最終章⑤再覚醒
【????/??/??】
『――やめてください!』
誰かが理不尽に抗うように叫んでいるのが、遠くから聞こえる。
『この子は――なんですよ! どうしてわかってくれないんですかっ!』
それは女の声。
オメガではない、まごうことなき人間の声だ。
『やめてっ、やめて、お願いだからっ! あなたはカイトたちを私から奪って、次はノゾミまで――』
《――誰か助けてっ! ……ママが、ママがっ!》
声が唐突に途切れ、そして次に響いたのは、オメガが叫び助けを求める声だった。
「……!」
そこでネフライトの意識は再覚醒し、知らぬ間に仰向けになっていた身体を一気に立ち上がらせる。
攻撃が直撃したエンゲージリングは微かにヒビが入っているが、動作に問題なし。
一方、文字通り死力を振り絞って攻撃したオメガは完全に液体と化して、黒と鈍色が渦を巻く水たまりになっていた。
《……うううう、ママぁ、ううううううう》
そしてあたりに響くのは、オメガのすすり泣きのような声。
しかし、オメガ反応は感じられない。
ネフライトは異様な現状を把握し、
「――一体何が起きているんだっ!」
声が聞こえる方向に向かって駆け出した。
「――大丈夫ですかっ!」
そうしてネフライトが見たのは、異様な光景だった。
白い部屋。
《……ママ、ママぁ、……ねえ、返事をしてよお》
小さなオメガが、腹から真っ赤な血をだくだくと流して倒れる若い女にすがりつき、すすり泣いている。……嫌でもわかる、この人はもう助からない。
「返事をしてくださいっ、お願いしますっ!」
それでもネフライトは彼女に駆け寄って揺さぶるが、やはり答えは帰ってこなかった。
「……違うんだ、私は、私は」
そしてその様子を見て青い顔をしている少女――ガーネット。
誰かに言い訳するようにうつむき、ブツブツと何かを呟いている彼女の手に握られたガンブレードは確かに真っ赤な血で染まっていた。
「……何があったんだ、ガーネット!」
彼女を見上げて、わかりきったことを訊ねる。
「違う、私はあのオメガを斬ろうとしただけで、あの人を殺すつもりじゃ」
「……これはオメガなの?」
未だに泣き続け冷たくなった身体にすがり続けるそれに視線を遣る。
たしかに見た目は鈍色のスライム、つまりはオメガそのものだが、しかしこれだけ近づいてもなお微弱にしかオメガ反応はない。
「ああ、オメガだ。……ただし」
「……ただし?」
猛烈に嫌な予感はしたが、しかしネフライトは問いかけた。
「人間とのハーフ、らしい」
どこまでも予想通りの言葉。
これでもう、状況は知らんぷりできないほどに明白になってしまった。
「……なあ、ネフライト、私は悪くない、だろう!? この女が、化物と交わった汚らわしい女が全部悪いんだ! この女が前に出てくるから! オメガなんて庇うから! そうだろう、ネフライトっ!」
「………」
半狂乱になって叫び散らすが、しかしネフライトは答えない。
そのまま続く、愚にもつかない自己正当化の叫び。
母を失ったひどく悲しげな慟哭。
それらが織りなす異形の二重奏があたりを埋め尽くす中、ネフライトの集音機構は蚊の鳴くような声を捉えた。
「――ねえ、そこのあなた」
「―――ッ!?」
そのまま声がした方向へ視線を遣ると、オメガの子供の母親と目があった。
希うような、何もかもお見通しのように澄んだ、しかして物理的に濁った青い瞳がこちらを見上げている。
「……どうせ私はもう長くないわ。だから頼み事があるの」
やはりかき消えそうなほど小さな声で、彼女は続けた。
無残なことに、子は己の泣き声でそれが聞こえていない。
「……あなたが誰でもいいの。たとえこの子の母の仇でも、ここで私と一緒に野垂れ死にさせるよりは」
そこで一度言葉を区切って、精一杯空気を集めるように息を吸う。
「……だからこの子を、ノゾミを――」
しかし最後の力を振り絞った最後の言葉さえも、
「――だから、そこの化物もオメガで! オメガと交わったような人間はもはや人間ではない化物で!! 私は何も悪くないっ!!!」
集音機構を一時的に麻痺させるほどの叫びに上書きされた。
「なあ、そうだろうネフライトっ!」
絶叫とともにガンブレードがオメガ――否、母親を失ったばかりの哀れな子供に向かって振り下ろされる。
「――いいや、違う!」
そしてそれは、同じくガンブレードにて弾かれた。そのまま、ネフライトはガーネットと対峙する。
「……何もかも違う。オメガと交わろうとも人間は人間で、そして何より、この子はオメガじゃない。いいや、オメガでもいいんだ」
