背君
〈背君〉
戴冠式を終えて、十ヶ月が過ぎた。新しい長となったランティウスと、その正妻になったエリス。だがその新婚生活は始まりから冷え込んでいた。
「お兄様、どうして口を利いて頂けませんの?」
エリスが声を掛けても兄は全く見向きもしない。完全に彼女を無視している。
その理由は、彼女が兄の本命ではなかったからだ。彼が正妻に迎え入れようと考えていたのは二人の妹でルーディリートと言った。その末妹は戴冠式以降、病気と称して面会謝絶を続けており、その事もまた兄の勘気が解けない理由の一つだ。
「あんまりですわ」
エリスは悔しさのあまり手にしていた扇をへし曲げた。
「もうお兄様なんて知りません」
曲がった扇を投げ捨てて、彼女は兄の執務室から退出する。
「ウィルオード」
「はい」
廊下を歩きながら呼び掛けると、従者のウィルオードが現れる。
「あの月の娘を亡き者に……」
「恐れながら、既に城内にはおりません」
ウィルオードの返答にエリスは足を止めた。
「どういうことですの?」
「病の療養のため、数ヶ月前に母親の里へ向かったとの由」
エリスは思考を巡らせた。ルーディリートの母親は十年近く前に亡くなっている。母親の里と言っても一度も訪れたことがないはずだ。
「ソフィアルテね」
末妹の母親の姉は前のソフィアで、今はソフィアルテと称していた。その指金で隠遁したのだろう。
「まさか先手を打たれるとは不覚でしたわ」
「正確な行き先につきましては、調査中です」
「いえ、いいわ。捨て置きなさい。それよりも妹は亡くなったとお兄様に教えて差し上げるのがよろしくてよ」
彼女は良案と信じて大いに笑った。
「エリス、お待ちなさい」
背後から声を掛けられて振り返ると、ソフィアルテことファルティマーナが近づいて来る。
「長の部屋に参りましたら、行き違いになってしまいました」
この十ヶ月間、ほぼ付きっきりでソフィアの仕事を指導されて、エリスは兄の母に親近感を覚えていた。
「ファルティマーナ様、お呼び下されば、すぐに参上致しますのに」
「いいえ、あの子には聞かせたくない話でして」
ファルティマーナが額を寄せて来る。
「……実は、ルーディリートが私の里で病死しました」
エリスは驚いた。つい先程、末妹が死んだと兄に嘘を吹き込もうと考えていたのに、それが現実のものとなったからだ。
「葬儀は、どうされますの?」
「密葬という形で里の者が行いました」
「そう、ですか」
にわかには信じられない話だった。
「それではお兄様に伝えるのは、どうなさいますの?」
「あの子には、折を見てわたくしから伝えましょう。それまで伏せておいて欲しいのです。どうかあの子の支えになって欲しくて、あなたへ先に伝えました」
物憂げに伏し目がちになったファルティマーナを見て、エリスは信頼されていると感じる。
「お任せ下さい、ファルティマーナ様。今やわたくしはお兄様のたった一人の妹で、正妻です。必ず、一族と共にお兄様を支えてみせますわ」
「そう言って頂けると頼もしく思います。よろしく頼みましたよ」
最後は微笑んでファルティマーナは立ち去った。エリスも愛想良く微笑んで見送る。彼女の姿が角を曲がって消えると、不敵な笑みに変わった。
「ウィルオード、愉しくなりそうね」
「仰せのままに」
恭しく頭を下げた従者と共に、彼女は自部屋へ戻る。




