第一章①森羅万象が恥じらい花は腐り落ち宝石は砕け散り星は堕ちる乙女(自称)
【二〇六〇/十/二十】
朝日差し込む六畳間、姿見に一人の美少女が映っていた。
寝癖のアホ毛がピンと立つ、ふわりとカールのかかった栗色の髪はシュシュでポニーテイルにまとめられている。触れてみると、柔らかくてすべすべ。まるで子供のよう。
起き抜けのために少しばかり寝ぼけ眼。長いまつげに縁取られた垂れ目、内包された青い瞳。最高級のサファイアさえも凌ぐ、見つめると吸い込まれそうになる大きなそれ。少し猫っぽい。
頬にほのかに紅さす白い肌。透き通るといってしまえば月並みだが、しかし今まで透き通るなどと比喩されていたすべての肌がくすんで見えるほどに白い。触り心地は滑らかで、吸い付くようにぷにぷにしている。
青いパジャマに包まれた、抱きしめたら折れそうな小柄で華奢な身体。小柄だがちんちくりんというわけではなく、手足はバレリーナめいて長い。胸も小ぶりだが、それが上品というものである。大きければいいというわけではない。
まさしく世界一の美少女、森羅万象が恥じらい花は腐り落ち宝石は砕け散り星は堕ちる乙女――カナエ・リヴァーサスが鏡に映っていた。
「……うん、朝っぱらから最高に美少女だな、わたし」
カナエは、頬をだらしなく緩めながらもそうつぶやく。
起き抜けに姿見を十分ほど見つめるという、毎朝の日課。
寝起きでも美少女は美少女であり、無防備なそれを見ることができるのは他ならぬ自分だけだという優越感に浸るための行為。
美少女は朝最初に見るものが自分の顔の時点で勝ち組なのである。
起き抜けの頭で先ほどの美辞麗句をすぐさま思い浮かぶ彼女は、それからもしばらく自らの姿をうっとりと見つめ続けた。
カナエ・リヴァーサスにとっては、いつもの朝だった。
「カナエさんだ」「いつ見てもかわいいなあ」「あ、パンツ見えそう」
秋の心地いい陽射し、木漏れ日の並木道、高校の通学路。そんな囁きや息を呑む音があちこちから聞こえ、誰もが振り返り、羨望やら恋慕やら欲情やらがこもった視線を各々投げてくる。
いつものことだ。最後の視線は主に、制服の紺のブレザーの短いスカートから覗く太ももに向かって粘つくようにねっとりと。
(……うらやましいなあ、みんな。わたしはわたしが登校するところを見れないのに)
カナエ・リヴァーサスが朝っぱらから浴びせられる不躾な視線の十字砲火に対して抱く感想は、例のごとくそんないかれたものだった。
天下一の美少女が通学路を歩みスカートを揺らめかせ白い太ももを踊らせる――そんな素晴らしき光景を見ることができないことが、本気で惜しい。
「……あれ」
己の登校風景を俯瞰する想像をしながら校舎までつくと、下駄箱の中に(この時期としては)珍しいものが入っていた。
かわいらしい便箋。ハートのシールで封されている、言うまでもないものだった。
「ららららら、らぶれたー」
思わず変な歌を歌ってしまうほどに珍しい。基本的にこの手のものは四月に自分を初めて見た相手から渡されるものだからだ。今は十月、すでに半年経ってるのに、転入生だろうか? なにはともあれ、これで百二十四回目。結局はいつものことだった。
教室につくと、とりあえずは便箋を開けて内容を読んでみる。
「……六十点、といったところかしら」
読み終わって、カナエは呟いた。
「六十点とか、声出さないほうがいいと思う。あと、おはよう」
「声出てた? おはよう、ミヤコ」
見やると、目の前の席、数少ない友人――ミヤコ・ナイキバラがこちらをジト目で見ていた。
おかっぱ頭でいつも眠そうな目をしている、小柄でおとなしそうな少女。
その見た目の通り、今日も今日とてギリギリの時間に登校している。ちょうど机についた瞬間に聞かれたのだろう。
「けっこう大きな声だった。近くの子たちもぎょっとしてたよ」
