第三章②再びの異形化
《………》「………」
青い空、太陽が真上で家探しを終えたカナエたちを照らす。
拠点たる、ここらでもっとも高い廃ビルの屋上。
ヒスイは何か苛立つことがあるかのように、あるいは真剣に何かを悩んでいるかのように、難しい顔をしていた。
ボロ衣から着替えた彼女の格好は、白い大きめのパーカーに黒いプリーツスカート、そしてハイサイニーソックスというシンプルながら媚びた格好。
しかして媚びっぷりが全く苦にならなず、彼女のかわいらしさをよく活かしている、なかなかに素晴らしい選んだ人間のセンスが光る服装だ。片方だけはめられた白手袋が浮いていると言えば浮いているが、そのかわいさの前では霞むだろう。
この服を選んだカナエはそんなふうに手前味噌の褒めちぎる。
(……って、そんなことはどうでもいいわよ)
問題は、ヒスイの様子が家に入ってからあからさまにおかしいということだ。そしてそれは時間を経るごとに徐々に肥大化して、今に至る。
あまりにそのことが気になりすぎて、家から持ってきた缶詰を食らうペースも遅い。食らうというよりは吸収すると言ったほうが正しいのだが、そんな己の異形の食事シーンにさえ大してリアクションを取る余裕がなかった。
思えば、ヒスイは家に向かったあたりですでにどこかピリピリしていた気がする。
《……あの、ヒスイ、わたしなにかした?》
あまりの気まずさに耐えかねて、カナエは思わずそんなことを言っていた。
「……何か言った? すまない、ぼうっとしていた」
《いや、なんでもないわよ、あははは……》
しかし、ヒスイはきょとんとした顔で知らんぷり、聞こえなかったふり。ああ、気まずい。
「……私のしたことが、光を見逃したら大事だと言うのに」
そうだ、カナエたちの基本方針はここの屋上から敵の行動を把握することにある。
カナエがスライムになるときに見た、曰く広域を包むという激しい光、それを高所から把握することで敵のおおよその位置を見つけ出し、敵よりも早く被害者の保護に努める――それが夜の間に決めたことだ。
受け身と言えば受け身だろうが、それしかないのだ、仕方がない。
《――って、ええ、ガチへこみ?》
思わずそんなことを声に出すが、ヒスイは知らぬ間にさっきの真剣かつ悩ましげな表情に戻って、地面を見つめうつむいていた。
(……結局、何があったんだろう)
怒っていないならば一体何なのか、味もよくわからない食料を吸収しながら考える。
(家の中で、何か変なものでも見たのかしら)
変なものなど心当たりがまったくない。まあ、人に見られて困るものはあるけれど、それとヒスイの妙な態度は繋がらない。
(もしかして、わたしの本当の姿の写真を見て恋に落ちたとか――)
流石にそれはないとセルフツッコミを入れる直前、
「――いいことを思いついた!」
ヒスイは唐突に立ち上がり叫んだ。
《……いいこと?》
ヒスイの顔を見てみると、先程の悩みのようなものは薄れ、見たことがないくらいに晴れやかな表情をしている。
「そう、いいこと!」
そしてヒスイは“いいこと”をカナエに向かって発表する。
《………》
その話を聞くカナエの内心は、かなり複雑なものだった。しかしそれでも、こう答える。
《いいわね、そうしましょう》
帰りのホームルーム、しかしミヤコは上の空に端末の画面を見つめ、教師の話など欠片も聞いていなかった。
「………」
液晶にはうねうねした不定形の鈍色の化物の画像が映る。
場所はちょうどこの高校の近くを走る列車。時間は四日前の夕刻。
今日も今日とて無断欠席のカナエは、この翌日から今に至るまで音信不通。
その後列車が緊急停止したという駅は、彼女が降りる駅よりも前。
化物が現れる場所では必ず美少女が一人行方不明になるという。
そして、カナエ・リヴァーサスは間違いなく、ミヤコが知る限り、画面越しで見たことのある相手も含め、もっとも美少女だった。
「……まだ決まったわけじゃない」
己に言い聞かせるようにぼそりとつぶやき、端末をスリープさせる。
代わりに液晶に映るのは、いつも以上に眠たげでひどい隈をたたえた、コンプレックスの眠たげな目。
なにが『ミヤコも気をつけたほうがいい』だ。嘘をつくな。お世辞をいうな。一番気をつけるべきあんたが――
「ミヤコ先輩!」
「へ?」
横から聞こえた声に振り返る。どうやら、帰りのホームルームはとっくの昔に終わっていたようだ。
そこには、艶めいた黒髪を肩まで伸ばした、少しつり目がちなぱっちりとした黒目の、中学生のようなあどけない印象の少女。……最後のは人のことは言えないが。
