第三章①ミヤコ・ナイキバラ
【二〇六〇/十/二十三】
「……やっぱり、ジャミングがオンになっている。いくら探しても、影も形もない。……バランサーがオンになったときに同時にオンになったんでしょうか」
ひび割れたアスファルト、あちこちから雑草が伸び出ている、そんな荒れ果てた道。
真っ赤な夕焼けに照らされ、少女はその琥珀の瞳を夕焼けよりも真っ赤に怒りで燃やしながら歩みを進めていた。
その印象的な琥珀の瞳があるのは、少女の腰ほどの高さ。
いつもより低い視線はどこか気味が悪く、己の手と横腹に挟まれながら歩くとずっとガタガタ揺れるものだから、ひどく居心地が悪い。
そう、先の戦いから数時間、アンヴァーの首は、敵の不意打ちで吹き飛んだ首は、未だに直っていなかった。
不意打ちの衝撃で首輪――エンゲージリングに埋め込まれた青い宝石に少しばかりヒビが入り、いつものように身体を直そうにしても直せないのだ。
(どうしてこんな重要なパーツを首に置くんですかね、お父さまは)
父のことは尊敬していたが、こういったところは納得いかなかった。
「……それにしても、あのジャンクが記憶喪失の甘ちゃんよかったです」
それだけが、運がいいと言えることだ。
「……となると」
懸案事項はあの化物だ。
今までここで狩った連中では間違いなく最強格。今の時点でも十分厄介だが、放っておけばさらに覚醒する可能性がある――ああ、面倒極まりない。
そんな事を考えながら歩いていると、やっと目的地の目の前にたどり着いた。
それは『私有地につき進入禁止』というペンキが剥がれかけた看板が主張する、錆びた鉄門。
アンヴァーはそれを無視して、その中に侵入する。
そこは、錆の楽園じみた遊園地だった。
あちこちの遊具が錆にまみれ今にも崩れ落ちそうになりながらも存在し、石畳の隙間からは雑草が溢れる、巨大な死体。
アンヴァーはしばしその悪路をがたがたと揺れる視界を我慢しながら歩み、
「……やっと、ついた」
古びて薄汚れたプレハブ小屋にたどり着く。
扉を開くと、どういった理屈か、外から見た広さよりも遥かに広く、そして気味が悪いほどに真っ白な空間がそこにはあった。
アンヴァーを見下ろすほどの大きさの、巨大なガラス筒がいくつも鎮座した異様な部屋。
円形に並べられ青く光る液体で満たされた筒の中、その中のひとつに灰色の単眼のアンドロイド――デルタ・ロイドが収納されている。建造途中のそれ以外は、全くの空っぽ。
「おや、アンヴァー殿」
そんないくつもの筒に囲まれた部屋に、アンヴァー以外に動くものが一つ。
「帰ってきてたんですね、ガーベラ」
ガーベラと呼ばれたそれは、一見すると筒の中のデルタ・ロイドとよく似た外見をしている。しかしその特徴的な単眼は灰色ではなく、名前の通りの赤。黒いマントに包まれた機体の色も、瞳と同じ赤である。そして何より、その首元の青の宝石がはまったエンゲージリングが、彼がデルタ・ロイドではなくアンヴァーたちと同種であると告げていた。
「ええ。どうやらかなり疲弊しているようで」
黒いマントに包まれた身体から伸びた手。それがアンヴァーのエンゲージリングにいたわるように触れると、ヒビが消えてその輝きが回復する。
「私めが出来ることならば、どんなことでもやりましょう」
そのままガーベラは流れるように片膝をつき、彼女に忠誠を見せつけんと宣言した。
「――頼みがあります、ガーベラ」
ゆえにアンヴァーは頭部を本来あるべき場所に接続すると、ガーベラにとある命令を告げる。
『……』
そんな光景を、単眼たちのガラス筒に接続される、部屋の中央のガラス筒から見つめるものがいた。
それは、青の液体に浮かぶ、裸の少女。
少女は重いまぶたを開き、命令を下すアンヴァーを無感情に見つめていた。
その虚ろな翡翠の瞳で。
【二〇六〇/十/二十四】
《……》
鳥がさえずり、朝日が差し込む早朝。カナエはごく普通の二階建ての一軒家、その玄関ドアの前で固まっていた。
無論、鈍色のスライムの姿で。
「リヴァーサス、早くしないと誰かが来るかも知れない」
その横で、ボロ衣で見られたら困るところをなんとか隠す、痴女めいた格好のヒスイが問う。
《……いや、そうなんだけど》