「だって、小学生かってくらい言葉が真っ直ぐで、読んでて辛かったんだもの。まあでも、そのひたむきさは評価に値するわね。そういうわけで、エントリーシートはギリギリ通過、あとは面接審査を残すだけって感じかしら。あなたも読む?」
まあ、文面が最悪でもとどめを刺すために結局は会うのだが。
「……いつも思うけど、顔以外最悪だよね、カナエ」
ジト目のミヤコの言葉とともに、朝のホームルームを知らせるチャイムが鳴った。
「大好きです、付き合ってください!」
今朝のラブレターの件。言われたとおりに昼休みの屋上にやってくると、かわいらしい少女がそう告白してきた。
艶めいた黒髪を肩まで伸ばした、少したれ目がちな黒目の、中学生のようなあどけない印象の少女。白い柔らかそうな頬が真っ赤に染まっている。
……百点満点中九十点くらいかわいい。
「でも、なんで今さらなの?」
一歩間違えれば、いや、間違えなくとも自惚れた言葉を素面で抜かす。
「……にゅ、入学したときからずっと好きで、だけど緊張して、ずっと悩んでたら!」
しどろもどろ。おもわずキュンとするような理由だった。
これで自分くらいかわいければ、思わず告白を受けるくらいに。
「そうなんだ、半年も悩んだんだね。ありがとう」
「そ、それでっ! お返事は」
「……でも、ごめんね」
ちなみに、カナエは自分を百点満点中五千点のかわいさだと考えていた。
「美少女だけを襲うスライム?」
放課後、真っ赤に染まった通学路に二つの影が伸びている。そのうち片方、ミヤコの言葉をカナエは反復した。
「……馬鹿馬鹿しい。エロゲーじゃないんだから。それで、そのスライムは服だけを溶かす謎能力を持ってるわけ?」
「本当なんだってば」
意図的なジト目のカナエに対し、ミヤコはいつものジト目でそう答えた。そして、手元の端末の液晶を見せる。
「……うえ」
そこには動画が表示されていて、夕方の住宅街のような場所でぶよぶよした鈍色のスライムのようなものが、うねうねと蠢いていた。見た目もそうだが、ノイズめいたうめき声のようなものが耳を聾する。ちょうど風景もここと似ているし、なんともホラーな光景だ。
「でも、合成でしょ? 二〇六〇年にもなってこんなものを素直に信じるとか」
こんな異世界なり未来なりからやってきたような外見の化物が現実にいてたまるものか。
「本物だよ。ほら見て、他にも色々な別視点の動画だったり、全く場所で目撃されたのがいくつもアップロードされている。中には合成もあるかもだけどね」
『スライム』、そんな検索ワードだけで、埋め尽くすかのように件の化物を映したサムネイルがいくつも表示されている。
「それで、これが現れる直前は決まってあることが起こるんだってさ」
「あること?」
「数秒の間、視界がすごい強い光に満たされるんだ。そして次の瞬間、光が晴れるとスライムが現れる。まるで最初からそこにいたみたいに」
「なんか怖いんだけど」
思わず息を呑む。それでは、まるで宇宙生物か何かじゃないか。しかしまだ肝心なところを彼女は話していない。
「……それと美少女に何の関連性が?」
「この人たち、みんなスライムが目撃された近くに住んでて、目撃された日に行方不明になっているんだ」
そう言って、いくつもの写真が羅列されたページを表示した。
「……なるほど、みんなかわいい」
当然ながらカナエほどではないのだが。
「そう、そしてこの中には、隣の市の学校の生徒も被害に遭っているってことが書いてある。カナエも気をつけたほうがいいよ」
「なるほど。たしかにそのとおりね。でも、それが本当ならばずいぶんと見る目がないわね、この化物。この程度の子たちがわたしを差し置いて行方不明になるなんて」
「その言い方は流石にドン引き」
「あら、これくらいの子ならあなたも同じくらいかわいいと思うわよ? あなたも気をつけたほうがいい」
