背君
数日後の夕刻、ランティウスが城に帰って来た。
「長よ、無事の帰還を喜びます」
出迎えたエリスを無視するように、兄は行ってしまう。行き先をエリスは知っている。末妹の部屋だ。
「モリー、ついて来なさい」
「はい、ソフィア様」
綺麗に掃除した部屋の様子を兄がどう評価するか知りたくて、エリスは末妹の部屋だった場所に移動する。
綺麗さっぱり何もなくなった部屋の中では、兄が呆然と立ち尽くしていた。
「お兄様、このような何もない部屋に、何の御用かしら?」
エリスが声を掛けると、彼はゆっくりと振り返る。
「お前の仕業か?」
数日ぶりに聞く兄の声は震えていた。
「埃が溜まっておりましたので、掃除を命じました。ご覧の通り、美しく磨き上げられております」
「花瓶は、どうした?」
兄の声は地獄の底から響くような低い調子だ。
「花瓶? ああ、あれはお兄様の部屋へ運ぼうとして、割ってしまいましたわ」
「割った?」
悪びれもせず答えた彼女に、兄は殺意を籠めた視線を向ける。彼女の後ろでモリーが小さく悲鳴を上げた。
「エリス、お前は……!」
「長よ、いつまで亡き者にご執心なさるおつもりですか?」
怒りに燃える兄を前にしてもエリスは怯まなかった。ツカツカと歩み寄る。
「お立場を考えて下さい。たった一人の亡き者と、一族全体と、どちらが大切ですか?」
「黙れ!」
乾いた音が響いて、エリスは床に転がった。モリーが慌てて主人に駆け寄る。
「ソフィア様……、ソフィア様!」
グッタリとして動かないエリスを目の前にして、ランティウスも冷静さを取り戻した。
「エリス、しっかりしろ」
怒りに任せて叩いてしまった罪悪感が彼を襲う。エリスの身体を抱え上げ、地上で覚えた治癒魔法を使った。見る見る内に、腫れ上がっていた彼女の左頬は元の白い肌に戻る。
「すまぬ」
ランティウスは短く謝ると、エリスを抱え上げた。
「エリスを休ませる。部屋まで案内してくれ」
「長様の仰せのままに」
モリーは頭を下げると、城内を先導してエリスの部屋まで戻って来た。
「二人にさせてくれ」
「長様のお心のままに」
モリーが出て行ったのを確認して、ランティウスはエリスを寝台に降ろす。気を失ったままの彼女を見ていると、ルーディリートの寝顔を見ていた頃を思い出した。
「あの時は、二人とも仲良く見えたのだがな」
エリスは目を覚まさない。ランティウスは妹の金髪を掻き上げると、その顔をジッと見詰めた。二人の妹の顔付きはそれぞれの母親に似ている。エリスの顔は美しいが、その美しさの裏には何かが隠されているような気がした。
「……お前は何を考えているのだ?」
花瓶を割った経緯を詳しく聞き出す必要があると、彼は考える。暫くして、エリスの目蓋がゆっくりと開いた。彼女の青い瞳にはランティウスの顔が映っている。
「お兄様……」
自らの頬に触れている兄の手に、エリスは震える手を重ねた。
「わたくしが憎いですか?」
彼女の目尻から滴が流れ落ちる。泣き顔になったエリスは絞り出すように問い掛けた。
「殺したいぐらいに、憎いですか?」
「すまない」
ランティウスの胸中を罪悪感が襲う。これまで、訓練以外では女性に手を挙げたことがなかった彼にとって、妹を叩いたのは初めてのことでもあった。
「謝らないで、答えて下さい。わたくしが憎いですか?」
「エリス、憎いことはない。私はどうかしていたのだ」
エリスの涙目と涙声は兄の心を抉る。未だに震えている彼女を見詰める彼の瞳に慈愛の光が宿るほどに。
「ラリアとルーディリートを立て続けに失った悲しみが目を曇らせ、正常な判断を奪っていた」
「お兄様……」
「お前を大切にできなくて、どうして他の誰かを大切にできるだろうか」
初めて兄の本心を聞けたような気持ちにエリスはなった。兄の手を握る。
「……では、どうなさいます?」
彼女の問い掛けに、兄は唇を重ね合わせて来た。
「ん……」
初めての感触は彼女の頭を痺れさせる。後は、兄のさせるままに任せた。