「一人暮らし。合鍵だってある。自分の家。……なのに、どうしてためらう?」
そう、彼女たちの目の前にある一軒家はカナエ・リヴァーサスの実家だった。
《そうよね、わたしの家よね……》
三日ぶりの、しかし何十年も帰ってきていないかのような、やけに懐かしい我が家を郷愁を込めて見つめ、カナエはつぶやいた。
なぜここにいるのか、時間は昨日の夜に戻る。
「アンヴァーは確実に生きている。あの時は逃げるのに必死でトドメはさせなかったし、何よりあれが首を撥ねられたくらいで死ぬとは思えない。だから、アンヴァーともう一度接触し彼女の凶行を止めて、ついでに記憶を取り戻すか、最悪でもリヴァーサスをもとに戻す方法を聞き出す」
相変わらず、自分のことは後回しにした物言い。もはやそれに突っ込むのにも疲れたカナエは、先程から気になっていたことに突っ込みをいれた。
《……それは全面的に賛成なのだけど、あなたその格好はどうなの?》
ヒスイは裸のまま。今更といえば今更だが、目をそらしながら気まずげに。ありもしない頬が熱い。それを言えば眼球もありはしないのだが。
「別にいいだろう。私は機械だし、女同士なのだから」
《だ、駄目よ! 何をわけのわからないことを言って! だいたい、むしろその色々メタリックな部分丸出しだと目立つし、そうじゃなくても裸で歩くのは目立つわ!》
「……そ、そうか? 仕方ないな」
ヒスイはあっさりと引き下がると、隅においてあった焦げてしまった服の残骸を胸元と腰、そして機械部分が露出したところに巻く。
「これでいい?」
《……なかなかに痴女痴女しい格好だけど、今はこれで仕方がないわね》
むしろさっきより妙に扇情的になった気さえする。裸は芸術だが、着衣はただのエロだ。
《でもこの格好をずっと続けるのはさすがに――》
そこでカナエの頭がクラリと来て、たたらを踏んだ。
「どうした? 大丈夫か?」
やはり躊躇いなく彼女を抱き支え、ヒスイが心配げに問う。
《……その、お腹が減って》
そうだ、カナエが倒れた理由は空腹だ。スライムになってから三日、何も食べていない。
頭がくらくらした。今までは緊張だったり寝起きだったりであまり気にならなかったが、自覚すると凄まじい飢餓感に襲われる。
「……そうか、空腹か。……あれだろう、身体を動かすエネルギー源が不足しているんだな?」
どこか間の抜けた言葉。おそらくヒスイは空腹というものを覚えないのだろう。うらやましいことだ。
「……それは大変だ。しかし私も食料を持ってないし――」
そのまま少し思案するようにうつむいたと思うと、顔を上げてヒスイは訊ねた。
「そうだ、リヴァーサス。あなたの家は他に誰かいる?」
《へ? いやまあ、一人暮らしだから、わたしが帰ってなければ誰もいないけれど》
「そうか。ならば簡単だ。リヴァーサスの家で食料を確保しよう。ついでに私に服を貸してくれたら助かる」
《……な、なるほど》
ヒスイはそう提案し、敵襲を警戒して夜が明けたら家に向かうことになった。
本当は嫌だったが、それでも背に腹は代えられないと――少なくとも、その時のカナエは思っていた。
《………》
そういうわけで、カナエの食料とヒスイの衣服のために訪れたわけだが、どうしてかカナエは家の中に入ろうとせず、思い悩むようにドアの前に立っていた。
「……本当に、どうしたの?」
ヒスイは本気で心配になってきて、そう尋ねる。
(まさか昨日の戦いのダメージが今さらに……)
《……なんていうか、ここってわたしが小さい頃からずっと住んでる家だから、この姿で行くのはちょっと抵抗があるのよ。思い出が邪魔するっていうか》
しかし、その返答はあまりに予想外だった。
「……思い出、か」
それは、ヒスイに明確に欠けているものの一つ。しかし、今まで意識しなかったもの。
《ごっ、ごめん!》
「……大丈夫。私には思い出というものがよくわからない。だから私にはあなたの気持ちがわからない。それはそんなに辛いものなの?」
そうだ、人間が翼がないことを本気で悩まないように、ヒスイは最初から持っていない記憶について感傷を持たない。
《……自分でもよくわからないけど、それなりにはね》
そう言う割には、どこか深刻な響きが含まれていた。