「お世辞はいい。軽くカチンとくるから」
「いやいや、わたしがすごすぎるだけであなただって――」
十分美少女よ、そんなふうに続くはずだった言葉は唐突に遮られた。
二人の横を横切った一人の少女に視線を奪われたからだ。
美しい少女だった。それこそ、己という天下一の美少女を毎日見続けているカナエでさえも目を奪われるほどに。
ポニーテイルにまとめられた、流れるような黒髪。
釣り目がちな、長いまつげに縁取られた、虚ろでいて吸い込まれるような、エメラルドのような翠の瞳。
まるで蝋のように真っ白な肌。死人、あるいは人形のようなそれ。
肌と同じで人形めいて整った顔は、やはり無表情。
自分と同じくらいの華奢な身体を包むのは、季節はずれの半袖のカッターシャツに紺色のベストとプリーツスカート。
しかしそれとはミスマッチな黒い右の腕輪と黒のブーツ。おおよそ少女の繊細なイメージからはかけ離れたデザイン。
そして何よりも異彩を放つのは、首元の無骨なブリキのチョーカー、しかしそこに埋め込まれた青い宝石は本物めいて美しく、そのギャップがひと目で異常さを物語る。少女全体のイメージを煮詰めたかのような首輪だ。
そう、それは “まるで”というよりも人形そのもののように美しいのだが、ゆえに幽霊のような雰囲気をまとう少女だった。
ハイライトのない虚ろな瞳も、死体めいて白い肌も、整った無表情も、ちぐはぐな格好も、すべてが幽霊めいている。あるいは幻?
ゆえにここまで美しい少女が近づいてきてもカナエは横切る寸前まで気づかなかったし、今振り返ってみると現実の光景だったのか怪しいほどだった。
(そうだ、きっと夢か何かよ。だってあんなかわいい子、わたし以外いるはずないし)
「……ねえミヤコ。さっきの子、見た?」
「うん」
しかしそんな期待は見事に裏切られて、ミヤコは呆けた表情をしていた。きっと自分もそんな表情をしているのだろう。
「すっごい、すっごい、きれいだった。お人形さんみたい、ってこういうときに言うんだろうね!」
まるで感動しているかのような口調。目も輝いている。
「……わたしと、どっちが?」
気がつけば、そんなことを言っていた。
(これじゃあ、カップルみたいじゃない)
本当は世界一の美少女たる自負がほんの少し、マグネチュード0.1ほど揺らぎかけただけなのだろうが、そんな現実と比べればまだカップルの方が遥かにマシだ。
(そうよ、わたしは、カナエ・リヴァーサスは世界で一番美少女なんだから。きっとミヤコだって――)
「うーん、同じくらい、っていうか、カテゴリーが違うよね」
「……同じ」
なんとも嫌な表現だ。わたしはナンバーワンでありオンリーワンであるはずなのに。
「でも、付き合うなら、あんな幽霊みたいな子より、カナエみたいな元気な子がいいかな」
「………」
そんな告白もどきも、カナエの耳から耳を素通りしていくだけだった。
「………」
カナエ・リヴァーサスの心の中を映したかのように、電車の窓から見える空は今にも降り出しそうな曇天だった。つい先程までの夕焼けは原型もとどめていない。
ミヤコと別れた帰りの電車、そこそこ混んだ車内でカナエは取り繕う事も忘れて不機嫌な顔をして吊り革につかまっている。
(おかしい、なんであんな美少女がいるんだ)
ああ、立っているのもダルい。どうしてこんなときに限って座れないのか。世界一の美少女ではない自分には座る権利もないのか。
(……そうよ、わたしは美少女なんだ)
憂鬱な脳内にしょうもない天啓が降ってくる。そしてそのまま彼女は目の前の座席に座る会社帰りのスーツの乗客にウインクした。厳密には、その後ろに向かって。
(ああ、やっぱりわたしはかわいいなあ)
ガラスに映るのは、曇りの電車内などという世俗的で陰鬱な場所にはひどく不釣り合いな、頭に輪っかさえも幻視しかねない天使のごときウインクと笑顔。