「早く行きましょう。チラシを作ってきましたから」
そう言って、どこから用意したかもわからないカナエの写真をデカデカと印刷し『この人を探しています』と書かれたチラシを見せる。……カメラ目線でないのはこの際置いておこう。
彼女の名前はカオル・タチバナと言い、聞いてもいないのにカナエに告白して振られたばかりだと自己紹介した後輩だった。
「けっこうよくできているでしょう? 思わず目を奪われますよ、カナエ先輩の美貌に」
カオルもまたカナエを探しており、そのために偶然昨日出会った。そんな彼女は冗談めかしてそんなことを言う。
「……ええ、行きましょうか」
ミヤコは自分もチラシを用意していたことを黙って、やたらと重いカバンを持ちながら席を立った。
カオルにはチラシを貼るのを店や個人に許可してもらう係についてもらい、ミヤコはチラシをひたすらに駅前で配っていた。
簡単な話だ。カオルのような人当たりが引くほどいい美少女のほうがその手の交渉事には向いている。何ならこのチラシ配りも彼女のほうが適任だろう。
「お願いします、ほんの少しの情報でいいんで!」
しかしそれでもミヤコはなれない大声を張り上げて、人々に必死にチラシを配る。
最初は面倒そうにしていた相手がカナエの写真を見た途端にひったくるように持っていくのは平素ならば笑えただろうが、そんな反応をしている場合ですらなかった。
「ああ、この子なら見たね」
配り始めて一時間ほど経ったとき、スーツ姿の妙齢の女性がそんなことを告げた。
「ほ、本当ですかっ! いつ!? どこで!?」
「四日前に電車の中でだね、確か。すごい美人だったからよく覚えてるよ。それに、その後すごいことがあったし」
「……す、すごいこと?」
四日前、電車内、あまりに不吉な響き。
「美人だなーってぼうっと見ていたら……」
そこで彼女は今更に『言わなきゃよかったか』みたいな顔で目頭を押さえ、しばしの沈黙の後にこう言った。
「……すごい光が差してさ、それが晴れて目を開けたら、その子がいた場所に例のスライムがいたの」
「私の方は全然成果がなかったですけど、先輩は?」
帰り道。すっかり日が落ち、電灯が道を照らし、周りの家々からはテレビや団らんの音が漏れ聞こえる。
「……特になかった」
嘘だ。大嘘だった。たかだか昨日であったばかりの相手に『カナエはスライムに食われたかも知れない』なんてことを言えるはずもない。
「そんなに落ち込まないでください、まだ三日ですよ? いきなり思春期的な気分になって旅に出たとかかも知れませんし」
己に言い聞かせるように空元気じみて、カオルはいう。
『……でも、あなたもカナエがそんな人間じゃないってわかってるから、こんなことしている』とは言えず、ミヤコは代わりにこんな事を言った。
「……そもそも、なんであなたはカナエを探しているの? 振られたって自分で言ってたし」
恋人ならばまだしも、自分をつい最近振った相手を探すとはどういう神経なのか、ミヤコはずっと気になっていた。
(……うわあ、何いってんだろ、私)
普通ならば失礼すぎて訊ねない質問がつい口に出てしまうほどに、今の彼女は参っていたのである。
「え、そんなのなんの関係ないじゃないですか? あなたは自分のことを好きでいてくれる人のことしか好きになれないんですか?」
「……たしかにそのとおり。意外にいいことを言う」
「それに、もしかしたら私を振ったことをあまりに後悔して急に旅に出たくなったかも知れないでしょう? だから私が見つけ出して抱きしめてあげようかと」
「前言撤回」
しかし、そういうミヤコの頬は緩んでいた。
(そうだ。まだ決まったわけじゃない。ただ異常な事態を前に、たまたまそういう勘違いをしてしまっただけかも知れない)
例えば、『スライムが現れると美少女が一人いなくなる』という噂を先程の女性が知っていて、そのバイアスを持って現実を歪めてしまっただけかも知れないのだ。
そもそも、スライムが美少女だけを襲うなんてバカバカしい話だってよくよく考えればありえないだろう。実際にスライムが誰かを襲ったという事例は一度も報告されていないし、誰かがスライムという非現実的な存在に付けた尾ひれの一つだ。
「明日もがんばろう」
「ええ。きっと見つかるはずです。私たちもこんなに頑張っているんだから!」
そう言って二人が笑い合おうとしたその時、ミヤコの視界は塞がれた。
(――これはっ!?)
