最終章⑥ネフライト
「あの頃の姿のままの化物が弱かったら張り合いがないなんて考えていたが――思った以上にやるじゃないか。いいやられ役だった」
ヒスイは言葉とともにこちらに近づいてくる。
その背に全く無傷な七体のデルタ・ロイドを引き連れて。
「この世界に残っている化物がさっきの連中みたいに全員ゴミクズ同然だったら、いくらなんでも手応えがなさすぎるからな。さっき逃げたやつにも期待している」
《………》
実に言いたい放題。しかしカナエは言い返す気力もなければ、深く物事を考える思考力さえもない。
それどころか、先ほど腕を投擲したことで最後の触手もまた、ドロドロと溶けてなくなってしまっている。
無論、逃げようとする体力があるはずもなかった。
「そういうわけで、死んでもらおうか」
チェーンソーがぎりぎりとがなりたてる。
(……ああ、そうか、わたしが負けたら、みんな死ぬんだ)
そんなところになって、今さらにカナエは気づいた。
(……みんなを守って戦うってすごいなあ。ネフライト、あなたは本当にすごい。わたしはもう、自分以外の誰かを守って戦うなんて嫌だもの)
だって、自分を守るだけでも世界を守っているも同然なのだ。それ以上など、荷が重すぎて敵わない。
「――さようなら、化物」
そしてそのまま、チェーンソーは振りかぶられて――
《――!?》
しかし衝撃は一向にやってこなかった。
代わりに響くのは、金属のような何かを切断する鈍い音。
そしてカナエは見た。
それは一見、死体のようだった。
ボロボロに振り乱された自慢の黒髪。
華奢な身体を包む亡者のようなボロ布。
そして何よりも、真っ二つにひび割れている喉元の宝石。
どうして今の今まで立っていられたのか理解不能。
そんな少女が小さな背から火花と青い人工血液を撒き散らし、カナエに向かって倒れ込むのを。
反射的に支えるが、その身体はひどく軽く、嫌な予感が全身を駆け巡る。。
しかし垂れた黒髪から覗くその翡翠の瞳には、鋼のような意志とひだまりのような優しさが溢れていた――チェーンソーの主とはまさしく真逆。
「……久しぶり、リヴァーサス」
無感情なようでいて、その奥に優しさのようなものを感じさせる声。
あの聞き慣れた、なぜだかひどく懐かしい声が聞こえる。
《――ネフライトっ、ネフライトっ!》
そうだ、彼女が、彼女こそがネフライト。
幾度となくカナエの危機を救い、今もまたその身を挺してやってきた、誰よりも心優しいシータ・ロイド。
そんな彼女が確かに、今自分の胸の中で、たしかに生きていた。
「――はははっ、ネフライト、そうか、あれだけの傷を負ってまたやってくるか!」
二人の会話に割り込むように、彼女たちを見下ろすヒスイの声が響く。
どこか妙に嬉しそうな、可笑しいような、馬鹿馬鹿しいような、そんな声。
「……ああ、私は、生きている限りリヴァーサスを、みんなを守る。それが私が作られた意味だ」
ヒスイに背を向けたまま、彼女ではなくカナエに語りかけるように言う。
「守る? そのナリでまだ戦うつもりか? もはや立つこともできないだろう」
《――ネフライト、足がっ!》
その言葉でカナエは今さらに気づいた。
ネフライトの両足が内部フレームを露出し、ぐちゃぐちゃに砕け散っている。まるで、許容量以上の動作を一気に行ったかのように。
「アクセルをエンゲージリングの超修復なしで行ったか。なるほど、いい奇策だな」
そう、それこそがカナエをすんでのところで庇ったカラクリだった。
アクセルそのものはただリミッターを解除しているだけに過ぎない。ゆえに今の彼女のようにエンゲージリングが動作していることさえ奇跡であろうとも、数秒ならば使用できる。ただし、二度と修復できないダメージを代償に。
「……ただし、一回きりの不意打ちならば、な。おまえは愚かだ。実に愚かだ」
そこで唐突に不機嫌になり、ヒスイはこう続けた。