きっとこの人はわたしに惚れただろう。わたしもわたしみたいな美少女にふと微笑まれたら、絶対に好きになってしまう。
やはり自分は世界一の美少女だ。この笑顔が、あの人形めいた少女にはない。
「あっ、あの、座りますか?」
そして予想通りの答えが帰ってきた。真っ赤な顔、うろたえた口調。
「ありがとうございます」
そう言って軽く頭を下げると、やはり美しい少女がガラスに映っている。
ああ、ふとした瞬間の自分はあまりに華美だ。
(ズルいなあ、みんな。わたしのことを外からいつでも見れる。わたしは鏡を使わないとダメなのに)
もしかしたら、みんなはわたしが見たことのないわたしの表情を見たことがあるのかもしれない。そう考えると本当に妬ましい。
だからといって他の誰かになどなれないし、絶対になりたくなどないのだが。
(だって、カナエ・リヴァーサスじゃない人生なんてありえないもの)
「……あっ、あの、座らないんですか?」
気がつけばガラスを長々と見つめていた自分に訝しげな声がかかる。
「すいませ――!」
そんな謝罪の言葉は、ガラスに映る美少女は、唐突な光で遮られた。
車内に降り注ぐ、目を閉じてもなお明るいほどの光量。車内の照明が壊れたなんて生易しいレベルの話ではない、凄まじい光が視界を文字通り遮断する。
いや、これは光であって光ではない。もっとなにか別なもの――
『数秒の間、視界がすごい強い光に満たされるんだ。そして次の瞬間、光が晴れるとスライムが現れる。まるで最初からそこにいたみたいに』
思い起こされるミヤコの言葉。
(いやいや、美少女だけを襲うスライムとかいるわけないじゃない!)
必死で考えを否定しながら、視界が晴れるのを待ちわびる。
そうだ、スライムなんてありえない。ましてやスライムが美少女を、自分を襲うなんて。
しかもここは電車内だ。わたしじゃなくても、他に美少女なんていくらでも――
(でも絶対わたしが一番かわいいし! って、そうじゃなくて!)
ただの与太話に異常な現実味が与えられて、心が容赦なく締め付けられる。
カナエ・リヴァーサスは己がカナエであることを、今初めて後悔した。
ついに非常に長く感じる数秒が過ぎ去り、
「――きゃあああああっ!」
車内に怒号で満たされる。
「何だこいつ、気持ち悪っ」「逃げろっ!」「こういうとき警察呼べばいいの!?」「おい、あの子はどこにいった!」「まさかこいつが食べたのかっ!?」
恐怖と嫌悪と侮蔑に満たされた視線が“とある一箇所”に降り注ぎ、そこを中心に人々が足早に離れていく。
《嘘、どこにいるのっ!》
とある一箇所――そのほど近くにいるカナエは怯えながら周囲を見回し、かわいらしいソプラノの代わりに、醜い甲高い叫び声を聞いた。
《―――!!》
そしてついに、カナエは阿鼻叫喚の原因を見つける。
水銀めいた、毒々しい鈍色。
湯呑を逆さにしたような、しかし不定形な形。
ちょうどカナエの身長ほどの大きさ。
何やらぶよぶよしてうごめいている表面。
とてつもない既視感。ミヤコとともに確かに画面越しに見た存在。そして今は鏡に映りながらも実態を掴めない存在。
つい先程までは栗色の髪の美少女を映していたはずのガラス窓には、グロテスクな化物――スライムが映し出されていた。
《あれ、なんで鏡に映っているのに、現実には見つからないんだろ? わたしはどこに行ってしまったんだろ?》
愚かな自分がとぼける。
《馬鹿ね、美少女だけを襲うスライムなんてどこにもいなくて、美少女がスライムになってただけよ。鏡をちゃんと見なさい、あなた。スライムが映ってるでしょう?》
冷静な自分が他人事めいて現実を指摘する。
《あはははは、そんなわけないってば。だいたい、なんでわたしがスライムにならないといけないの? どこの誰がなんでそんなことをするの? 必然性がないよ》