ヒスイには“空腹”という概念が理解できないように、その感傷のようなものはやはり理解できない。しかしそれでも、ヒスイはこう続けた。
「どうしても辛いならば――」
そこでヒスイのセンサーのようなものが、とある影を捉える。
《ちょっ》
ゆえに彼女は言葉を途中で止め、いきなりカナエを抱きしめ家の影に走った。
「……静かにして。人が来る」
己のセンサーのとおり、先程まで自分たちがいた玄関先に、一人の少女がとてとてと歩んでくる。
《……あれは、ミヤコ?》
おかっぱ頭の、子供のように背が低い少女。
カナエはその姿を見て、どこか懐かしげにそうつぶやいた。
「ごめんくださーい」
カナエがミヤコと呼んだ少女はとても眠たげな目で、インターフォンを押す。
当たり前だが、反応はない。
「……あの子は?」
《友達》
カナエは出来うる限り小声で答える。身体をミヤコが見えるギリギリまで奥に下がりながら。何があっても見られる訳にはいかないという強い意思を感じさせる挙動。
「……なんでいないんだ、馬鹿」
それからミヤコは何度も何度もインターフォンを押したあと、うつむいてそんなことをつぶやいた。
消え入りそうな声は、しかしカナエの耳には確かに届いたのか、
《……ここにいるわよ》
悔しそうな、哀しそうな、同じく消え入りそうな声でつぶやいた。
「………」
それから彼女は玄関をあとにして、郵便受けにプリントを入れると、とぼとぼと猫背に道を引き返す。
その後姿を見て、何かざわざわしたものが全身に走るのをヒスイは感じた。
《……ねえ、ヒスイ》
「……何」
いくら考えてもわからないその感覚の正体を探っていると、カナエが独り言を漏らすように言う。
《わたしの家って、ミヤコの家の真反対にあるのよ。一度学校を通って、電車に乗って、そうじゃないと着かないの》
「………」
《あの子、朝起きるのがすごく苦手で、よく遅刻してくるの》
「………」
《いつも眠そうな目なのに、いつもよりもっと眠そうな目だったの》
「……」
《ドライなようでいて、実はすごく、すごく友達想いなの》
そうか、ミヤコはリヴァーサスを強く強く思っているのか。
そうか、リヴァーサスはミヤコを強く強く思っているのか。
だからミヤコは朝が苦手でも、リヴァーサスの安否を確かめるために朝早く訪ねてくる。
だからリヴァーサスは心配する友人の目の前に出たくて、だけど今の姿を見られたくなくて、それでこんなにも苦しそうなんだ。
(……ますます、リヴァーサスをもとに戻さないと駄目な理由が出来たな)
ゆえにヒスイは、己の中でさらに増幅される謎の感覚を無視して、そう強く意識した。
まるで、その感覚から逃げるように。
「早く行こう。どうしても無理ならば、私がやるから」
逃走の延長線上、話題そのものからも逃げるように、鍵を渡すように手を差し出す。
《……ありがとう。でも、わたしも行くよ。一緒に行ったほうが早いだろうし》
しかしカナエは鍵を渡さずに、そう言い切る。どこか無理のあるトーンで。
「……平気?」
《全然平気。早くもとに戻らないと駄目だもの。わたしのためにも、ミヤコのためにも。……きっと、姉さんだってそう言うわよ》
カナエはそう言って扉の前まで進むと、少しだけ震えた触手でぐるりと鍵を回した。
そのままドアを開けると、そこには、少しだけ埃の積もった玄関が目に入る。
特段、面白いものがあるわけでもない、特色などない没個性的な玄関だったが、しかしヒスイはとあるものに目を奪われた。
《じゃあ、行こうか》
「………」
カナエはそう言って玄関から廊下へ歩を進めるが、ヒスイは玄関の一角を見つめて微動だにせず、“それ”を凝視している。
それだけで、先程やってきたざわざわした感覚が拡大していき、彼女の動きは止まった。
《どうしたの、ヒスイ?》
「――ッ! なんでもない、行こう」
背中にかかるそんな声に、ヒスイはびくりと肩を跳ねさせてから、カナエの元へ急ぐように小走りで歩みだす。
(そうだ、こんなところで悩んでいる場合じゃない)
何を悩んでいるかもわからないくせに、そんなことを考えながら。
《なんか様子おかしいけれど、大丈夫?》
「ええ、大丈夫。私は至って元気だ」
空元気めいて言うヒスイをさほど気にせず、カナエたちは家探しを開始した。