「おまえはこの世界を埋め尽くす化物どもを人間扱いし、守ろうとしている――まったくもって理解不能だが、それは置いておこう。……だが、ならばどうしてこのタイミングでアクセルを使った?」
「リヴァーサスを守りたかった、それだけ」
微塵の迷いもなく断言する。
「ああ、甘いな。反吐が出るほどにおまえは甘い。そうして得られたものは何だ? ただそこの化物をほんの少し延命しただけだ。おまえはここで死ぬし、そこの化物も死ぬ。そして私は残った化物どもを一人残らず滅ぼす」
「……つまりあなたは、一回きりのアクセルをリヴァーサスを殺して油断しきっているときに使うべきだったと、親切にも助言しているわけか」
「――ああ、そのとおりだ! おまえはただ一時の感傷に流されているだけのあまちゃんなんだよっ! おまえも、リヴァーサスも、どいつもこいつも!」
激昂とともに、ヒスイが叫ぶ。どこか哀愁さえも漂わせて。
(……この人は、もしかして)
カナエは初めて、彼女の感情というものに触れた気がした。
「……ああ、あなたの言うことは正しい。たった一人の個人とそれ以外の大勢、どちらを優先するべきかなんて、誰だって知っている」
そこで言葉を切って、ネフライトは最後に力強く言い切った。
「けれども、最適解はすべてを守ることだ」
「――綺麗事を抜かすな、ジャンク風情があああああッ!!」
その言葉が一体どうして彼女をそこまで刺激したのかはわからない。
しかしそれでも、これ以上ないほどにヒスイの表情が怒りに歪み、チェーンソーの刃が回転、ネフライトとカナエを共々に切り刻もうと襲いかかった。
《――ッ!》
ネフライトはただカナエを守るように抱きしめて、それを受け止めるだけ。
カナエはただ見ていることしか出来ず、それを止める力もなにもない。
「どちらも守るぅ!? 出来るか、そんなこと! 一万年も生きてきて、そんなこともわからないほどにぶっ壊れたか、ジャンクッ!」
怒りのままに放たれる斬撃たち。なぶるようにその背に何度も何度もチェンソーが振り下ろされ、火花と人工血液が散る。
耐えるように唇を一文字に結ぶ彼女越しに、それでもなお強い衝撃が襲いかかった。
《……ネフライトっ、ダメだ、このままじゃ!》
しかし攻撃が強まるほどに、カナエの身体に少女の腕はより強く、痛いほどに抱きつく。
まるで、もう二度と離さないとでも言いたげに。
「おまえは結局! 自分かわいさにくだらない感傷に浸って! 守りたかったはずのものも守れずに! ただ死んでいくだけだ!」
「――がっ」
ひときわ凄まじい横薙ぎが放たれると、ついにネフライトはカナエから引き剥がされ、仰向けに背を強く打ち付けた。
「それも、そんな醜い化物をかばってなああああっ!」
さらなる追撃、持て余した怒りをぶつけるようにその腹が何度も何度も切り裂かれる。金属製の内臓がぐちゃぐちゃと飛び散り、ちぎれた配線が火花を上げるが、もはや枯れ果てたのか人工血液は見る影もない。
「……リヴァーサス」
それでもなお、ネフライトはカナエに震える手を真っ直ぐ伸ばしていた。
しかしそれは、あと少しのところで届かない。
《……ネフライトっ!》
(……伸びろ、伸びろ、伸びろっ、これで最後でいい、これだけは掴まないといけない!)
なぜだか、そんな確信があった。
ゆえにカナエも応えるように正真正銘最後の力を振り絞り、頼りのない細い触手がゆっくりと、しかし確実にその手へ向かって伸びていく。
「無駄な抵抗だ、無意味な感傷だ、何もかもが無為だ! その手を繋いで何になるっ!」
「守りたいものを守れる。……あなたと違って!」
「――ほざけええええええっ!」
ひび割れたエンゲージリングにとどめを刺そうとチェンソーが振り下ろされる。
その瞬間、ネフライトとカナエの手が触れて、
「……準備完了」
そんなささやくような声が、カナエには聞こえた。