《さあ、あなたのあまりの美少女っぷりに嫉妬した神様のいたずら? それともあなたみたいな美少女が醜い異形に変ずることにどうしようもなく興奮する狂人の仕業? わたしにも皆目検討つかない。でも、鏡を見ればスライムになってしまったことだけはわかるわ》
《神様も嫉妬する美ってやつなのかな? あるいは美しいものを穢すことにどうしようもない背徳感を感じちゃうってやつなのかな? いくらなんでも冗談がひどいよ。狂人も神様も、カナエ・リヴァーサスの美しい見た目に干渉なんてできるはずないのに》
《……いい加減認めなさい。どうせ気づかなければならない真実なら、さっさと受け入れたほうがいい。……さっきからどこにあるかもわからない目が醜いぶよぶよな身体を見下ろしているし、どこにあるかもわからない耳が醜い甲高い声を聞いてるでしょう? ついでに、どこにあるかもわからない脳みそが現実逃避しようとしているわ》
《頑固だなあ。きっとこれは夢か間違いかドッキリなんだよ。ね、あなたもそう思うでしょう?》
カナエはそう言って、自分では微笑したつもりで、先ほど席を譲ってくれた、こちらを見て顔を真っ青に震えている彼女にうねうねと這って近づいた。別に彼女じゃなくてもいいのだが、それ以外の連中は皆、遠巻きにこちらを見ているだけだった。
『ええ。全部ドッキリですよ。あなたみたいな美少女が狼狽えるところが見たくて見たくて仕方がないお金持ちの人が企画したんです。ギャラは弾みますよ』
そんな言葉をカナエは期待していたが、
「……よっ、寄るなっ、化物! あっ、あの子をどこにやったんだ!」
しかし浴びせかけられるのは、この上なく激しい拒絶。
先ほどとは真逆、涙と鼻水と恐怖と嫌悪と侮蔑と怒りに満ちた表情がカナエを力強く睨みつける。
周囲を真円に取り囲む他の乗客たちもまた、同じような視線をこちらにぶつけていることに今更に気づいた。ただ一つ、好奇だけが継ぎ足されて。
それは、久しく恋慕と好意と羨望ばかりを注がれてきたカナエ・リヴァーサスにとって、あまりに重く苦しい。
言うなれば今まで病気の一つもしたことのない人間が唐突に喘息の発作に見舞われるようなものであり、
《――うわあああああぁxaaaaaaaAAAAaaaaaaaaaaaっ!》
カナエ・リヴァーサスの心は一気に弾けた。
不定形な身体が変形して、細長い腕のようなものが生える。そしてそれは、なおも現実逃避の続きでもするつもりなのか、周囲のガラス窓を執拗に何度も何度も叩き割り続けた。
醜い甲高い声と、ガラスが割れる高音だけが車内に響く。
しかしガラスの破片はなおも醜い己の姿を映し続け、
《違う! わたしはこんなんじゃない! わたしは栗色の髪の、青の瞳の、誰もが振り返る、世界で一番の、美少女なんだっ! きっとこのガラスがおかしいんだ! みんなの目もこのガラスのせいでおかしくなってしまったんだ!》
カナエはその一つ一つを何も映せないほどに粉々にした。
《………》
そしてついに、彼女がいる車両にはその姿を映し得る存在が何一つ消え去る。つい先程まで彼女に不躾な視線をぶつけていた野次馬たちも、もはや逃げ失せてしまった。仮にまだ存在していたら、その瞳をえぐり取っていただろう。ゆえにその判断は正しい。
《これで、わたしをスライムだと言い張るような不逞の輩はもういない。そうだ、わたしは美少女に戻ったんだ》
しかしそれでも、自然はカナエを逃さない。いくつもの水滴がそのぶよぶよの不定形な身体を打ち付ける。冷たいかどうかは、よくわからない。
《……何、これ》
それは突然に降り始めた雨。それは窓を失った車両の床に落ち、水たまりを作った。
《―――!!》
そしてカナエ・リヴァーサスは見た。
水たまりに映る、いくつもの触手をたたえた、正真正銘の怪物にしか見えない、かつての美少女の姿を。
もう、何もかも限界だった。