃が来ていたのに、突然のことで困惑したまま空振りをした。

 途端に目に入ったのは、柔らかな光だった。驚きで呼吸を止めて、必死で眩しさに目を慣らした。急いでも仕方がないのに、身体が順応するよりも前に焦りが駆け抜ける。目を閉じないようにギリギリのところまで瞼を閉じると、どうだ、ぼんやりと二人の男の姿が見える。逆光で見えないが、コガネに殺意や敵意を向けてはいない人。ああ、安心、これが神様か――そこで、コガネの意識は途切れた。


003


「人と神の戦争だなんテ、あのクソ女神もトチ狂ったナ」

「またお前は……」

「でもヨ? 変だロ、たかだか十二情レベルの低辺女神ガ……」

「おい、それ以上言うと刺されるからやめてくれ」

「うィ」

 まったく、この悪神はどこまで自由なんだ。ヨツユの根城で堂々と悪口を披露する魂胆が知れない。下手をすれば水原棗直々に串刺しの刑に処されることだろう。

 ヨツユの名誉のために補足をしておくとすれば、序列十二情の女神は決して低辺ではない。神々の序列構成は、六情という名を冠する六柱の神々を一律頂点とみなし、その下に総勢十二柱の十二情があり、さらにその下に合わせて二十四柱の二十四情、さらにさらに四十八柱の四十八情、九十六情、百九十二情……と、階級が存在する。正確な神の数はわからないが、最低でも三百柱は確認されている。有名な神に隠れているマイナーな神は、密教として公には出さない民間信仰で信者を集めている場合があり、そのすべてを把握することは現状不可能だからだ。

 そんなヨツユも恐れる人と神の戦争など、本当に起きるとは思えない。過去、反旗を翻した人類がこてんぱんに負かされる歴史が残っているから、飼い犬に噛まれた程度の認識でも十分だろうに。

 あの話の後、ヨツユが儀式の最終調整だと信者に駆り出されてしまったがために、詳細は聞けず仕舞いだった。惜しいことだ。彼女に言われるがまま、三階下の客間に向かっているけれど、頭の中は混乱し続けている。心を乱されていては、休まるものも休まるはずがない。どうせ客間に一応入っても、すぐさま外に出るのが旅の鉄則。客間は単なるベースキャンプに過ぎない。

 時間にして数分の道のりだったが、儀式前の公神館はやはり静かだ。俺は予定通り十三と名の付く客間につき、ドアノブを押して中に入る。乳白色を基調とした、コバルトブルーのポイントカラーが印象的な美しい部屋だ。広さで言えば、二十畳はあるだろう。窓からの眺望もよく、明かりがなくても昼間は日の光で生活できそうだ。

「この部屋……なんカ、変な音しねえカ?」

 右手に未だ収まっているザガンの声が、静かな部屋に落ちた。俺にはむしろ、気持ち悪いほど無音のこの部屋が少し怖いくらいなのに。

「? いいや?」

 耳を澄ましても何も聞こえてこないのだから、素直に答えるしかない。しかし、ザガンはついに右手から黒い霧になって空気中に滲み、完全に外に出ては部屋の廊下側の壁のほうへずかずかと歩きだす。驚いて、俺もその後に続く。

 ザガンは辺りを物色し、箪笥や化粧台などへ順に耳を押し当てていく。そして、部屋の丁度隅に差し掛かると、ザガンははっとしたようにこちらを見た。

「……子どもダ。子どもの声ダ!」

 そこには衣装棚があるだけだった。コバルトブルーの装飾が美しい、白の高級調度品だ。ザガンはにやりと笑って観音開きのそれを開けた。

 結果として、衣装棚には何も入ってはいなかった。だが、違和感だけがあった。

 なんと、棚はどうやら不十分なつくりだった。見えないはずの漆喰の塗り壁が、はっきりと見えるのだ。しかも、その壁の向こう側から微かな振動音が聞こえる。壁に手を当ててしまえば、振動自体が掌に伝わるではないか。

 この壁の向こうに何かある。それこそ、ザガンが言った通りに子どもであるなら、助けるべきだろう?

「ザガン」

「任せロ~」

 ザガンは左手の人差し指の爪だけ8センチ伸ばし、エレベーターの停止階ボタンを押す要領で、音のなる壁の周りを六回触れた。爪が僅かに壁へめり込むと、みるみるうちに壁は赤から青、そして白く発光し、マグマのように溶け出した。しかし、この現象で熱は発生しない。熱くないのである。原理は不明だ。

 ゆっくりと溶け出す壁はついに向こう側と貫通したかのように思えた。が、実際には向こう側から突き破られた。

 足だ。裸足の、青年の足。壁を蹴り続けていたのだろう、足の裏の皮膚は赤く腫れあがり、黒い煤が全身についていた。

「引っ張るぞ!」

 反射的に青年の足首を両手で持ち、穴から引きずりだろうとする。そうしなければ、助けた意味がない。人一人通れるかも怪しい穴から、思いっきり出すと、衣装棚の仕掛けが作動する。

「!? ヨツユか!」

毒の花だ。棚の上部に隠されていた毒を持った花々が、はらりはらりと青年に降りかかり、その肌を紫や赤色に染め上げ、血を滲ませていく。

「あのクソ女の術だナ、しっかり殺す気ダ、コイツ、見捨てるべきだロ?」

「わかってる! でも、」

 あどけない中学生くらいの少年を、ヨツユの毒に侵されたまま放置しろというのか。この状態では、長くても半日以内に死に至る。それは、正しいことなのか? 幼いころから父が信仰してきた神は、ヨツユは、この少年を簡単に殺してしまうのか?