それは、凄まじい、視界を無理やり埋め尽くす白い光。
連想されるのは、数多くの人間が口揃えて証言する、スライムが現れたときに必ず発生するという光。
「――カオル! 大丈夫っ!?」
つい先程否定したはずの美少女を食らうスライムの存在を恐れ、反射的に白い闇の中で叫ぶ。
しかし応答はなく、触れようとした手がぶにりとした、生ぬるいなにかに触れた。
「――ひいいっ」
思わぬ感触にたじろいで尻餅をつく。
(嘘でしょ、もしかしてこれって――)
必死で頭を振り、しかしそれでも不安は拭えるどころか、頭の中に絡みつく。
そして目の前の光が晴れると、ミヤコは確かに見た。
《いきぃういいいあああ》
つい数秒前までカオルがいた場所に、何度も液晶越しに見た、鈍色の化け物がいるのを。
気がつけば、すっかり夜の帳が降りていた。ついさっきまでは真っ昼間だったと言うのに、なにかに没頭すると時間はあっという間に過ぎていく。
《……ねえ、これ無理なんじゃない》
カナエが床にぐんにょりと倒れ伏して、息も絶え絶えといった様子でつぶやく。
「いえ、あと少しで行ける」
カナエとはひどく対照的な涼しい顔でヒスイは言い放った。
少し、いや、かなり腹が立つ。
確かに迷惑もかけたし、彼女の右腕がなくなったのは紛れもなくわたしの責任なのだから仕方ないと思っていたが、もう我慢も限界に近い。
ていうか、限界だ。
《――無理よおおおお!!》
ゆえにカナエは叫んだ。叫び散らした。
自分でやっておいてなんだが、このノイズみたいな声はひたすらに不愉快で、疲れが否応なしに増す。しかしそれでも、カナエは感情の赴くままに叫び続ける。
《そりゃわたしにだって責任の一端どころか両端はあるけど、そもそも出来ることと出来ないことがあるのよ! わかる!? そしてこれは出来ないこと!》
すると、売り言葉に買い言葉。ヒスイもキレて叫ぶ。
「そうは言うがなっ! これは必要なことなんだ! たしかに私が今こんなふうになっているのは私の責任だが、仕方ないだろうっ!? このままじゃふたりとも死ぬぞ!」
《ムカつく正論ね! だいたいねえ、なんであなたは私と違って全然涼しい顔してるのよっ! そういうところが一番むかつくわ!》
「苦労を分かち合えっていうの! そんな訳のわけのわからない感情論でキレるな! 私にできることなんてなにもないのにっ!」
《はいはい、そうでしょうね! 機械には通じませんよ、感情論はっ! それもよりにもよって記憶喪失じゃ!》
「……ッ!」
そこまで言って、ヒスイが涙目になって肩を震わせていることに気づく。
《ごめん、言い過ぎ――》
カナエは急に申し訳なくなって謝罪の言葉を紡ごうとするが、
「――!」
《……何よ、これ》
東の空。そこに異常なものが突然現れて、それを遮った。
それは、光の柱だった。
街を穿つような巨大な光の柱。
少なくとも数㎞離れているはずのそれは、しかしあまりに眩い光で自己主張する。
ああ、これが、これこそが、スライムを発生させる悪魔の光の俯瞰図だ。
「――この“機能”は!」
頭を押さえ叫び、ヒスイが駆け出す。あろうことか、屋上の縁に向かって。
《ちょっ、えっ》
「リヴァーサスはそこにいて、私だけでなんとかする!」
そう言って彼女は屋上からためらいなく、スカートを翻して飛び降る。
「――きっとそれが、私の忘れてしまった使命!」
そしてそのまま、ネコ科めいて着地、異形の光のある方向に向かって全力で駆け出した。