「何を言っているんだ、ネフライト! 忘れたのか、私たちの使命を!」
「忘れてない。いや、今ちゃんと思い出した。私たちの使命は人類を守護し、オメガを討滅すること――なんかじゃない」
今までずっと引っかかっていたことが、やっと解決する。
最初から父さんは言っていたではないか。
『キミは、キミたちシータ・ロイドは人類を守護し、その敵を討滅するために生み出されたんだ』
「――私たちはただ、人類を守護し、その敵を討滅するために生まれただけだ」
「言葉が変わっただけだろう、オメガは人類の敵だ!」
「違う。ならば、どうして彼女はオメガと交わったんだ、どうしてオメガとともに過ごしてきたんだ」
「そ、それは――」
先ほど殺してしまったオメガの最後の言葉を思い出す。
《――ノゾミぃいいいいいっ!》
あの叫びこそは、あの一撃こそは、子を思う親の証左ではないか。
「ここでオメガと人間は確かに共存していたんだ。――そうですよね、名も知らないあなた!」
あえて呼びかけるが、しかし彼女の返答は返ってこない。それでも、続ける。
「決めました、この子――ノゾミは、私が約束どおり何を置いても絶対守りますっ!」
「――黙れ、ジャンクっ! 違う、オメガは人間と共存なんかできないっ! オメガと共存するような人間はすでに人間ではない、オメガだっ! そしてオメガこそが、人類を仇なす、最低最悪の化物なんだっ!」
しかしネフライトの言葉は通じず、現実逃避めいた叫びがそれをかき消した。
その紫紺の瞳はしかし、ネフライトではなく、なにか別のものを見ている。
(……そうか、もうガーネットは後戻りできないんだ)
いくら間違ったといえども、すでに彼女は何を置いてでも守るべき人間を自ら手にかけてしまった。
そんな彼女に正論も何も届くはずがない。
「……ならば私はあなたを、ジャンクになってしまったあなたを、姉妹として、処理するしかない!」
「そっくりそのまま同じ言葉を返すぞ、ジャンク!」
そうしなければ、名も知らぬ彼女の忘れ形見を守ることが出来ない。
そうしなければ、己のシータ・ロイドとしての自我を守ることができない。
「「――アクセルっ」」
ゆえに彼女たちは刃を交えることを選んだ。
ネフライトにとって、この日こそがシータ・ロイドとしての在り方を全く変える、運命の日だった。
そして、同族たちと戦い続ける地獄のような日々の始まりでも。
それでもなお、一度たりとて彼女は後悔していないと、それだけは断言できた。
それこそ、一万年以上経った今でも。
【二〇六〇/十/二十八】
『――だ――いっ!』
暗闇の中、少女の声が聞こえる。
それでもネフライトの身体は動かない、動けない。
『―――ないと―――ですっ!』
声がより明瞭になっていく。
しかしてそんな集音機構とは対称的に、やはり身体は動かない。
『――ヒスイ――』
どこかで聞いたことのあるような言葉に、微かにまぶたがぴくりと反応する。
それは、何を置いても絶対に倒さないといけない、忌々しい名前。
まぶたが微かにピクリと動くのは、怒りと義務感がゆえか。
『――カナエが、このままだと殺されてしまうんです!』
聞き覚えのある名前を聞いた途端、集音機構が完全に復旧する。
そうだ、その名前はとても大事なものだ。
それでも、まぶたがあまりにも重たい。
身体のすべての機構が、動作を全力で拒んでいる。
『カナエ・リヴァーサスがっ!』
叫び。聞き覚えのある名前に、ネフライトの意識は覚醒した。
(――そうだ、私はこんなところで倒れている場合ではない!)
しかしそれでも、機械の身体は、デルタ・グラフェンの身体は、どう足掻いても立ち上がらず、まぶたは開かない。
傷ついた動力炉がそんなことは無理だと、叫んでいる。
『助けられるのは、あなたしかいないんですっ! カナエだけじゃない、他の人たちだって! ここままじゃ、みんな死んでしまう! だから、助けてください!』
次いでネフライトの耳が捉えたのは、こちらに縋り付くような少女の慟哭だった。
ひどく悲壮に溢れた、悲嘆の声。
(……そうだ、私が生み出されたのは――)
何を置いても、人類を守護するためだ。
それ以外のすべては二の次。
ならば、目の前に泣いて助けを求める少女がいるならば、たとえ動力炉が限界であろうとも――
「……泣かないで」
ゆえにネフライトのまぶたは、理屈をねじ伏せて無理矢理に開かれる。
「あなたに涙は似合わない」
その翡翠の瞳は目の前で泣き伏せる少女のぼやけた像を捉え、震える右手はゆっくりと優しく、その小さなおかっぱ頭をなでた。