 見捨てるべき、だなんて俺は思いたくない。素晴らしい神であるなら、俺のこの気持ちを掬い上げてくれるはずだ。父が愛した神を、その道徳心を、信じたいはずなのに、目の前で起こっている少年の皮膚を食い破る花々が、己の思考と乖離する現実を突きつける。

「その少年、こっちに寄越してくださいませんっ?」

「クソ女のクソ部下!」

「黙れ悪魔め! その少年を今すぐこちらに渡せば、ヨツユ様も喜んでくださいますよ?」

「そんなに、この少年が大切、なのか?」

「ええ。大切ですっ! とてもとても。あなた方を殺してもいいと、上からも言われておりますしっ」

「上? ヨツユもそれに賛同していると?」

「ええ、ええ! ざっくりばっさりがっつりと、痛めつけてやりなさいと!」

 ヨツユではないその上とは、六情以外にいないだろう。たかだか少年一人を、人の命と引き換えにしても回収したいなんて、いったい何が起きているというのか。それこそ、先ほどヨツユに語られた人と神の戦争と、関係がある可能性が高いと考えられる。

 ならば、なおのこと、この少年を逃してしまうのは惜しい。直感ではない。考えればわかることだ。こんなに面白い話、首を突っ込まないわけがない。

 緊張が走る空気の中、最初に切り出したのはやはりむこうだった。薄く笑いながら、右手に握りこんだ拳銃をにぎり直し、それから話し出した。

「ですが、私如きがあなた方を殺せるわけないんです。だから、取引、しませんか?」

「取引?」

 ローズピンクから、濡れた紫檀色の唇へと色が変わった。ヨツユの能力を分けてもらっているのだ。腕力も体力も通常の一.五倍近く、ステータスが上昇しているはず。明らかにそちらに分があるのに取引を持ち込むとは、俺の命も捨てたもんじゃないということか。

「その少年をこちらに渡してくれれば、あなた方には人生の安泰を約束しましょう。なんでも叶えて差し上げますっ!」

「渡さないとしたら?」

「命を貰います。それだけです」

 今まで見た彼女の笑顔を塗り替えるような、醜悪な笑み。口角を上げ、目尻を下げ、眉毛を上げていた。まるで笑い慣れていないかのように、筋肉が硬直している。

 訳もなく、汗が一筋、左頬を流れた。緊張と不安、それと少しの興味だ。

 衣装棚から引っ張り出され、毒の花に命を削られている少年を一瞥する。眠っているだけなのに、じわりじわりと毒が廻っているのか、皮膚から所々出血し、鬱血もしている。痛いだろうに、起きれないようにヨツユが細工をしたのだ。少年の額に咲いた青い花がそれだ。

 神への頼み事。そんなもの、普通なら吐いて捨てるほどある。だが、そのほとんどが俺一人で叶えられることだ。ならば、俺が唯一叶えられないことでも、頼んでみようか。

「たくさんの願いなんて、叶えなくていい。たった一つ、たった一つだけ叶えてほしい」

「……はあ。わかりましたっ、お安い御用です」

 溜息を吐かれ、爽やかな偽物の笑顔を向けられる。しかし、瞳は残念ながら笑っていない。

 俺も、笑った。殺伐とした雰囲気は好きではない。それに、命のやりとりというやつは得意だ。今まで多くの神を救ってきた。忘れた名前を思い出すための手伝いをし、それは俺の経歴として大切にしていくべきものだ。しかし、神と交流し続ける中で俺はわかったことが一つある。……こいつらは、単なる完全な人間なのだと。

「――俺の両親を、生き返らせてくれ」

 死を迎えた生物から、生を再び与えること。それは何者にもできない所業。

 五メートル先にいる棗が、一秒ごとに顔色を変えていく。初めは血色のいい赤色で、急速に血の気が失せている。面白いほどの百面相に、俺は笑った。

「は、あはは……あなた、神名学者ですよね? …………いくら天下のヨツユ様だとしても、無理だということは、重々承知、でしょう? それなのに、そんな、そんな侮辱するような、神が「無理だ」と言わなければいけないような願い事を……するなんて、おかしいですよ?」

「なんだ、無理なのか……残念だ、ヨツユにもう用はないな」

「あなた……っ! お父上様もさぞお怒りでしょう、鍛冶場たたら様はヨツユ様を一番に愛していたのでは? 偉大なるお父上様に示しがつきませんよ」

「ああ。俺は父を尊敬しているし、それはこれからも変わりない」

「なら、どうして?」

「簡単なことだ。父が愛した女神ヨツユは、生命を癒し、護るもの。だが、」

 この少年の皮膚は、今食い破られようとしている。

「生命を危険に晒す傍若無人な女神を、父は愛すると思うか?」

「もうそれ以上聞きたくない、決別なのですから。この裏切者」

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